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感銘の一冊

2009年02月03日

日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化!

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

伊藤 洋一著   講談社α文庫  800円(税込)

 著者は住信基礎研究所の巣寂研究員だが、経済問題のテレビキャスターとして有名である。

 副題としては「アジアを引っ張る経済・欧米が憧れる文化!」また帯書きには、「次の30年は日本の時代!!」と、勇ましい言葉が踊っている。

 わざわざ著者が「日本刀ではない」と謳っているように、「日本力」とは余り聞かない言葉だが、かく示されると著者の言わんとしていることをもっとも的確に表現している言葉であろう。

 バブル崩壊後、低迷する日本経済を尻目に、チャイナそしてインドの躍進がはじまった。

加えて豊富な地下資源を武器に急成長を遂げてきたロシア・ブラジルという、いわゆるBRICsのめざましい発展の蔭に、バブル崩壊後の後遺症によって日本中悲観論が充満した。

 ところがこのバブル崩壊後の不況と言われる時代を精査すると、むしろ徐々ながら成長路線に転じた時期があったにも拘わらず、依然として日本は悲観論に覆い尽くされていたのだ。

 その後日本経済は、成長の度合いこそ違え今まで最長の「岩戸景気」を凌駕していくのだが、デフレを過度に懸念する日銀の政策で、依然としてゼロに近い低金利政策が継続されてきた。

その結果日本への投資誘導ではなく、低金利融資資金が石油などの先物に向かい、未曾有の石油高を招来してしまうのである。

 本著では、凋落著しいアメリカに代わって、世界経済の牽引力になっている日本経済の実力、すなわち「驚愕のエコ技術」に代表される精密技術や想像力を明示しながら、その一方で急成長を続けるチャイナ、そしてコリアとインドの分析から、それぞれの抱える問題点と限界を指摘する。


チャイナを覆う ディレンマ・トリレンマ

 たとえばチャイナでは、なによりも顕著になった民衆に対する指導力低下や、一向に改まらない地域間格差と、模倣商品の氾濫に見られぬ創造力の欠如が指摘されている。加えてこの国の環境汚染と砂漠化の進行はただ事ではない。

 しかも過熱する経済成長によって世界中のエネルギー資源の確保に狂奔していることや、続発する「有毒製品」や北京五輪に絡んでチベット問題の全世界的非難となっている点など、ディレンマ・トリレンマが露呈している。

 チャイナ その巨大な光と影 (参照)
  http://joumon-juku.jp/mori&hito/072.html


いびつなコリア経済

 韓国では、この国のGDPの20%強を占めるサムスン・グループの突出という異常性を指摘する。この国の企業で目立つのはサムスンとヒュンダイ(現代)くらいである。

 もし今クローズアップされている、サムスン会長の不正資金疑惑問題の去就次第では、サそのイメージ悪化や経営体制への影響だけに止まらず、この国の経済に多大のダメージを与えかねない危うさがある。

 この国の経済は、他国で稼いで日本に貢ぐというスタイルが定着している。これはコリアの製品の中に日本の技術が抜きがたく内蔵されていることを示している。

 日本を訪れた(親日家と言われる)李明博新大統領は、「日韓未来志向」を強調するのだが、日本でのテレビ出演に当たって、コリアンの心情を「(過去に)殴った者は忘れても、殴られた者は忘れない」と表現する。

 そこには過去日本がこの国に行ってきた善意の行為が一切影をひそめていることに気付けば、まだまだ手放しでは喜べない。


インドの限界

 さてインドだが、チャイナに次ぐ人口のこの国は、カーストという抜きがたい格差・階層社会によって、その富の偏在はチャイナを超えるものが現実なりつつあるのだ。

 以前紹介した「IITの衝撃」のように、
  http://joumon-juku.jp/jiji_syouron/54.html

 この国にエリートの実力は、英語圏というメリットも加わって端倪すべからざるものがあるが、この国の特徴はソフト産業に特化されている。

 なおこの国は「印僑」と呼ばれるように、商業面での実力が突出しており、例外的に製鉄業のミタル、自動車製造業のタタ自動車が注目されているが、製造技術と言うよりも、主として巧みなM&Aによって急成長を遂げたものである。


多様性ニッポンの強み

 第7章では、「世界を席巻する文化と経済」としており、理由として、「失われた産業が少ない」「産業の巾と拡がり」などを理由としている。

 併せて、先般来本メルマガで触れてきた、日本のポップカルチャーの実力とその根底にある日本人の美意識、タブーのない日本文化を取り上げているのだが、これこそ日本の持つ多様性の成果であろう。

 たとえば、「ポケモン」の市場規模は、実に3兆円あるという事実、キャラクターとして、すでにミッキーマウスなどの追随を許さない「キティーちゃん」など、日本人はもっと外に目を向け、自国の実力に自信を深めるべきことを強調している。


くたばれ悲観論!

 最後の章では「くたばれ悲観論」、あとがきでは「溢れんばかり創造性に恵まれた民族」を取り上げている。

 いつもマスコミが「負の要素」として取り上げる、少子化それに700兆円という財政赤字、GDPの低迷などについても、的確な反証材料を挙げて、「恐るるに足らず!」と喝破しているのだ。

 樂天主義者の中村には願ってもない1冊だが、もし日本経済の先行き悲観論を拭いきれない方にとっても、ぜひ「目からウロコ」の1冊であって欲しいものである。

2009年01月05日

愚者の知恵 トルストイ「イワンの馬鹿」という生き方

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

町田 宗鳳著  講談社α新書  880円(税込)

  この本を佐伯宏美さんという方から戴いた。実は筆者に町田先生を紹介して下さったのも佐伯さんで、その際にも頂戴した『文明の衝突を生きる』と町田先生の概略は、本欄でも紹介させて貰った。
  http://joumon-juku.com/books/2007_4.html

 またこの本の出版に当たっても、佐伯さんが大きく関わったことは、本書のあとがきで知ることになった。そのあたりを町田先生はこのように書いていらっしゃている。

 (前略)この本を書くきっかけになったのは、広島市在住の佐伯宏美さんとの何気ない会話でした。彼女はひたすら「イワンの馬鹿」のように家族のために尽くす、日本の家庭ならどこにでもおられるような主婦ですが、人に不思議なインスピレーションを与えてくれる女性です。今まで物語風の本を書いたことのないわたしにとって、彼女との出会いは神の恵みだったと深く感謝しています。(後略)

 佐伯さんご夫妻の生き様は筆者にとっても、お会いするだけで一陣の涼風の趣で、いつも自然と心が和んでくる思いに満たされる。

 さて、ここで紹介される『イワンの馬鹿』の他、民話の形で提示される幾つかの物語(寓話)は、絶対的平和を希求したトルストイにふさわしく、戦前に断固徴兵拒否を貫いた平和主義者、北御門二郎の翻訳に依っている。

 裕福な家に生まれながら、汚くてつらい仕事を決して厭わず、愚直で働き者で、健康なイワンには、軍人として栄光の道を歩む長男のセミヨン、商人として才覚を現した次男タラス、それに聾唖者の妹マラーニアがいる。しかも兄たちは、妹の面倒もつらい畑仕事も全部イワンに押しつけて顧みない。

 それぞれ才知に長けた兄たちに悪魔が取り憑いて、成功に持ち上げた揚げ句、今度はどん底に落とすのだが、馬鹿正直なイワンにはその魔法が通じず、結局イワンの「神様と一緒に!」という言葉でみんな消し去られる。トルストイはこのイワンの生き様に、本当の信仰のあり方を見いだしたのである。

 そして著者は、トルストイがイワンに見いだした「愛と満足の生活」の中に、キリスト教だけではなく「老荘思想」への傾倒をも見いだしている。

 また本書では、現実に我々を取り巻く社会の中にイワンの生き方を当てはめて、小細工や小賢しい言動のむなしさを指摘してくれるのだが、ひるがえって周辺を見渡したとき、たとえば「額に汗しないで儲けを考える」風潮とか、感謝を忘れて愚痴ばかりの生活とか、思い当ったり反省したりすることのあまりの多さに嘆息するばかりである。

 そのほかに、仲のよい謹厳実直な男と(イワンに似た)愚直な男の、家庭生活と巡礼の旅での出来事の話とか、生涯よい靴を造り続ける男の話、欲張って広い土地を求め、結局命を失う男の話などが、著者の解釈と教訓を交えてながら、真面目に愚直に働き、人のために尽くす(愛のために働き、愛の中に生きる)者の中に本当の幸せが宿ることを教えてくれるのだ。
 
 ここで少し本題から逸れるが、筆者なりに「チエ」について考えてみたい。なお英語に対する浅薄な知識から誤訳や思い違いなどがあればご指摘願いたい。

 まず(今まで)筆者にとっての「チエ」とは、
1. まず知識(Knowledge)を無差別にデータ(data)として集積する。
               ↓
2. データの中から、目的に沿った同方向・同系列のものを集めて、情報(Information)にする。
               ↓
3. 情報に自分自身の考察や発想を加えて醸成させたものが(自らの)「知恵」(Intelligence, Intellct)となる。

 というものであって、そこへの到達を目指してきた経緯がある。

 ところが本書を読んで私なりに感じたことは、一体筆者が求めてきた「チエ」と、ここでの“愚者の知恵”との乖離は一体何なのか、という思いである。
 結局自分なりに導き出したのは、「チエ」には、知恵/智恵/智慧の3種類があるのではないかということである。

 私にとってイワンのチエとは、今まで私が求め続けてきた、理詰めな「頭脳」からのアプローチの結果としての「知恵」など、とてもおよびもつかない「智恵」であって、本来私たちの心の中に隠されてきたものではないかという発見であった。

 いわばイワン達のそれは、(筆者なりに当てはめた)智恵(Wisdom)であって、決して理詰めなアプローチで行き着けるものではないのだ。

 では「智慧」とはなにか? これこそカミそしてホトケの広大無辺な慈悲の心であって、決して求めて得られるようなものではなく、イワンのような無垢の愚者が、その一生を終えるとき、自然にとたどり着く境地ではないだろうか。

 ただ一つ言えることは、(筆者の独断と偏見だが)この『イワンの馬鹿』に見られる心根を最も多く蔵している民族は、天然の風土・資源に恵まれ、戦(いくさ)も階層もない時代を1万年以上に亘って過ごしてきた、縄文に発する日本の民ではないか。

 たとえば「日本の常識 世界の非常識」という言葉がある。これば脳天気な日本人を揶揄するものだが、真実は「日本の生き様がいかに常識的であって、世界的な発想や生き様がいかに非常識なものか」ということにもなる。

 また現在(いま)の日本の有り様を、堕落したと嘆く向きがいかにも多いが、筆者は敢えて、(善悪上下を網羅して)「いま日本ほど多様な価値観が息づいている時代はないのだ」と、楽天的な思いを込めて──いささか場違いで書評からかけ離れているが──本書の読後評としたい。

2008年12月01日

進化しすぎた脳 (ブル-バックス)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

池谷 裕二著  講談社ブルーバックス  1050円(税込)

 この欄では06年8月に、著者とコピーライター糸井重里の対談集『海馬』を紹介したが、本書は中高生との対談という形式で、脳の(特に認知機能の)仕組みを平易に説いている大脳生理学入門書である。帯書きに「しびれるくらいに面白い」とあるが、まさに看板に偽りはない。勿論専門的すぎて付いていけない部分はあるものの、ついつい引き込まれて読み進めることになった。

 この本からは私たちは、今まで知らなかった、知らないまま誤解していた大脳の仕組みと、そこから生まれる記憶の不確かさを、「不確かだから素晴らしい」というパラドックスの中で、いつしか受け入れてしまうことになる。

 また同時に、見ることの出来ない脳の内部が、ここまでわかっているのかと言う驚きと同じくらい、(著者が)「まだほんの入り口にさしかかったところだ」と言う二律背反にも遭遇することになる。

 本書の構成は、「人間は脳の力を使いこなせていない」「人間は脳の解釈から逃れられない」「人間はあいまいな記憶しかもてない」「人間は進化のプロセスを進化させる」という4回の講座が中心で、その後に著者の研究室(東大・薬学系研究科/薬品作用額教室)の大学院生との対話を中心とした「僕たちは何故脳科学研究するのか」が加わる構成となっている。目的が中高生対象だし、質疑応答を含めた会話形式だから理解しやすくて有難い。各章で「目からウロコ」の体験を幾つもすることになるが、それをここで、的確に伝えられないことがいかにも歯がゆくもどかしい。以下特に印象を受けた点だけを紹介したい。

 第1章では、他の臓器は概して、それぞれ1つの仕事をこなすだけなのに、脳ではいくつもの仕事を行っていること、その作用は決してコンピュータのように正確ではなく、曖昧性あるいは柔軟性といえる作用の集積であることを教えてくれる。また視覚から得られる環境は、もともとそこにあったものではなく、人の脳でつくられたものだと言うことを教えてくれる。

 そして人は、(幸か不幸か)進歩しすぎた脳を持っているのだという。ただ身体は脳に命令で制御させているようだが、逆に身体の持つ機能によって制約を受ける存在でもあること教えてくれるのだ。

 また自分のどこまでが自分であることかを追求していくのだが、おそらく脳以外のすべてをサイボーグみたいに置き換えたとしても、やはり自分であることの不思議さも教えてくれる。これは前号福岡伸一の、「ごくわずかな期間にすべての細胞が更新されながら、「依然として自分である」という事実と合わせ、人体特に脳の不思議さに打ちのめされる思いである。

 第2章では、「いったい心となにか?そしてどこにあるのか」というテーマに迫る。著者によれば心はけっして心臓など多の臓器にあるのではなく、やはり脳にあるというのだが、さて脳の何処でどのように「心」が生まれ作用するのだろうか。著者によると、脳の活動は脳神経の発する電気作用と、タンパク質・アミノ酸それにイオンの移動とフィードバックという、至極即物的な作用で生まれ、特定の神経細胞が放出する脳内物質、たとえばドーバミンとか、エル・アドレナリンなどの微妙な働きで「喜怒哀楽」が生まれ、その作用が表情にも反映されるのだ。

 人特有の感情は、人が「言語を持った」ことから生まれたのだと著者はいう。言語のよって人は「抽象」という概念を会得するのだが、それによって多彩で複雑な感情が発生したのだ。

 第3章では、脳の1000億、大脳だけで140億もある脳細胞(ニューロン)が、各種の神経伝達物質を受容体に伝え且つフィードバックさせるシナプスのメカニズムを紹介し、その一つ一つの仕事は至極あいまいで伝えたり伝えなかったりしながらトータル的には適切な認識をもたらす不思議さも教えてくれる。

 第4章では、いま問題になっているアルツハイマー病の原因と治療薬開発状況に迫る。問題は、人間を実験台にすることは出来ないので、主としてマウスを使っての実験という制約がある。

 実はアルツハイマー病患者の脳の表面に老人斑が出来るのだが、そこに細胞を破壊する因子があることがわかっていた。それ以外にも遺伝によるケースなど、かなりの事がわかってきた。著者は薬学専攻で、このアルツハイマー病の解決、薬品の開発に従事しており、治療薬の開発も進んでいるのだが、こうしたたゆまぬ研究にも拘わらず、人は脳のごく一部しかわかっていないということを、脳学者の立場としてもどかしさ半分、しかも「そう簡単にわかってたまるか」という愛情半分でいることを素直に告白している。

 また著者は、いま注目されている分子生物学者の、部分部分から全体像を求めるという還元主義手法を、「分解したらわかったといえるのか」と批判した上で、脳細胞はいわゆる「複雑系」、勝手気ままに動いているようだが、意識と無意識をつなぎ、身体と脳をめまぐるしく行き来しながら、結果として脳全体の秩序を組織化し進化させているのだとし、総括として「ヒトの脳はなんのためにここまで発達したかというと、<柔軟性を生むため>の一言に尽きる」と結論している。

 第5章、大学院研究室の学生たちとの対談では、より高度な脳談義の応酬がみられる。読んだときのお楽しみのために、ここでの紹介は割愛したい。本編を通じて脳の不思議さを実感できるが、さて人が、「自分の脳で自分たちの脳のことを考えるということの不思議さ」を、今更ながら思い知らされるばかりである。
   
 ただ読書感を始め、伝えたいことが上手く出来ないことへのいらだたしさがひとしおで、本書評を書いた後のむなしさを憶えるばかりである。

2008年11月04日

生物と無生物のあいだ

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

福岡 伸一著  講談社現代新書  777円

 著者は著名な分子生物学者である。当然内容も専門分野に限定されるわけだが、こうした学術関連書籍にも拘わらず、40万部を超えるベストセラーとなったのはなぜか。一読すぐにその理由が判明した。

 名文なのである。西洋の学者に比べて文章力の面で大いに劣った日本人学者という先入観が、見事に打ち破られた訳だが、なにしろ難解で(実際には有機質なのだが、)無機質なテーマの深部に我々を引き込んで放さない。各所導入部の風景描写から実在の登場人物の心理描写を加えて、仕事内容の分析と、置かれた立場の分析や日米の研究環境の違いなども、さりげなく挿入しながら「生物と無生物の間」という本題に入っていく手法は見事と言うほかない。

 ここで取り上げられるのは、ウイルス/DNA/アミノ酸→タンパク質→消化酵素の細胞膜浸透作戦/遺伝子操作によるキメラ(1つの個体に2つの形質を備えた怪物)  などへの飽くなきアプローチの軌跡なのだが、著者の作業を始め、それぞれ大きな功績のあった人物の「人となり」やその背景に隠されたエピソードを鏤(ちりば)めながら、難解な仕組みには巧みな比喩・修辞(レトリック)を駆使して読者をぐいぐいと引きずり込んでいく。

もっともあまりに精緻な身体内部の仕組みに、著者の──たとえば「砂上の城郭」「ジグソーパズル」など──著者の比類なき比喩・修辞の妙を持ってしても、精妙な細胞や酵素などの働きを描写する上で、部外者の理解の範囲を超える部分はあるが、それは大目に見なければならないだろう。ついでだが、各章のタイトルの中で、たとえば『チャンスは、準備された心に降り立つ』『タンパク質のかすかな口づけ』『時間という名の解(ほど)けない折り紙』など、あまりに詩的であり、哲学的ではないか。

 著者はまた日米の大学研究室の大きな違いを教えてくれる。日本の持つ閉鎖性・特異性の一貫として、一つは、(千円札にもなり)我々日本人にとって医学的英雄であった野口英世の功績だが、我々が目隠しされている部分として、彼が「梅毒・狂犬病・トラコーマ・黄熱病」の病原菌を発見という輝かしい功績だけが(今でも)一人歩きしているが、当時ウイルス測定が不可能であったことも併せ、現在そのほとんどが否定されている事実がある。加えて(実際には)遊蕩癖と浪費癖で、人格的に信用がなかったらしい。ところが日本においてはいまだにその実像を隠したまま英雄野口英也が胸を張って一人歩きしている事実がある。

 さて成功と不成功の分かれ目は偶然とか運不運という、いわば「神のいたずら」がつきまとうようだ。DNAの発見で一躍有名になった、ワトソン・クリック両博士だが、実際にはその陰で、入り口一歩手前まで近づいた学者オズワルド・エイブリーや、知らぬ間にその功績を下敷きにされたまま死んでいったロザリンド・フランクリンなどを、愛情のこもった筆致で私たちに知らしてくれる。以前本欄で紹介した『ダーウィンに消された男(アーノルド・C・ブラックマン著)』における純真なアルフレッド・ウオレスに思いをいたした次第である。そこには「運がよかったか悪かったか」というギャンブルじみた運命がほの見える。ワトソン・クリックの偉業は、そうした先駆者の研究の上に成立するのだが、結局(いささか場違いな言葉だが、)「一将功なりて 万卒枯る」ことになるようだ。

 特に最近の電子顕微鏡やスーパー・コンピュータの出現以前とそれ以後では、研究環境に雲泥の差が生じることになる。このことはそれ以前の労苦の面と、今後の飛躍的な研究成果の両面で受け止める必要性を筆者は言外に指し示してくれるようだ。

 ルドルフ・シェーンハイマーが実験したのは、追跡用放射線処理した重窒素の同位元素(アイソトープ)に置き換えたアミノ酸の行方を追うというものである。それらは速やかにあらゆる細胞に行き渡るばかりか、分子レベルでの置き換わりまでがなされること、それにその消滅や入れ替わりも又めまぐるしいほどのスピードだという事実である。このことは、特にアミノ酸→タンパク質は、食事によって吸収された後、ものすごい勢いで体細胞に取り込まれ、また消え去っていくという代謝を行っていたのだ。

 言い換えると、私たちの身体は、日ならずして(骨に至るまで)全く新しい細胞にすり替わるという激しい代謝作用によって、「絶え間なく壊される(そしてまた造られる)秩序=動的平衡」で成り立ってとことになる。では脳細胞に至るまで全く新しい細胞に代わってしまった私たちは、どのようにして記憶の連続性を保っていけるのだろうか。生命を取り囲むナゾはかくも深い。

 著者が示す「生命」の定義は、「(DNAが行う)自己複製という行為」だという、一見即物的な結論だが、彼が倦むことなく微細で精妙な「生命の世界」へのアプローチを続けられたのは、決して彼が非情で冷徹な無神論的心情の持ち主だったからではない。エピローグで彼が少年時代に、チョウのサナギや、トカゲのタマゴに注いだ愛の眼が、彼が自然に生物学の世界の住人へと誘(いざな)われていった後になっても、ずっと生き続けていることがわかる。

 彼は、「生命に、生命のない(無生命)のアミノ酸・タンパク質・酵素、その秩序ある集合体としてのDNAが関わっている」という確たる信念を抱きながら、これからも終わりなきミクロ探検の旅を続けていくことだろう。

 多分この本は、科学に無関係な文筆家を目指す人にとっても、素晴らしい指標を指し示してくれるだろう。とにかく幅広い分野の人にとって、必読の書として強く推薦したい。

2008年10月02日

第三の母国日本国民に告ぐ!―日本に帰化した韓国系中国人による警世的日本論

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

金 文学 著  祥伝社  1,680円

 十二月九日、番外編の「繩文塾・忘年の集ひ」に今年もまた參加させていただいた。本來ならば、塾長恩顧の方々の集ひなのだらうが、あつかましく、かつ場所を辨へないのが小生の取り柄ゆゑ、「如何しますか」のお誘ひに、ついついのつかることと相成つた。
 飮み會ゆゑに「ここをけづれ」とは趣旨が違ふが、我が儘を承知で謂へば塾長・金先生のトーク&トークを今少し聞きたかつた。しかし、「參加賞」として戴いた「第三の母国 日本国民に告ぐ」(金文學著・祥伝社刊)を読みその想いも晴れたので、書評といふよりも讀後感を述べて見たいとキーボードを叩いている。
 結論を先にいふと、前出の「韓国民に告ぐ」、「中国人民に告ぐ」(いずれも祥伝社刊)を讀んで後にこれを讀むと著者の意圖がよくわかるのだが、それでは讀後感にもならないので先へ進める。
 「脆弱な国家体制、墮落した国民のみじめな様相」とは、よくぞ言ひきつたものであり、時代が違へば市中引囘しの上「八裂き」の對象である。しかし行間には、我が國を「第三の祖国」と筆者が言ふ通り祖國愛があふれてゐる。ただ、來日で期待したものと、目の前を去來する事象の落差に「怒り心頭」が發端ではあらうが、一つ一つの事象に具體的對應作が記述されてゐる。
 第五章で「パチンコ」が採上げられているが、私もこの問題は憂慮すべきであると思ひ續けてきた。理由はその經濟的規模である。洩れ聞くところによると、一時期は三十兆圓ほどの賣上を誇つていたともいうが、これは自動車産業に匹敵する。
 「パチンコ」とはギャンブルであり、筆者に指摘されずとも「墮落した國民」を象徴してゐる。その眞つ先に擧げられるのは「パチンコ業は生活保護受給率が高い地域ほど賣上げがよい」と言はれてきたことであり、近年では「サラ金」とリンクしていたことも良く知られてゐる。幸いにもサラ金に規制が掛かり、大手の撤退、中小の廢業などサラ金業界の淘汰と共に、パチンコ業界の賣上げも激減してゐるそうな、慶賀すべきことである。
 私は「パチンコ」もそして「ゴルフ」もやらない。それは高邁な思想があってのことでなく運動神經が鈍いことと、自身の人生そのものが「ギャンブル」(家族談)と承知しているからであり、加えて、巷で流行つてゐる「ゴルフ」はスポーツに非らずして「ちびた金をかけるギャンブル」でしかないとも考えている。
 著者は、特に若者のことばの亂れ、服裝、立ち居振る舞のおぞましさを問題にしてゐる。
ゆゑに、この本は若い世代に讀んで欲しいと思ふ。
 私たち(昭和十八年生)の世代になると、筆者の經歴を先に參照して、本文に入る前に「大きなお世話」が腦味噌を席捲し、主題まで屆かないと愚考する。
 上に關しては塾長も「最近の日本の有り様に苦言を呈する内容だとして、事実とはいえやはりいささか気が重い。」と繩文通信で吐露してゐるから、危惧する課題は同じと推察した。
 全文を讀むことがもどかしい諸兄は最終項の「日本の未来を救う処方箋二〇カ条」だけでも熟読すべし。就中、国政を預かる「政治屋」、そして主客が転倒していると事実認識に缺けた「高給(誤植に非ず)官僚」ども必讀の書と確信した。

2008年09月02日

どうする東アジア聖徳太子に学ぶ外交

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

豊田 有恒著  祥伝社新書  777円

 著名なSF作家であり、かつて(手塚治虫の)「鉄腕アトム」のシナリオライターであり、ノンフィクション作家、ドキュメンタリー・ライターであり、しかもチャイナ&コリア・ウオッチャーという多彩な活躍をする著者が書き下ろした、「聖徳太子に学ぶ東アジア=チャイナ&コリアとの付き合い方」の課外教科書である。ちなみに著者は、現在島根県立大学教授として、「東アジア問題研究」を担当している。

 日本が生んだ数少ない天才のトップにランクされる聖徳太子だが、我々はその実像に関しては、まだ低い認識度にとどまっている。たとえば有名な『一七条憲法』にしても、第一条の中の「和をもって尊しとなす」という超有名な言葉しか知らない上、それさえも決して正しく認識していないと著者は指摘する。

 第一条(読み下し文)は、
  一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 の中で、「事を論(あげつら)~」は、相談=談合でなく、議論=ディベートであって、いたずらに「和する」ことを押しつけるのではなく、徹底的に議論を尽くした後に一致点=和に到達することだと謂う。

 実は同憲法の条文のほとんどが、官僚の心得を諄々と説いていることを知らせてくれることで、官僚という人たちが、飛鳥の時代から現在に至るまで、いかに狡猾で一筋縄ではいかない存在なのかわかる。特に昨今の社保庁や防衛省の醜態に代表される官僚制度の有り様を見れば、大いに納得が行くというものだ。

 また著者は太子が、我々の想像するような、「和」を第一義とした柔弱で知的な人物」ではなく、むしろ国家元首としての誇り高い気概と矜持をあわせ持った武人であったと断言する。

 その証拠として第一に挙げられるのは、随の煬帝に送ったという「日出ずる国の天子 日没する国の天子にいたす。恙なきや」という胸のすくような言葉である。当時
アジアでは、中華の国チャイナの周辺はすべて野蛮な国であって、貢ぎ物を持って天子に拝謁し、下賜品を恭しく拝受するという屈辱的な「朝貢貿易」を行うのが常であった。いわゆる「冊封制度」である。

その中でいち早くこうした軛(くびき)を脱して、「独立宣言」したのが日本であり、聖徳太子であったのだ。聖徳太子は、こうした弱腰の屈辱的関係を嫌い、同じ天子という対等の立場を確立したのである。以来日本は、この立場を堅持してきた。それが今この国には、屈辱的・隷属的関係を指向する卑屈な腰抜け政治家が多いことか。

 著者は、6世紀当時当時今と同じく、日韓関係はギクシャクしていたことを指摘する。たとえば当時半島には、高麗・新羅・百済の他、同三国に属さぬ都市国家群として伽羅(任那)があり、日本への渡来人が多かったこともあり、いわば今の「竹島」と同じような位置づけにあった。太子が伽羅に対して圧力を加える新羅に対して取った毅然とした対応と、今の腰が引けた気概も矜持もない日本外交の有り様との間のギャップがいかに大きいことか。

 これはまた今の自本政府の、朝鮮総連や従軍慰安婦問題などへの接し方にも見られるが、一体この国はなにを生き甲斐に日本の民を導こうというのかと、著者は厳しく問うている。もっともそこに著者の「聖徳太子の外交術に学べ」という「混沌の時代を乗り切る」教訓がある。

 昨今の東アジアの情勢は、依然として軍拡を続け、しかも訓練中のアメリカ艦隊のいくつのも防備システムをかいくぐって、航空母艦を攻撃可能な位置にまで潜水艦を送り込み、軍事衛星を破壊できる能力を獲得したチャイナと、ならず者国家北朝鮮と、反日政策をとり続け、限りなく北朝鮮に接近するコリアの姿がある。

 果たして今の日本に、こうした北東アジア3国に、聖徳太子の示した「毅然たる外交」の復活があるのか、見通しは限りなく暗い。

 著者は、「核にしてもロケットにしても、国家を背負って、愛国心に支えられているからこそ、北朝や中国のような途上国でも、それなりの成果が達せられる」のだが、「日本では、軍事も愛国心も、これまでタブーとされてきた」とした上で、

 身辺に男女に絡むドロドロした軋轢、叔父である崇峻帝の暗殺などを体験して、人並みに悩んだ等身大の聖徳太子が、「後進的な古代日本を率いて、国際社会に伍していけたのは、ひとえにその揺るぎなき気概と矜持を持ち続けたからだ」と謂う。

 いま大きく変わりつつある北東アジアの情勢に即応していくために、日本に必要なのは、聖徳太子のチャイナ・コリアに対する毅然とした、しかも相手の状況をよく把握し理解した上での的確な対応に学んだ、「今日的な問題化の解決にも繋がる国家としての気概の問題」だと喝破する。

 ここらで我々日本人、いい加減で「歴史を学ぶ」ことから「歴史に学ぶ」ことにシフトすべきではないか。

    <参考サイト>
 『聖徳太子の一七条憲法』(原文 読み下し 現代語訳)
  http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm

2008年08月31日

深層水「湧昇」、海を耕す!

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

長沼 毅著  集英社新書  693円

 9月18日、NHKテレビ「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、はじめて著者を知った。肩書きは広島大学大学院生物生産学部 生物海洋学研究室の準教授で、専門は生物海洋学・微生物生態学、従来の海洋生物学から軸足を生物に置き換えた、全く新しい研究分野の第一人者である。テレビでは、高温・有毒ガスの充満する火山口などに棲む、生命発生に繋がる微生物を探して歩くフィールド派(行動学者)の姿を映し出している。

 著者はかつて、深海探査艇「しんかい6500」で幾多の深海探査に従事、特に「チューブワーム」という深海生物の生態観察で有名になった。チューブワームは、深海の熱水噴出孔付近で、硫化水素などを栄養源としている微生物との共生によって生きている、口も消化管も持たないチューブ状の不思議な生物である。

 同著は、学生への生物海洋学「講義ノート」をベースにしているとあるが、シャレや言葉遊びも交えた平易な表現で、私たちの知らなかった海洋生態圏の食物連鎖・海洋気象学、それに表題となっている「湧昇(ゆうしょう)」を始め、海流のメカニズムなど多様な知識を与えてくれる。

 日本は古くから魚食が中心で生きてきたが、世界的に見ると圧倒的少数派で、現在(牛乳・乳製品を除く)農業生産は年間約35億7000万トンに対し、漁業生産は1億3300万トンに過ぎないという。漁業は古代からの漁撈という延長路線を踏襲しているが、より以上収量を求める手段として、いま養殖(幼魚まで飼育して放流する方法と、成魚まで飼育する方法がある)という方法が採られているが、特に成魚まで飼育する方法には、環境破壊と病気の発生が大きな問題となっている。

 いま地球上には65億人という人類がおり、ごく一部の飽食社会を除き、今でも飢えに苦しむ多くの人たちがいる。しかも今世紀末には100億人を突破することが確実視されている。その時点において従来の陸上由来の食料だけでは到底賄いきれないが、今までいわば眠っていた海洋由来の食料を、「湧昇」という自然現象を活用し、且つそれに人知を付加することで、マグロで100億人が賄えるという試算を提示しているのが本著である。

 本著は陸上にしろ海洋にしろ、食物連鎖のスタートは、日光による光合成であることを再認識させてくれるが、それが陸上では草であり、それを食べる草食動物なのだが、草は有機物を消化できない。従って土中の微生物や菌類などがそれを無機質に代えたものを吸収する。そして草を消化できないヒトは、草を消化できる家畜を食べることで食物連鎖の頂点「人間生態圏」を構築している。

 海においては、川から流れ込んだ、また浅い海中で発生して光合成を行う植物プランクトンを、動物プランクトンが食べ、それを小魚や幼魚が、またそれをイワシ・サンマなど中型魚が~、最後に極相(クライマックス)としてマグロという連鎖サイクルで形成され、その過程や極相で人間生態圏に組み入れられる構図が見えてくる。そうしたメカニズムを生むのが海流であり、その循環過程で引き起こす「湧昇」という現象が、このサイクルの主役であることを教えてくれる。

 以上が「生食連鎖」と呼ばれるが、実はもう一つ「死骸・食べ残し」という、いわば陸上の生ゴミに当たる存在があり、それがマリン・スーノーになって海中を浮遊し、再び動物プランクトンや幼魚などの掃除屋に70%は食べられ、30%が深海に堆積されて行くのだが、そうした堆積物が「湧昇」という現象によって 再び海面近く上昇して、再び植物性プランクトのエサとしての発生にリユースされる。これを「腐食連鎖」と呼んでいる。そうしたメカニズムを生むのが海流であり、その循環過程で引き起こす「湧昇」という現象が、この「腐食連鎖」というサイクルの主役である。

 大きな漁場は「生食連鎖」に「腐食連鎖」が加わった恩恵の上に成り立っている。さしずめ、新車の流通という「動脈流通」と、中古車のリサイクル・リユース流通に当たる「静脈流通」とに当たると考えると分かり易い。ちなみに植物性プランクトンの必要とする栄養源は、窒素分でありリンであり、ケイ素(シリコン)というミネラル分である。

 ではなぜこの「湧昇」が海の豊穣をもたらすかだが、堆積物が持つ窒素分の再利用である。深海では、硝酸化された窒素分が、海面地殻に上がってくると、植物プランク論が光合成にとって大発生を促すことになる。これは陸上でのマメ科植物が、根粒菌の働きで地中に窒素固定を行うことと似た現象と言えるだろう。ご存知窒素分は肥料の主成分である。

 地球上には、海流の位置によって幾つもの大小「湧昇」ゾーンがあり、豊かな堆積物のあるところには大きな動物性プランクトンが育つ。例えばヒゲクジラやペンギンのエサになり、世界最大の哺乳類シロナガスクジラを生んだ南極の動物性プランクトン、オキアミは体長5センチもある。またカリフォルニア沖では、ウニやアワビを大発生させ、それがラッコのエサになって、ジャイアントケルプの大森林を守っている。

 著者によると、もしこのオキアミをマグロの味に出来たら、すぐにでも100億人は養えるというのだが、海での捕食者たちは、多くの場合サイズがその下のエサの10倍くらいになるそうだが、陸上でも同様、頂点に近づくほど個体数が減少する。
そのために、本当にマグロで100億人を養うより、「ヒトがトラを食べる」という比喩を用いて、生態系の頂点にいるマグロを食べることより、その過程にあるオキアミ・イワシ・サンマなどを食べ、マグロは100億人が祭りの日に、ご馳走として食べることで結んでいる。

 自然の力に比べて、悲しいことヒトの力はまだまだ弱小であるが、英知を絞って人工湧昇に取り組む必要を説いている。たとえば現在(いま)、ポンプによる汲み上げとか、人工海底山脈を造り上昇海流を起こそうという試みがなされているという。

 ここから敷衍すれば、未開発の海に比べて、環境問題とも絡んで陸上における耕地の開発、食料生産量は限界に近いといえる。とすればいつでもウナギを、牛肉を食べるということが困難になってくる日は近い。

 やはりウナギは土用の丑の日に食べるべきで、牛肉はハレの日という昔の生活に活路を見出すと共に、100億人時代にもなれば、もはや飼料効率の低いウシからブタ、ブタからニワトリへというように、動物タンパク源は、マグロを頂点とした海洋生産物の利用と同調して、(エサ要求率の低い捕食の中位以下の動物)例えばニワトリの肉やタマゴ主体にシフトすべき事を示唆している。

2008年07月01日

製造業が国を救う―技術立国・日本は必ず繁栄する

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

エーモン フィングルトン著  中村仁美訳  早川書房 1,995円

 実はこの本には、2つの特質すべき?エピソードがあった。本題に入る前にいささか長くなるが、紹介しておきたい。

その一、実は1円(送料は別)だった!

 いつも書籍通販で利用しているアマゾンの検索サイトで、「製造業」で探したところ、この本が見つかった。しかもそこに「21点の新品/ユーズド商品を見る」とあるので、そこを見ると、なんと1円で、評価レベル・5つ星とあるではないか!
題名もイカシているし、すぐさま申込み感銘を持って読み切った。

 安い理由の1つは、1999年と8年前の出版という点だが、アメリカ経済界を支配している、「ポスト工業化社会」と(彼らポスト工業化社会論者がすでに陳腐化したという)「工業化社会」の比較論だから、むしろ現在(いま)の方がよく分かるというものだ。

 最初に思ったのは、1円~300円というランクがあるので、心ある製造業のトップや管理者は、すぐさま買い占めて、社員に読ませるべきだということだった。

その二、実はこの本をすでに購入して読み、且つ「感銘の1冊」として紹介していた事実があったのだ!

著者が比較対象として取り上げている「ポスト工業化社会」のことを調べようと、グーグルで検索してみたところ、なんとの2000年2月に、ちゃんと自分の手で書いているのが見つかったのだ。なんたる不覚…。

 毎月の書評を収録している縄文塾HPのメニューより、
 『感銘の1冊』(2000.2)参照

 いくら7年半という昔とはいえ、きれいに記憶からすっかりと消えていることに、我ながら呆然、真剣にボケ到来を懸念している始末である。なにしろ以前読んだ記憶も、書いた記憶もが、わが脳髄から見事にポッカリと欠落しているからである。

 あわてて本棚を探してみると、確かに同じ本があった。別のところで、「過去の記憶は極力忘れようとしている」と書いたのは事実だが、感銘を受けたにしてはあまりに酷い。

 こうなっては開き直るしかない。前回よりは年月を経ているだけ、新しい結果や視点が見つかるかもしれない。ぜひ以前の書評と一緒に読んでいただきたいものだ。

 なお以下表現的には、自らの検証や思い入れを重点に置いて、同著から離脱した部分が多いことを、前もってお詫びする。

  (ここから本題)

 本著が上梓されて8年を経過している。当時バブル真っ最中だった日本だが、多くの無能なアナリストの無為無策ぶりがあらわになる中、小泉・竹中の「ぶっ壊し政治」によって、というより、お上に頼ることの無意味さを覚った製造業を中心とし
た企業の自主努力から、ようやく暗くて長いトンネルを抜けて成長度はともあれ、長さでは「岩戸景気」を上回る復活を遂げてきている。

 その後日本の製造業は、小泉・竹中の「ぶっ壊し政治」によって、と言うより、お上に頼ることの無意味さを覚った製造業を中心とした企業の自主努力から、人員整理を中心としたリストラを含め、血の滲むような努力もあって、ようやく暗くて長いトンネルを抜け、成長度はともあれ、長さではかつての「岩戸景気」を上回る成長の復活を遂げてきている。そこにはマスコミの喧伝した「情報化社会」というポスト工業化社会の華やかな姿はないものの、着実に日本の実力を発揮してきた結果といえるだろう。

 その理由は、ポスト工業化社会的思考の根源にある「株主優先・短期利益優先」という、アングロユダヤ的経営思想にあり、それが生んだMBAスタイル経営者の跋扈が挙げられるだろう。所詮この思想では、研究開発のための投資など不可能である。

 ここで「ポスト工業化社会」を再定義すると、主としてITを基盤とした「高度情報化社会」であり、金融や株式売買関連、それに物販・流通業などであろう。

 ポスト工業化社会論者が見落としたものは、いわゆる製造業も、IT武装を身につけて再登場すというシナリオではなかったか。見落としたのではなかったとしたら、過小評価していたことになる。「コンピュータ ソフトがなければ ただの箱」は、そっくり裏返せば、「コンピュータ ハードがなければ ただのゴミ」だということだったことになる。なにしろ日本が生んだラップトップ・パソコンが世界を席巻し、ディジタル・カメラの進化たるや空恐ろしい程である。

 アメリカが選択した「ポスト工業化社会」だが、その求人機能はごく低く、結局一部の特別富裕層を生んだだけで、インドやチャイナにソフト・エンジニアを外注するていたらくである。日本においては、マスコミが「勝ち組・負け組」という、けっ
たいな差別発言をして話題を呼んだが、それがあのホリエモンや村上ファンド、それにコムスンなど六本木ヒルズ住民の去就としたら、まさに虚業をもて囃し、しかも水に落ちたイヌは徹底的に叩くというマスコミのお家芸に過ぎない。

 では物販ではどうか。日本の商業コンサルタントは、なぜか安売りの王者「ウオールマート」を礼賛する。ところがこのウオールマートも、フランスの大型量販店カルフォールも、日本では成功していない。

わかりきっていることなのだが、こうした店が成長したのは、この店の存在を必要とする「低収入層」の存在が日本にはないことである。それに日本人は「安かろう悪かろう」という商品には目もくれない。そこを忘れた日本企業が、彼らとの提携に失敗するのは当然のことである。

 では「100円ショップは~」という人がいるだろう。これは価値・価格費=コスト・パフォーマンスの問題であって、100円でこれだけの価値があるから行くだけで、ここにはルイ・ヴィトンやシャネルを持つ人でも訪れるという、日本特有の価値観があるのだ。

 日本のマスコミは、IT家電のランキングとして、白物家電・携帯電話・テレビ・パソコンなどの広い分野で、日本企業の劣勢を伝えるが、本当に問題とすべきは、そうした製品の中で占める日本製部品、特に心臓部における日本製品のことも正確に伝えるべきではないか。

 最近のハイテク電化製品においても、国際分業が確立し、すべてを自国で、と言う仕組みは失われてしまっている。日本のマスコミはそれに目をつぶって、製品としての(国別)ブランドにこだわりすぎている。

 唐津一さんが夙(つと)に謂うように、表面には出ない部分での日本製品は、すでにこれなくしては世界の製造業が成り立たないと言う面を、マスコミはもっともっと強調すべきであろう。曰く「ロボット=メカトロニクス、数値管理マシーン、金型産業・ファインセラミックを含むナノテクノロジー・製造マシーンを造るシーン・半導体などエレクトロニクス部品などから、チェーン・ボルトナット・ワイアー・ファスナー、大型では造船・橋梁・耐震構造建築」などの分野まで、いまや日本の製造業なくしては、世界が回らなくなっている事実を無視してはならない。

 製造業とポスト工業企業の差は、雇用人員の数だけでなく、所得格差の差に顕著に現れている。いまや日本は、あの長いバブル崩壊を味わいながら、平均収入にしろ、雇用係数にしろ、アメリカはおろか、ヨーロッパの各国を凌駕して居ることを認識する必要がある。

 今日本は、高度成長の陰の部分といえるブルーカラーを嫌う思考から、一日も早く脱却して、真の「高度精密製造工業立国」への道を邁進すべきこと、それが決して間違いでないことをこの本は強く示唆している。

 なお今後注意すべきは、金融のグローバル化から大株主として外資の行動、すなわち株主利益の強要の傾向であろう。企業理念として、研究開発・従業員の優遇と熟練化への投資の必要性、言い換えれば、製造業界での「ジョーモニズム」を、「ネオ・グローバリズム」として認識させることに、国を挙げて取り組むことであろう。


 「軍需産業」に依存しない日本製造業の有り様を取り上げた、
キャッスルゲイトHPの中の『平和に発した日本技術論』
 http://joumon-juku.jp/gijyutu/index.html
もぜひご参照下さい。

2008年06月02日

日本の森にオオカミの群れを放て 改訂版―オオカミ復活プロジェクト進行中

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

吉家 世洋 著  ビイング・ネット・プレス  1,680円

 かつて日本の山に森に、気高いニホンオオカミ(北海道にあってはエゾオオカミ)がいた。彼らは「食物連鎖」の頂点に君臨し、われわれの先祖は、「大いなる神」として恐れ敬ってきた。ところが明治の世に到り、蕃神キリストを信じる「青い目の助っ人」のそそのかしを真に受けた日本人の手で、愚かにも銃砲で、あるいはストリキニーネなどの毒薬で、森の守り神を(明治38年=1905)絶滅してしまった。まさに「野生の殺戮」である。
 森の動物生態系の頂点であるオオカミを絶滅させることで、動物相を破壊してしまった日本人は、その後極相(クライマックス)である「広葉樹の森」を醜く攪乱して、陽樹であるスギ・ヒノキの単一林にしてしまった。昨今農村におけるサル・クマ・イノシシの被害、それに都会部でのカラスの跳梁は、すべて針葉樹の行き過ぎた植林と、オオカミ不在という、生態系の頂点を排除した結果だと言っても決して言いすぎではないだろう。
 それでも森林の方は、(日本のように湿暖の地にあっては)長時間放置すれば極相林に復元する。ところが、動物相の方はそうはいかない。ニホンカワウソも絶滅したままだし、トキ(朱鷺)やコウノトリ(鸛)でも、多大時間と費用を掛けながら、実績は遅々としてはかどっていない。日本の森での生態系の頂点にいた肉食獣オオカミ復元にあたっては、恐ろしいケモノという誤解と万一の人身事故を恐れて、積極的に論議されてこなかった経緯がある。
 本著は、私たちに、いくつもの教訓を与えてくれる。「野生の殺戮」は一体なにを生んだか。元来厚いコケで覆われていた大台ヶ原(吉野熊野国立公園)の原生林は、シカによって樹皮を食べられて、樹木が枯死したことで、差し込む日光でコケも枯死していった。またヤギだけが取り残された無人島(小笠原諸島)では、天敵がいないため異常繁殖して、いまや草のない島と化し、土砂が海に流れ込む惨状を呈しているというのだ。
 ご存じの日光でも、昨今シカが樹木を枯らす被害に頭を悩ましている。自然の巧みな生態系を無視した行為(オオカミの絶滅)によって、結果としてシカ(エゾ・ジカ)やカモシカやイノシシの増加を生むことになってしまったのだ。それに加えて私たちは、クマやサルやイノシシの食料となる、ドングリのなる広葉樹を伐採して、分別を欠くスギ・ヒノキというモノカルチャーの推進によって彼らの食料を奪ってきた。食料を奪われたかれらは、やむなく危険を冒して人里に出没し、貴重な作物を荒らす手段に出た。「野生のしっぺ返し」である。
 それでも少し前までは、あの嫌われものの野犬が横行していた。それを人はすべて捕獲し毒殺してしまったのだが、今ころになってようやく皮肉にも、嫌われ者の野犬たちが、クマ・イノシシ・サルが人里に降りてくることの防波堤になっていたことがわかってきた。
 本著の中で丸山直樹(東京農工大学教授は、「ニホンオオカミは、中国モンゴル自治区にいるハイイロオオカミの亜種で、ブラックバスなどの外来種とは異なり、日本の生態系に悪影響を及ぼす心配がない」と言い、「人間が絶滅させた(オオカミという)種の復活は責務であって、コウノトリの放鳥と似たような手法であり、しかも犬に比べて狩りが上手で、サルやイノシシをも捕らえる。抑制効果が期待できる)のだという。
 ニホンオオカミに復元には、丸山直樹が中心となって設立した*「日本オオカミ協会」という研究団体が、地道な活動を行っているが、当面の導入候補地として、尾瀬を含む日光国立公園を挙げているのだが、理由としてシカの数が多く貴重な植物の食害が深刻で、しかも公園内での狩猟が禁止されている上、自然が既に詳しく調べられているからだとしている。また日本では、ハンターが老齢化し、次第に減っていることも大きい。問題は、地元を含め関係諸機関の説得が課題だが、たとえば前述無人島での、ヤギの天敵としての実験的導入なども視野に入れるべきであろう。
  *「日本オオカミ協会」
 「オオカミが増えすぎるのでは~」という懸念は杞憂に過ぎない。サヴァンナの最強のプレデター、ライオンにしても、最速ランナーチータにしても、非捕食者がいなくなると絶滅が待っている。森の中で多くの植物群から各種哺乳類・鳥類・昆虫、それに微生物に到るまで、巧緻に構築された「森林生態系」では、当然植物相・動物相の貧弱なサヴァンナとは、比較にならない調整機能が備わっているからだ。
 丸山は、食物連鎖の頂点を占めるオオカミの能力は特に偉大だという。彼らは1つがいの夫婦オオカミと数代の子供たち10数頭が1つのテリトリーを形成する。成長した子供たちは、成長するまでにその半数は死に、数年で群れから離れるのだが、他のテリトリーに迷い込んだ子供の内、(特にオスは)半数以上がそこで咬み殺される。運と力があってはじめて、そこのボスに取って代わるのだ。
 彼らオオカミの偉大な知恵とは、テリトリーと隣のテリトリーとの間に、緩衝地帯を持っているこだという。そこでは獲物たちが安住する場所になっていて種の数を維持できると共に、未熟な子供たちにとって格好の、「狩りのトレーニング場」にもなっている。またかれらオオカミのエサは、決して健康で元気なものたちではなく、老齢・病気・ケガ・若齢であって、このこともオオカミが、非捕食者の健全なバランス維持に貢献しているのだ。オオカミのエサの残滓は、クマや(これも絶滅を危惧されている)ワシ〔鷲)やタカ(鷹)、それにフクロウなどのエサになる。それにカラスだって山に帰ってくるだろう。
 ニホンオオカミより一回り大きいエゾオオカミは、まだ生息しているといわれる同種のカラフトオオカミで、こちらも有志によって復元も計画されているようだが、出来ればニホンオオカミ保存を願うメンバーと提携しての運動が望まれる。
 アメリカのイエローストン国立公園などでは、かつてタイリクオオカミを絶滅させたため、エルク(オオジカ)が増え過ぎてバッファローの草を奪ってしまい、小型肉食獣のコヨーテが増え過ぎてアナグマなどテリトリーを奪うなど、生態系が狂ってきたことから、11年前よりカナダからタイリクオオカミを移入してようやく正常な生態系に戻り始めているのだという。
 「オオカミ復元」に立ちはだかる壁としては、(近隣住民の誤解も大きいが)もっとも強敵は「自然(動物)保護団体」であろう。彼らは鯨の徹底保護活動でも見られるように、理屈や理論でなく、「かわいそうだ」という感情論優先である。当然対象は「食べられる、かわいそうなシカであり、ウサギであり、カモシカである。
 加えて、「もし人がオオカミによって殺されたら誰が責任を取るのか」という言葉がある。人のエゴと誤解によって絶滅させられたオオカミこそ、「自然(動物)保護団体」の復元目標であるべきで、野生動物による人身被害は、北海道のヒグマ、本土のツキノワグマ、それにイノシシによって起きている。オオカミの復活は、むしろそうした被害を防ぐことはあっても、増えることはないという。
 もちろん牧畜国家のアメリカでは、オオカミ復元に当たった地域において家畜が襲われるケースもあるのだが、その被害補償を行って解決しているという。幸い日本には、アメリカのような放牧に近い牧畜農家は至って少ない。また実際には、アメリカ史上、オオカミによる人身事故は1件も発生していないという事実がある。
 森の再生とセットして、ぜひオオカミの復元の成功を祈りたいものだ。

2008年05月02日

眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

アンドリュー・パーカー 著  渡辺政隆・今西泰子 訳  草思社  2,310円

  太陽系惑星群の一つとして、地球が誕生したのが46億年前である。煮えたぎるマグマオーションが、有毒のスープと言われる「混沌の原始の海」に転じ、そこから生命が発生したのが37億年前、そして過激な酸素の発生に対応できる多細胞生物の発生を見たのが30億年前だと言われている。
 現在の地球学では、その歴史を5億4300万年前のカンブリア紀を起点として、それ以前の40億年余を一括して「先カンブリア紀」と呼び、それ以降古い地質の境界線毎に年紀を定めている。
 余談になるが、この年紀を区分する地層に刻まれた境界線こそ、その時点で起きた地球環境の大異変、あるいは多くの種、そして生命の絶滅を見た大カタストロフィーの証明である。
 (年代記 以下サイト後尾の部分参照)
 ではなぜこの5億4300万年前のカンブリア紀と、それ以前を区分したのだろうか。このカンブリア紀にいったい何が起きたのか?それはカンブリア紀になって初めて動植物の大発生があり、大進化の幕開けであったからに他ならない。予兆はその少し前の、「エデアガラ動物群」の発生であり、カンブリア紀に入っての、ヴァーチェス頁岩遺跡の化石群で有名な、節足動物の大発生である。
 なぜカンブリア紀に大発生・大進化が起きたのかについては、ダーウィンや・スティーヴン・グールドなどを悩まし続けてきた難題なのだが、彼アンドリュー・パーカーは、「すべては眼の誕生にあった」という画期的な仮説を提示する。
 今まで「眼の誕生」という現象については、的確な理論的解明が為されていなかったのだが、彼は「眼の誕生が捕食者を生み、それから逃れるための捕食者の鎧や目くらましの技法などを発達させ、それが種の大進化に繋がったのだと謂う。
 本書は370頁を超すボリュームだが、その約半分近くを割いて、生命発生からの通史に費やしている。その過程で彼は偶然3000万年前のカブトムシの持つ色彩を発見、そのほか、発光性動物の生態や理由の解明することで、遂に エディアガラ動物群、ヴァーチェスの化石群が、豊かな色彩を持っていることを突き止め、特にヴァーチェス(節足動物)化石の眼の構造を解明していくことで、眼の発達が生物の進化に大きく作用したという結論を導き出したのだ。
 カンブリア紀以前、「生と死の営み」は、光に無縁な海中や土の中で細々となされてきたのだが、それがカンブリア紀の始めになって、ようやく太陽の光の下で営むようになり、光感知のための「眼」が誕生したことで、爆発的に大進化が始まったというのが、著者の提唱する「光スイッチ説」である。
 おそらく当初は、おぼろげに光を感じ、その光を遮る「動く物体」を、かろうじて識別できる程度の眼であっただろうし、その陰の大きさや動きの早さや特徴から、それがエサなのか、それとも捕食者なのかを、なんとか判断していたに過ぎなかった。ところが、捕食と被捕食という生存を賭けた競争の激化から、「眼」の進化は急速に進み、それに伴って種の増加や進化が、爆発的に行なわれたのだと著者は謂う。
 ご存じのように、眼の存在は「見たものの識別」のために、脳の存在が不可欠であって、幼稚な脳の持ち主は、当然対象物の識別は曖昧になる。そこで眼の発達こそ脳の進化に大きな影響を与えることになったというのだが、(逆にこれを見られる側から考えると)果たして脳を持っているのかどうかわからないような原始的動・植物でさえ、優れた保護色彩や模様を持っていることに自然界の驚異をみる思いである。
 著者は「矛と盾と刀傷」という巧みな比喩で、カンブリア紀の最強の捕食者アロマロカリスは、防御用のヨロイ(硬い皮膚)を持たなかったが、その他の捕食者でもあり、被捕食者でもある動物たちは、鋭い武器と同時にヨロイも持っていたことを教えてくれる。彼の鋭い眼力は、当時の化石から捕食者の牙を逃れた傷跡を発見したことから、おそらく彼らは、その時点で自然治癒力も獲得したのだろうと指摘している。
 ヨロイと同時に彼らが身につけたものが「色」であった。目くらましのため、また脅かしのための発光システムであり、保護色や捕食者に似せた文様=擬態などであった。またこうした色彩は、日光の到達する浅い海で進化した。たとえばいま沖縄などの近海で見られる、カラフルな熱帯魚やサンゴ・ウミウシなどの、豊かな生態の起源こそカンブリア紀であった。
 目の出発点は、ものは見えないが光を感じる皮膚の斑点の誕生であり、それが内側に陥没していき、次第に高度な光検知器を形成していったのだと著者は謂う。生物進化の過程にある種によって、いろんな段階の性能の検知器が存在することになる。
 なお色彩とは、その生物や物質が、特有の「色」を持っているというのではなく、膚の構造が、(見る側の)眼の持つプリズム作用で、ある種の光を撥ね付け、あるいは吸収することによって生じる視覚効果である。
 ただ未だ脳や、目という脳の出先機関が未発達な動物や植物まで、防御に関わる彼ら特有巧みな色彩や、模様生み出す皮膚構成、形態による変身術などが、どのような仕組みで獲得していったのかまだまだ不明な点は多い。
 また光の届かない深海や、夜行性の水棲生物や地中の微生物たちの中には、光の反射ではなく、自ら発光する能力をもつものもいる。それは暗黒あるいはそれに近い世界での、幼稚な光検知器に対応しての「目くらまし」効果であり、「危険信号」である。
 眼には、単眼と複眼がある。カンブリア紀の王者節足動物は複眼の道を選び、その後魚類→両生類→爬虫類、そして哺乳類は単眼という道を選ぶことになる。それぞれ画像を結ぶ仕組みは違うが、結果としてその仕組み以上に、その後脳の進化の違いによって、視覚としての能力に大きな差がついて行ったことになる。
 われわれ門外漢には理解しがたい学術的バリアーの外側での憶測になるが、初めて大進化の根源に踏み込んだ著者の「眼」仮説は、古生物学の発展に大きな突破口を開いていったものとして、大いに賞賛されてしかるべきだろう。

2008年04月02日

日中比較優劣論

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

金 文学著  南々社   (1600円+税)

  本著で、著者が日・中・韓3国で出版したちょうど50冊目に当たる。当通信でも案内したように、6月24日(日)広島市で行われた出版記念会が行われた。

  著者は、遼寧省瀋陽で生まれた韓国系3世である。母国の東北師範大学での日本語の専攻から、日・中・韓3国の比較文化に進み、その後文明批評家としての道を歩き始め、17年前日本に留学、広島大学院の博士課程を経て後10年、広島に居住している知日派・親日派である。テレビの「サンデープロジェクト」「TVタックル」にも出演、著書も比較文明・文明批評だけでなく、小説やエッセー、古典の解説書まで、多彩な才能を発揮している。
 
 日本人は、外国人による日本人論が大好きにも拘わらず、どうも自分では「比較という視座でものを見る」ことが苦手のようで、戦時中、中国・韓国に取ってきた日本の行動に対する贖罪意識、悪く謂えば自虐意識が根強く、その裏返しとしての友好意識があり、また逆に中韓両国の対日言動に対して、深い嫌中・嫌韓の意識を持つという、2つのタイプに分けられるようだ。

 著者は、ことある毎に冷徹な日・中・韓3国の比較の目を注いでいるのだが、本著の「まえがき」で触れているように、「(たとえば)ある国で長所だとするものも、比較することでかえって短所や欠点になる場合も多いとして、

 『この意味で、私は一般的日本人に弱点と見られているものを長所と捉え、中国人に長所と見られるものを弱点として捉えたりして、「優劣論」を敢行することにしました』

 と述べている。さらに「日本人の中国に対する認識の甘さも鋭く批判している」とあるように、(公平に見つもりだが)国柄・国民性については、なべて日本を高く、両国を低く見ている感が拭いきれない。

これは日本での出版ということも作用しているかもしれないが、案外、これこそとりもなおさず、日本の方が高度な国民性を持っていることを証明しているかのように受け止めてもいいのではないか。

 ここらに問わず語りで、「なぜ著者が17年も日本に居住しているのか?」というナゾが解けてくるような気がするのだ。すなわち、血液と郷土という結びつき以上に、日本の持つ国柄や国民性が、著者を強く引きつけてやまないことを示しているように思えてならないのだ。

 第1章の「柔らかい日本」に対して、第2章に「かたい中国(の)脆弱性)」を持ってくる。著者は、日本の柔構造社会「和」に対して、中国は「闘」だと謂う。加えて韓国人については、「情」と言う言葉を当てはめるのだが、日本人の感じる「情」と、韓国の国民性における)「情」とは、受け止め方で大きな差がある。別に韓国を表現する「恨(はん)」に置き換えてみると分かり易くなる。

 また第3章の(両国民性の)「比較優劣論」でも、ここまで言ってよいのだろうかというくらい、中国の問題点を厳しく指摘している。これはある種の日本人における、対中盲目的友好意識に対しての、一種の警告ともいうべき意味合いを示しているのだろう。

 本著は又韓国にも言及して、まず地政学通り日中の中間に置いた前著『大陸根性・半島根性・島国根性』の延長線上に位置づけ、その硬直性と行き過ぎたナショナリズムに対しては、厳しい視点と批判を投げかけている。たとえば歴史認識の問題にしても、相争い、屈服・隷従させてきた側と、逆に屈服・隷従されてきた間に、共通な歴史観など存在するはずがないと斬って捨てる。大切なことは、「なぜそうした歴史が生まれたのか」という事実を、避けることなく熟視する必要性を指摘している。

 第4章では、そうした3国が抱える東アジアの持つ、深く大きい内紛(内訌)を乗り越え超克して、世界的歴史観を樹立せよと説く。全体的に日本よりむしろ、中・韓において強く取り組むべき事柄のようだが、日本は忍耐強く繰り返し繰り返し自己主張していくべきだと謂う。その点ひ弱になった日本の有り様に、むしろ切歯扼腕している感があり、最後に当たって、『日本人の国民性改造案』を提示している。

ではなぜ我々日本人は、自分たちの国民性を改造する必要があるのか。その答えを次のように考えてみた。

 同じ東アジアの国とはいえ、文中にみられる内紛(内訌)という、同一国に擬した表現を、本著では使用している。このことに、いささか不審に思われる向きもあるだろうが、今までに交わした著者との会話の中で、いま危機に瀕している「西洋発一神教」に代わるものとして、「東洋発多神教」への転換という命題があるが、(比較法にしても消去法にしても)東洋における最大の盟主候補は日本をおいてほかにはいないとしても、それには、日・中・韓という東アジアの協力・連携なくしては、アジアの時代を全うすることは不可能だといえることから来ている。

このことからも日・中・韓が、いわば西洋のEUとでも言える関係を構築する必要性に鑑みて、あえて「内紛(内訌)」という表現を採ったものと理解したい。

そのほか本著には、我々の知らないような、日・中(韓)に絡む歴史的事実を、これでもかという程提示してくれるのだが、私たちは、そうした事実を偏りなく読み取ることが肝要であり、相互理解に至る大道だと知るべきであろう。

 この日・中・韓という、近くて遠い国の関係が改善されるまで、著者の苦悩と努力は、まだまだ続くことだろう。

2008年03月15日

モノづくりのこころ

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾 div align="left">
常盤 文克著  日経BP社  1,470円

著者は元花王の代表取締役である。東京理科大学卒、米スタンフォード大学留学、理学博士と言う経歴ながら、アメリカ型NBA型経営を否定し、理科系に偏らない「思いきって理文の枠を外せ」と説き、職人の技を尊重する異色の経営者である。
著者は、日本の製造部門及びそれに付随する部門の比重が、GDPで大きな比率を占めていることを挙げると共に、課題として輸出される工業製品の内、わずか6業種で80%を占める現状(2003年度)に警鐘を鳴らし、新しい次世代型基幹産業育成の必要性を説いている。
著者はまた、日本型MOT(マネージメント・オヴ・テクノロジー)の必要性を説いているのだが、日本に於いてMOTは、
1. 理工学と経営学を融合させた教育・研究を行う大学院修士課程のプログラム
2. 企業戦略に合致した技術戦略を、立案できるエンジニアに与える資格(理工版NBA)
3. 企業に於いて技術を経営戦略に活かすことのできるマネージャー
4. 技術を中心とした経営戦略、あるいはマネジメント と幾つもの意味に使われているが、著者は日本型MOTを、(4)の経営戦略の1つとしてとらえ、次のように定義づけている。
「MOTとは、マネジメントというテーブルの中央に技術を於いて議論すること、あるいは技術を中心にして経営戦略を立案し、実施していくこと」
日本の大学院に於いて確かにMOT講座が増えているのだが、テキストはアメリカ版の直輸入が多いことを指摘し、日本に於いて職人のモノづくり意識、夢やロマン、情熱・創意工夫・やる気などに敬意を払うべきだと強調する。
著者の経歴からは異質に思える職人の技だが、たとえば幕末黒船を率いて日本に渡来したペリー提督の、次のような言葉を紹介している、
実際的および機械的技術において日本人は非常に巧緻を示している。そして彼らの道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全を考慮するとき、彼らの手工上の技術の完全なことは素晴らしいもののようである。(中略)他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼らの好奇心、それらを自ら使用にあてる敏速さによって、これら人民を他国民との交通から孤立せしめている政府の排外政策の程度が少ないならば、彼らはまもなく最も恵まれたる国々の水準まで達するだろう。日本人がひとたび文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、、強力な競争者として、招来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう。  (「ぺルリ提督 日本遠征記(四)岩波文化」
顧みれば、ペリーの予言の通り、瞬く間に産業革命を自家薬籠中のものとして「文明開化」した日本だが、先の大東亜戦争において一敗地にまみれた後、刻苦勉励によって、空前の発展を遂げた原動力こそ、職人を中心とした技術の力、すなわち(縄文に発する)「匠の技」ではなかったか。
ところがいまや、戦後高度成長に注がれた情熱は今や消え失せ、やる気を失い無気力になった若者の増えてきた現状は、その後モノづくりを3Kと卑しみ、モノづくりの前に人づくりを怠ってきたことの証左である。
著者が説くのは、東洋の古典「易経」の陰陽五行説が示す相互依存であり、「個」ではなく「集団」であり、昔の日本の姿に立ち戻ることである。アメリカ型(「個」の)経営は「晴れの日の経営法であり、日本には根付くことはない。
ただ問題は、多くの日本人が、グローバルスタンダードに名を借りたマネーゲームにうつつを抜かし、コスト面にこだわって、チャイナに製造をゆだねるという風潮である。著者は日本が、いまこそ奥深い「日本型モノづくり」に回帰することを願っているのである。
文中「知の揺らぎが企業を豊かにする」とか「独自の質に<経験価値>を加える」とか「職人型社員が製造業を支える」など、含蓄ある言葉を鏤(ちれば)める。理文の枠を大きく超えた著者の英知と教養が吐かせた言葉である。
いま多くに企業に見られる、考えられないような事件・事故、たとえば電力会社であってはならない原発での隠匿・虚偽報告などを見ると、経営のトップに、モノづくりスピリットを軽視する「アメリカ型NBA型経営者」の姿を見いだせるではないか。彼らは知らず知らず「モラルハザード」の道をひた走っているのだ。
世の経営者諸氏必見の1冊であろう。

2008年02月18日

文明の衝突を生きる―グローバリズムへの警鐘

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
町田 宗鳳著  法蔵館  2,100円

 これは14歳で家出して出家し、以後20年間禅宗寺院での僧坊生活を送ながら、その後一転して名門(ボストンの)ハーバード大学(神学部)大学院で修士課程を修了、フィラデルフィアのペンシルバニア大学東洋学部で博士号を取得した後、プリンストン大学で助教授として教鞭を取るという「破天荒」な半生を送ってきた著者の自叙伝であり、記述の各所に鏤(ちりば)められた、(仏教を中心とした)日本宗教のもとでの社会構造の生んだ明暗と、その対極(良くも悪くも)キリスト教文明の最先端にある米社会の抱えた明暗について、またそれぞれの社会の中で、錯綜し、混迷し、しかも乱高下を繰り返している精神のゆらぎについての、示唆と含蓄に富んだ比較文明論でもある。
 プリンストン大学では、学生にとって人気講座となりながら、大学(と言うより)アメリカ教育界の有り様とのギャップなどからも窺い知れるアメリカの限界が契機なのか、同著を書いた2000年には、一転シンガポール大学の日本研究科準教授、その後東京外国語大学教授(01~06)を経て、現在は広島大学大学院総合科学研究科教授、週末は福山市郊外の「ミロクの里」に小庵を構え、非僧非俗の暮らしを送っている。
 我々は本著によって、葬式仏教に堕した日本仏教界の中に残された、唯一高潔な戒律を守る宗派と思ってきた禅宗すら、世襲や妻帯など世塵にまみれており、しかも修行の場ですら妬みやいじめの存在するミニ社会であったことを知ることになるのだが、そうした現実が著者をアメリカという未知の世界に誘(いざな)った原動力の一つであった。
 著者のアメリカでの生き様を読み取れば、生半可な体力や神経では到底耐えられないほど厳しいものであって、当初語学のハンディに加え、日本における論理的手法を欠如した宗教学と、多方面から知的アプローチ・分析・比較を厳密に行うアメリカの宗教学との間に横たわる、決して埋められぬことのない乖離にチャレンジしながら、自らの宗教観を確立していく著者の行動力・知識欲に圧倒されるばかりである。
 一方そうした著者に寄り添い、二回の難産にも耐え抜いた、決して頑強とは言えない夫人の生命力の凄さに、むしろ戦慄すら覚えるほどだ。
 著者は自叙伝的記述の中に、日米の比較文化論をさりげなく織り込んでいくのだが、ある面では日本の状況を擁護し、また批判しながら、同じスタンスで平等にアメリカの問題を指摘している。
 たとえば著者は、(文明の)「アフリカ的段階」から「アメリカ的段階」という表現をしているように、アメリカ文明が決して文明の終着点ではないことを強調し、息の詰まる日常生活のカタルシスの一例だとして、アメリカのドラマに見られるカーチェースと銃乱射のシ-ンの多さを挙げる。現在注目を集める複雑系」あるいは「カオス理論」なども、こうした文明社会を背景に生まれたとも謂えるのではないか。
 もっともこれは、戦後60年以上平和国家として生きてきた日本に於ける、殺戮をテーマとしたテレビゲームの普及にも言えることだが、その辺り3D技術の進化が可能にした、グローバルなヴァーチャル・リアリティの恐ろしさを痛感させられる。
 著者はまたアメリカが口にするグローバリズムの欺瞞性を、大航海時代世界に進出していったキリスト教宣教師たちの愚行とオーヴァーラップさせながら痛烈に批判するのだが、その背景にある、善か悪・黒か白、右か左という二元論によって、世界の平和や安寧がもたらされると思うのは幻想に過ぎないことは、中東の有り様を見れば明白である。なにしろその裏にはしっかり「商業主義」が根を張っているのだから。
著者は謂う。
 本当のグローバリズムとは、「徳島人は阿波踊り、花巻人が鹿踊り、アイヌは鶴の舞を踊ることが(明恵の謂う)「あるべきようは」の世界なのである。徳島人も、花巻人も、アイヌも、アメリカ風のディスコ・ダンスしか踊れなくなれば、「一切悪しきなり」と言ってもよいだろう。
 また西田幾多郎の言葉を借りて語れば、として、
 「アメリカ的段階」は、主体的で、意識集中的な生き方が尊重され、自我が前面に打ち出された「主語的世界」であり、それとは対照的に何事につけ曖昧な日本人は、「場所的」で、下意識的かつ拡散的な「述語的世界」に生きているといえよう。
 この指摘は奇しくも先月、同欄で紹介した、モントリオール大学金谷武弘教授の、『日本語には主語は不要』という説と見事に重なり合うことに、偶然以上のなにかを感じてしまうのだ。
 サミエル・ハンチントン『文明の衝突』は、日本文明を独立したものと認めながらも、『日本語版への序文』の中で、「日本は自国の利益のみを顧慮して行動することも出来るし、他国と同じ文化を共有することか生じる義務に縛られることがない」とした上で、第二次世界大戦以降のアメリカと、今後発展が続くと見られる新興覇権国中国との狭間で、今後どちらに付くかの選択や対応に迫られる、という問題にぶつかるだろうとしている。
 ハンチントンさえも安住している(アメリカかチャイナかという)西欧的二元論な視座に立った発想からは、決して迷路の出口は見つからないのは当然だが、彼にこうした予告をさせる、今までの日本の生き様に対する反省に立って、これからの日本の有り様と展望にというて、本著は一つの示唆を与えてくれるようだ。
 つまり、現在曲がりなりに多神教という平和な宗教観を持っている唯一の先進国日本の採るべき道こそ、虚偽と打算と非妥協に満ちた似非グローバリズムに代わって、真実と思いやりと共生を基底とした本物のグローバリズムの実現ではなかろうか。

★町田 宗鳳のホームページ
  http://home.hiroshima-u.ac.jp/soho/

2008年01月08日

主語を抹殺した男/評伝三上章

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
金谷 武洋著  講談社  1,785円

 本著の帯紙には、表紙側に大きく、
『日本語に主語はいらない』とあり、小さく「日本語文法を/英語の呪縛から解き放った/天才日本語学者/初の本格評伝」とある。

 またその裏側には、
 日本語は非論理的な言語ではない。文法が英語と違うだけだ。日本語の文法構造を初めて合理的に解明した三上文法。その先駆性ゆえに長らく不遇を託っていた『街の語学者』の生涯を、カナダ在住の日本が学者が敬愛を込めて描く。

 と書かれている。考えようでは、これで全て言い尽くしている感がある。以下この帯書きを脳裏に入れて読んでほしい。

 著者は東大教養学部でフランス文学を学び、国際ロータリークラブの奨学生としてカナダ・ケベック市のラヴァル大学に留学するが、数多くの外国語クラスを渡り歩く内に、次第にランス文学よりも「言語学」の魅力に取り憑かれていく。

 その内に日本語の講座を受け持つことになるのだが、そこで(印欧語族と呼ばれる)フランス語や英語などと、日本語の間に横たわる大きな氷山に遭遇して頭を抱える。なにしろ理論武装として欠かせない日本国語教育の指針や指導要綱などがまるで通用しないのだ。

 外国語と日本語を、相互置き換えるという場合、当然直訳ではなく意訳するという作業が必要になる。著者が最初に突き当たった壁は、たとえば「ジュ・テーム」 とか「アイ・ラヴ・ユー」という言葉を日本語に置き換えようとすると、「私はあなたを愛します」としたら、文章なら悪文そのものになるし、第一日本人が愛を囁くとき、誰もそんな野暮くさい言葉など決して使わないではないか。

 多くの事例を通じて、まさに氷山に突き進むタイタニック号乗組員の心境で困り抜いていた著者に、日本の友人から送ってくれたのが、三上章の、『現代語法序説』と、『象は鼻が長い』という変わった題名の本であった。ここで著者は、初めて「日本語には主語はいらない」という画期的な理論に出会って、その疑問は一挙に氷解し、目からウロコを何枚も落とした彼は、たちまち三上章理論と、それを書いた三上章個人に傾倒することになる。

 その後モントリオール大学に移った著者は、修士論文にこの「日本語主語不要説」を選ぶことになるが、その時の指導教授から、「(主語不要という)日本語の構文は、西洋の(ギリシャ語・ローマ語など)古典語に似ている」と指摘され、日本の国語文法学者が指標としてきた現在の英語・仏語などの文法概念が、決して普遍性を持たないことを知る。こうした経緯を経て、ますます三上章に傾倒していった著者は、どうしても彼の生涯を追ってみようと決意することになった。その成果が本著である。
 
 三上章は、1903年高田郡(現在の安芸高田市)甲立村で生まれで、没年は1971年、すでに死後36年が経過している。三上は和算研究の数学者であった叔父三上義夫の薦めに従い、京都三高の理科甲類からの建築学科に進む。ちなみに三高時代の同級生に今西錦司、1級下に桑原武夫がおり、その後も長く交流を続けていた。

 北海道出身でしかもカナダ在住の著者から、図らずも広島県出身の偉大な学者の存在を知らされることになった次第だが、ただ三上章が広島に住んだ期間はごく短く、広島市の修道中学で数学の教鞭を取ったも、ごくわずかの期間に過ぎない。

 東大卒業後は幾つか屈折を経たあと数学教師の道を歩み、その後は一貫して数学教師を続けながら、天職とも言うべき日本語文法の道を進んだ変わり種で、生涯「街の語法研究家」という立場で過ごした。その間幾多発表した論文も、結局偏狭な日本の国語学会において認められることはなく、さりとて反論もされず黙殺・無視され続けるいう不遇な生涯を送くることになる。

 著者が2003年から3回に亘って帰国し調査した「三上章の生涯」は、この一冊に圧縮され集約されているが、「評論」と謳ってはいるものの、さすがに言語学者、三上に対する敬愛の念が書かせた優れたノンフィクション作品の趣があり、近づきにくい文法という題材を扱いながら、平易な表現で一気に読ませてくれる。

 三上は一生結婚しなかったが、彼の研究は妹茂子の献身的な存在の支えがなければ決して成功しなかっただろう。それほど妹茂子の存在は大きかった。 著者は執筆に当たって、茂子の驚異的な記憶力と文献の保存などに大いに助けられたとして、本書を三上茂子に捧げている。
 
 また著者は、三上の生き様を幾人かの有名人と重ね合わせているのだが、その一人が国学の先駆者、僧契沖であり、もう一人はロンドン留学で神経を病んだ夏目漱石である。

 晩年67歳の時請われて勇躍ハーヴァード大学に行くのだが、なぜか妹茂子が同行していない。もともと病弱の上、一切家事の出来ない晩年の三上にとって、慣れない外国での生活、到着時からすでに悲惨なものであった。結局心身共に疲れ果てた三上は、わずか2週間の滞在で自ら「敗北宣言」して帰国する。彼が亡くなるわずか1年前のことである。

 著者によると、世界の日本語熱はすこぶる高く、(2002年の段階で)海外127ヶ国・地域での学習者は、実に235万6745人に上るという。これにテレビやインターネットでの学習者を加えると、それこそ膨大な人数に上るのだが、そうした人たちに対する日本語教材として、いまだに適切とは言えない教材と教師に多く依存しているという問題がある。

 本著は三上章の優れた評伝であると同時に、「学閥や古い理論に凝り固まって新しい才能の台頭を許さぬ、日本の既成学界に対する痛烈な批判」と、「ここらで硬直した文法呪縛を解き放ち、三上文法に依拠した『主語不要日本語文法』普及が急務」であることを、われわれに、また日本語指導に行き詰まっている教師たちに指し示してくれる。 



 <付 記>

 三上章と叔父義夫とは、それぞれ海外で認められ、死後国内でも評価され、その著書がロングセールを続けるという因縁的共通点を持っている。考えようでは(文字通り)「以て瞑すべし」とも言えるが、ただ叔父三上義夫の「そろばん碑」は広島市に建立されたものの、三上章の顕彰碑はまだない。

 ちなみに著者が住むモントリオール市は、1998年に広島市と姉妹都市縁組を締結しているが、その際通訳として立ち会った縁もあるところから、最近始まったメール交換の中で、著者より中村に、「三上章顕彰碑の実現に一臂の助力」の依頼があったことをお伝えしたい。    

 

2007年12月10日

インテリジェンス 武器なき戦争

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
手嶋 龍一,佐藤 優 共著  幻冬舎新書  777円

 ここで言うインテリジェンスとは、世で言う「スパイ」と同義と思っていいだろう。
手嶋 龍一はNHKの海外特派員として活躍、特にワシントン勤務中に東西冷戦の終結を迎える。

 のちにその時代の問題を書いた、『たそがれゆく日米同盟』『外交敗戦』などのノンフィクション作品が認められて、ハーバード大学国際問題研究所に迎えられる。その後ドイツのボン支局長、再びワシントン支局長を経てNHKを退職、ノンフィクション・インテリジェンス小説家として脚光を浴び今日に至る。
 
 一方佐藤 優は、ノンキャリアながら外務省切っての情報分析プロフェッショナル、特に屈指のロシア通として活躍する。ところが2002年、背任と偽計算業務問題の容疑で起訴され、現在同省を休暇中だが、この逮捕劇を「国策捜査」と断じて、『国家の罠」を上梓、一躍ベストセラーに躍り出、その後外務省のラスプーチンと呼ばれて、出版に講演に対談に多忙な日々を送っている。

 この異色の二人が、インテリジェンスの神髄を語るのだから、息も継がせぬ迫力感で一気に読ますのは流石である。いわば実力伯仲の格闘家が、その持てる攻撃と防御の技を駆使して、お互いに一歩も引かぬ攻防を繰り返す様に圧倒される思いだ。

 我々素人は、スパイとかインテリジェンスというと、すべて同じもののように思いこんでいるが、佐藤ラスプーチンによると、戦前のスパイ養成目的の中野学校の「秘密戦」という分類では、
  1.積極的「諜報」=ポジティブ・インテリジェンス
  2.「防諜」=カウンター・インテリジェンス
  3.「宣伝」
  4.「謀略」
の4つに分類されるのだという。佐藤ラスプーチンは、日本のカウンター・インテリジェンスはかなり高度なのだが、その他こうしたインテリジェンスに沿った仕組みや、系統だった組織、統率する機関がなく、しかもそれぞれ縦割りの弊害、必要とする上層部にスムースに届かず、しかも日本には教育機関がないため、適材が育っていないと指摘する。

 特にポジティブ・インテリジェンスにしても、映画で見るようなスパイ活動でなく、必要とする事項は、新聞などに掲載される記事からだけでも、かなり多くの収穫を得られるのだと指摘する。それと当該国の重要なポジションにいる人たちと、いかに親密になれるかということが重要で、しかも彼らの発言から、いかに「言外の意味」をくみ取る能力があるかが重要なのだという。

 そのためには、金額は別として、自由になる機密費が必要だというのだが、さてみみっちい日本のマスコミやそれに踊らされる国民が、それを是とするかどうか、例えば今回安倍内閣が熱望する日本版NCS構想にしても、もっとも配慮すべき問題であろう。

 ワシントンとロシア(モスクワ)と、真反対に位置しながら、それぞれその存在を早くから認め合ってきたことが、この対談の各所で伺われ、お互い共通した判断を示すことに驚かされる。

 とは言えすべてが納得ではなく、手嶋が佐藤の判断ミスを指摘する場面もあって、息を呑む思いがするが、佐藤はその挑戦を正面から受けて一歩も引かない。

 最後に両者は、日本版NCS構想に触れるが、両者ともそうした機構構築以前に、少なくとも200名くらいの専用スタッフの充実と教育を提言する。機構が先行すれば、主導権を巡って警察庁・防衛庁、それに外務省などの綱引きが行われ、関連各省庁は、情報の提供を渋るという「縦割り構図」が避けられないと警告している。

 確かにその弊害を指摘する声も多いが、特に優秀なインテリジェンス・オフィサーの選定が急務であり、佐藤ラスプーチンは、最適の人事トップ・オフィサーととして手嶋を推挙している。さて安倍首相が、この本を読んで感銘を受けていればいいのだが。

 それにしても、この佐藤優そして手島龍一というポジティブ・インテリジェンス・オフィサーとして得がたい2人の人材を、日本という国がそして安倍首相が、果たして生かして使いきれるか、そこに日本とアメリカの揺るぎない連携と、北方四島問題を含む、対ロシア交渉の鍵が隠されていると思うのだがどうだろうか。

 

2007年11月05日

島国根性大陸根性半島根性

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
金 文学著   青春出版社  788円

  日・中・韓三国の比較文化の若手研究者である著者の、3国で出版した42冊目に当たる比較文化論である。韓国系3世で日本語文学を専攻した著者は、在日期間10年以上を経過している。歯に衣着せぬ表現で、本国チャイナでは、2冊の著書が出版拒否にあっている。

 我々日本人は、往々にして西洋との比較を行ってきたこともあり、同三国の比較文化論は極めて貧弱である。氏は日本人特有の性情であり、社会構造だと思われ勝ちな「甘え(の構造)」(土井健郎)「縦割り社会」(中下千枝)だが、前者はコリア、後者はチャイナで顕著であると指摘する。

 まず著者は、「なぜもこの三国がすれ違いを繰り返すのか」について、「非同一文化圏」であるという認識を持たなければならないと説く。それはまず日本が採集から農耕に進んだ湿潤の国であるのに、この両国は狩猟から遊牧に進んだ文化圏なのだと謂う。

 我々が、遊牧民の文化として拒否してきた「宦官・纏足・抱擁という挨拶」などは、「湿潤の国にとって、いずれもふさわしい手段ではなかったから」という新しい見解を表示して驚かせる。

 著者は地政学的見地から、大陸のチャイナと島国の日本との中間がコリアの位置づけだと言うことを、この国民性の面から見ても当てはまるという。例えば両国の人たちが日本に来て一様に驚くのは、川の水が綺麗だということで、濁流のチャイナと中間的なコリアをそこに見付けている。すなわち日本とチャイナを対極に置き、その中間がコリアだとする。

 昔から今に至るまで、チャイナはいわゆる「中華思想」から一歩も抜けきれなかったが、コリアは小中華を自負する事大主義に取り憑かれ、日本はいち早く聖徳太子の時代に「脱チャイナ」を宣言している。

 我々は「日本人は愛国心がない」と言って嘆くが、実際にはチャイナの人たちは「生まれ変わったら~」という設問に、中国人になりたくないと答えた者が(1万人あまりのアンケートで)64%もいたということが話題になった。おそらく日本人は100%近くが、また日本人に生まれたいと答えるだろうとことから見ても、愛国心は日本人が高いのだと教えてくれる。勿論コリアンはその中間と言うことになる。

 たとえば「和の国・闘の国・情の国」とか、チャイニーズはなぜ痰を吐くか?とか、自然に対するそれぞれの違いとか、我々の知らない両国の姿も垣間見せてくれる。その一方で、両国を驚かせた日本の神々について、古事記に出る「屎(ふん・くそ)尿(にょう)の神」の存在で、日本では排泄物にまで神を見るという異常さに、農耕文化と遊牧文化の違いを強調する。彼らにとって糞尿は、悪口の具でしかないのだ。

 最後にショートSFストーリーで、宇宙人が日・中・韓の人たちをある星に移住させる話で締めくくっている。始めはリーダーを選ぶのに全く収拾がつかない中で、妥協して(中間である)コリアンを選出するのだが、数十年経って相互の混血が進んで、次第に融和することになる。

この一種の寓話は、三国の強調には長い年月と相互の交流が必要だということ、そしてそれを実現するために、忍耐強く相互交流を図る必要があることを示唆している。

 また著者は、この三国共通のシンボル・マークとして、韓国の有名な文化人李御寧(イ・オ・リョン)氏との対談から、すでに効用を失った漢方薬的「漢字圏・儒教文化圏」に代わって、「梅花文化圏」という認識を提起している。

 我々日本人は、この若い親日家の優れた比較文化論を、真剣に読み解く必要がありそうだ。

2007年10月20日

日本を動かしてきた歴史 談合主義の功罪―「世界標準」という外圧にどう立ち向かうか

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
豊田 有恒著   青春出版社  960円

 防衛庁の談合事件から橋梁・汚水処理施設・国交省の水門施設官製談合、それに福島・和歌山・宮崎各県知事による談合3兄弟が一段落したと思ったら、マスコミの報道の過熱もなんのその、またまた名古屋地下鉄建設に最大手ゼネコンの談合疑惑が大きく浮上し、しかも高速道路建設問題にまで飛び火したようだ。
 マスコミも国の関係筋も、ただ「談合は悪」と決めつける前に、「なぜかくも根強く談合が起きるのか」という根源から、見つめ直す努力を行わなければ、この問題は簡単に解決するものではないし、対応次第では。将来の禍根を残す重大事であることを同著は教えてくれる。
 著者は「談合は古事記の時代から存在し、また卑弥呼も談合で選出された女王だった」のだという。八百万の神々が集まって、「天の岩戸」に隠れた天照大神をどのようにして出て貰うかを相談(談合)しているし、倭国が乱れに乱れた際、男の王では駄目だと言って女王に卑弥呼を選ぶのだ。
 日本人はそうした相談事を議論(ディベート)と錯覚し、「論議を尽くした」と思いこんでいるが、これは厳しい論議・論戦を戦わす世界的風潮からはあまりに異質で、いい加減なものだといえるだろう。
 (理屈で考えても)水と油である自民党と社民党が、連立政権を組む奇っ怪さ、そのために主義主張をねじ曲げても平然としている国柄の中で、「談合は悪」を云々する矛盾に気づかず、休刊日や購読料を談合で決め、他社を排除する記者クラブなど、いわば談合の産物を当然だとしているマスコミに、談合を語る資格はない。
 著者はこうした日本的慣習にメスを入れ、世界に開かれた日本になるためには、もう「和を持って尊しとなす」から決別しなければならない」と説く。
 たとえば、著者は「談合」体質のモデルとして、外国のスポーツ競技に見られない「物言い」とか「死に体」という判定など相撲の世界を挙げる。それでもこうした「日本の常識 世界の非常識」という社会構造下で、日本経済は世界で頂点に達することが出来た。ところがトップを目指して牽引車の役を果たしてきた官僚が、最先頭を走る中で、目標を見失ってしまっているのが現状である。
 かつて世界最高のテクノクラートと呼ばれた日本の高級官僚は、今や日本の成長の足を引っ張る有害な存在に堕落したのである。「天下り」という「談合再就職システム」や「省あって国なし」という縦割りセクショナリズムからの脱却がなければ今後日本が世界中の厄介者になり果てることを著者は危惧する。
 著者は「滅亡日本を防ぐ2つの手だて」として、まず談合の撲滅、それに官僚の罷免権を政府が持ち、確実に実行することだ、という。問題は談合の撲滅だが、最初は官僚の「天下り」の撤廃から入ればよいし、絶対に責任を取らない官僚を、過去に遡って罷免はおろか罪に問うというという、断固たる姿勢を示すことが喫緊の急務であろう。
 付記:出来れば、筆者HP<キャッスルゲイト>より、下記拙稿『時事小論』の中の“談合は何故なくならないか?” (1~4)プラス番外編も、併せてお読み下さい。違う側面で「談合」に迫っています。

2007年09月03日

ガイアの復讐

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
ジェームズ ラブロック 著   秋元 勇巳 訳      中央公論新社  1,680円

 現 地球温暖化についてあまりに多くの人が語ってきたが、凡百の論者の言葉より、この人ジェームス・ラヴロックの言葉だから、グサリと胸に突き刺さるものがある。

 「地球は1つの生命体である」というあまりに有名な彼の、衝撃的な「ガイア理論」は、1979年に『地球生命圏』として発表されるや、当時多くの専門家・学者からは非難と侮蔑の声、あるいは無視するという手厳しい態度で迎えられながら、一方魂の世界に回帰しようとするニューエイジ・ニューサイエンティストからは熱狂的に迎えられた経緯がある。

 地球すなわち「ガイア」という生命圏には、空中酸素量とか海水の塩分、それに気温など、われわれの身体に置き換えると体温や血液の濃度、血圧・脈拍・酸:アルカリの比率などなど、生命を維持するための「ホメオスタシス(恒常性維持機能)」(サーモスタットに似た、正と負のフィードバックシステムとか、何気なく歩行したり、ただ立っているようでも自然にバランスを取るっている微妙なメカ二ズムとして「サイヴァネティックス(自己調整機能)」というシステムが備わっているのだという。

 特に還元主義者と呼ばれる、全体像をいったん解体して、細部から探求のメスを入れ、それを再び全体に組み立てるという手法を採る学者たちや、特にダーウィンの後継者たちは、こぞってナンセンスの声を上げた。それほどラヴロックのガイア理論は衝撃的で、いままで科学通念を打ち破るものであった。

 彼の「地球圏という生命体」なる突飛な?理論に対して一斉に反発したネオ・ダーゥイニストたちが、討論の相手に送ったのが「利己的な遺伝子」で有名な行動生物学者、リチャード・ドーキンスである。

 ラヴロックは、彼との討論の中で、いつのまにか相反するドーキンスの(見事な話術の術中に嵌って)説に肯定する自分を見つけて愕然とし、その後一層の理論武装に取り組むことになる。

 たとえば「利己的な遺伝子」によって進化したと唱える、彼らネオ・ダーゥイニストたちが、「動物の排尿」がガイア理論の利他的なシステムにどう関係するのか」と揶揄するのだが、彼ラヴロックは、「もし尿素を大切な水分やエネルギーと一緒に排泄するという無駄をせず、呼吸によって窒素として排出したとしたら、植物は一切育たなかっただろう」と反論する。

 考えてみれば、多くの森に住む動物たちの排泄物もそうだし、遡上したサケなどもクマのエサになり、その排泄物や死骸もまた「利他的な遺伝子」によって森に還元するという行為を行っていることになるのだと言えるだろう。

 彼はすぐれたセンサーなど精密機器の発明・製作技術者であり、現実行動派であって、膨大なデータを駆使して理論の裏付けを行う科学者でもあり、ガイア理論は緻密な理論上の裏付けを持ってきたところから、彼の仮説は、最近次第に世界的通念として定着する動きが顕著になってきている。

 たとえば、かつて概念と捉えられていた「ガイア理論」は、その後彼自身コンピュータを駆使して、「デイジー(ひな菊)ワールド」というヴァーチャル・モデルをつくって、植物が太陽熱に対応する温度調整能力を証明したり、各分野の専門家の協力も得たりして、着々と強固な理論武装を遂げ、次第に世界的に認知されることになったのだが、彼のあまりに広範な理論の広がりに、多くの科学者は学際を越えることが出来ず、対応できないこともあって、グローバルな科学的コンセンサスを得るまでには至らなかった憾みがある。

 昨今異常気象による天災が続発し、環境汚染が進行する中、その要因として温暖化問題が急激に論議され、防止策として京都議定書策定の遵守や発展途上国も包含した見直し論も浮上するなど、各国の思惑と利害関係が絡み合って、いたずらに時間だけを浪費している感があるところに、この1冊は痛烈な一撃を与えることになった。

 例えばラヴロックは聖女マザー・テレサの発言(1988)「貧しい人々や、病める人々のために尽くすことが私たちの務めなのに、どうした地球のことを気にかけていられるでしょう。それは神のなさることです」という発言に対して、

 「実を言えば、神への信仰も、現状維持への信頼も、持続可能な開発という方針すら、われわれの真のよりどころにはなってくれない。もしわれわれが地球を大切にしなければ、地球は自分の身を自分で守るために、人間を暖かく受け入れるのを間違いなくやめるだろう。信仰心に篤い人々は、地球という故郷を見つめなおし、神が創造したこの聖地を人間が汚してしまったと考えるべきだ。  (後略)」

と問い返している。

 またラヴロックは、「温暖化は、ガイアの発熱である」と表現して、いまや増えすぎた人類による地球虐待の傷は、ガイアの自然治癒力を大きく上待っており、このままでは間違いなく地球は回復力を失って、5500万年前の到底人の住めない高温期に突入すると警告する。

 彼はすでに化石燃料の使用は極限に達しており、あらたなエネルギー源に大きく舵を取るべきだと指摘した上で、少しでもガイアの延命を図るためにエネルギー源として、なにが適切でなにが不適切かを列記している。

 ここでの詳細は避けるが、ラヴロック自身、もっとも不適切な代替エネルギー源の代表として(かなりの紙数を割いて)それは「風力発電」だと断じ、逆に大いに増やすべきものとして「原子力発電」を挙げている。原子力発電とはいささか奇異に感じに捉えられ勝ちな処方箋だが、かれは前著『地球生命圏』および『ガイアの時代』において、すでに原子力の発電利用に賛意を表して、当時多くの支持者を失った経緯がある。

 京都議定書の遵守義務だが、日本は1990年に遡って、当時の二酸化炭素排出量の-6%という厳しいもので、現在当時より8~10%もオーバーしているところから、現在の数字より16%以上も削減という。不可能に近い数字になっている。

 ご存じのように世界で最も省エネ化に成功した日本にとっては、とてつもなく大きな目標だが、それに近づける最大の方法は、「原発」の増設しかない。最近相次いで「プルサーマル計画」の実施が報じられているが、非常に喜ばしいことである。

 天然ウランには燃えるウラン235がわずか0.7%しか存在せず、そのままでは核分裂を起こさないウラン238は、99.3%を占める。そこで燃えるウラン235を3%に高め濃縮して始めて「核分裂連鎖反応」を起こす。そこで得た高温の蒸気でタービンを回して電力を起こすのが「原子力発電所」である。

 ところがこの濃縮された核燃料1gからはその1/1000gしか分裂を起こない。このままでは厖大な資源の無駄遣いになる。そこで原発で使用済みのウラン238にプルトニウムを再処理工場で混ぜ合わせたもので、そうした新しい燃料を使用しようというプランを「プルサーマル計画」と呼んでおり、こうしたプルサーマル工場は、すでに海外ではフランス・ベルギー・ドイツなどですでに100カ所以上」使用されている。

 今までは使用済み核燃料をフランスに送って再加工されていたが、ようやく青森の六ヶ所村に再処理工場を建設することになった。再処理されたものがMOX(Mixed Oxide)燃料である。
日本中の設備がプルサーマル対応になれば、石油や天然ガスの消費が大いに節約され、温暖化防止にも大いに貢献できることになる。

 唯一の原爆被害国である日本には、「原発」に対する強い拒否反応がある。しかし「核」の平和利用という観点に立ち、しかも温暖化防止という大きな課題を見据えた上で、建設的な論議を重ねる必要が肝要だろう。

 『ガイアの復讐』は、ラヴロックの、まことに明快で説得力に富む一冊であり、もはや取り返しのつかない人の愚行に対する警告の書であり、反省の意志も行動も示さないヒトに対するガイアの手酷いしっぺ返しを示唆する予言の書でもある。

 筆者は『森と人の地球史(第3章 ホモ・イノヴェーティス論)』の中で、最近「地球にやさしい~」というキャッチフレーズを、しばしば耳にする。これは人が飽くことなくエネルギーを浪費することで、汚染物質を空中や海中に撒き散らしていることの反省の意を込めての発言のようだが、まるで地球が自分の持ち物とでも言うようなスタンスはいかがなものか。

 気の遠くなるような悠久の時間を費やして眠りについた化石燃料たちを、あわただしく目覚めさしている人の行為こそ、それと気付かぬままに、かつて地球を覆い尽くしていた、生命発生以前の原始的環境への回帰していることに繋がっている。

 45億年という寿命のガイアにとって、人がやさしく接することも、あるいは無制限に汚染物質を撒き散らすことも、そのために人が絶滅しようがすまいが、「痛くも痒くもない」ことなのである。

 と書いた。ヒトが自ら招いた環境汚染が元で死に絶えたとしても、おそらく1000年いや100年余りもしたら、何事もなかったように元通りなガイアに立ち返るのではないか。

 年齢すでに80代半ばという高齢な彼の本は、特に世界の主導的国々の首脳部に、もっともっと広く読まれてほしいものである。

        <既読のジェームス・ラヴロックの著籍>
 ◎ 地球生命圏  スワミ・ブレム・ブラブッダ訳    工作舎
 ◎ ガイアの時代        〃               〃

 

 

2007年08月10日

鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
野口嘉則 著  総合法令出版株式会社  1,000円

 現実に起こる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原因』があり、その原因は、あなたの心の中にあるのです。
 つまり、あなたの心を映し出した鏡だと、思ってもらうといいと思います。(本文から)
 
 著者野口嘉則は、1963年広島生まれ。広島大学経済学部卒。大学卒業後リクルートに入社。その後独立してメンタルマネジメントの講師となる。99年に心理コンサルティング事務所を開設。2003年に(有)コーチング・マネジメントを設立。数々の企業研修(EQ向上研修)の中で紹介した例話を元に本書を出版したものである。研修当時からこれを読んだ9割の人が泣いたといい、発行まもなくベストセラーになった。物語は実話であるが登場人物の氏名・職業などは多少変えて設定したとされている。

 41歳の主婦が小学校5年生の息子が軽いいじめにあっているのを苦にしているところから話は始まる。息子はいじめではないと言い張っているが心配でたまらない。夫の先輩で経営コンサルタントで心理学にも造詣の深いという矢口(著者のこと)に相談する。そこで最初に言われたことは「誰か身近な人を責めていませんか」ということだった。一番身近といえば夫である。夫には感謝はしているが尊敬はしていないと感じた。矢口氏は更に「お父さんに対してはどうですか」と聞いてきた。更に「許せないという気持ちはありませんか」という。親として感謝はしているが好きになれなかった。

 高校生の頃から他人行儀な付き合いしかしてなかったことに気づいた。次は「お父様を許せない気持ちを存分に紙に書いてください」「父に感謝できることを書いてください」「父に謝りたいことを書いてください」「形だけでもいいからお父様に感謝の言葉と謝る言葉を形だけでもいいから伝えてください」。言われたとおり父に電話して形どおりの言葉を伝えた。ここで父の反応はお意外なものだった。嗚咽して言葉にならなかったのである。自分に対する父の気持ちが、自分の息子に対する気持ちと同じではないかと気づいた。矢口氏から「優太君に有り難うを100回言ってください」といわれた。その気持ちが通じたのか息子のいじめも解決したようである。これにはいろんな考えもあるであろう。物語は終わったが何かがある。

 解説で著者は「私たちの人生の現実は、私たちの心の中を映し出す鏡である」という法則が「鏡の法則」であるという。そして許すということの重要性を説く。まず自分を許し、①許せない人をリストアップする。②自分の感情を吐き出す。③行為の動機を探る。④感謝できることを書き出す。⑤言葉の力を使う。⑥誤りたいことを書き出す。⑦学んだことを書き出す。⑧「許しました」と宣言する。これで結果が出ても出なくてもよいのです。

 「人生で起こるどんな問題も何か大切なことを気づかせてくれるために起こります。そしてあなたに解決できない問題は決して起きません。あなたに起きている問題は、あなたに解決する力があり、そしてその解決を通じて大切なことを学べるから起こるのです」というのが著者の結論である。いじめによる自殺の問題が大きく取り上げられている今日、この考えが何かを解決するよすがになればと思うものである。

 

 

2007年07月10日

帝国海軍が日本を破滅させた(上) Incompetent Japanese Imperial Navy

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
佐藤 晃 著  光文社  1,000円

 不思議な本である。表題からある程度同感できると思って読んでるうちに、「同感、同感」という思いがあったのが、次第に「何で」という気になってくる。下巻になると「まだ懲りないのか」という感を深くする。著者は1927年(昭和2年)福岡生まれ、陸軍士官学校61期生(最後の入校者)、戦後大分経済専門学校卒。三井鉱山(株)、三井石油化学工業(株)に勤務、1987年退職後、戦史研究に基づく執筆活動に入る。

 一貫して「陸軍悪玉、海軍善玉」史観を批判し日本敗戦の真相を追究してきた。主要著書に『帝国海軍の誤算と欺瞞(1995星雲社)』、『帝国海軍「失敗」の研究(2000芙蓉書房)』、『太平洋に消えた戦機(2003光文社)』、があり、本書はこれらに続く「帝国海軍研究」の決定版といえよう。

 そもそもの基本的原因は大日本帝国憲法にある。統帥権(軍の最高指揮命令権)の独立である。これは立法・行政・司法に並立する(あるいは超越する)第4の権力である。(もう一つ問題点があった。憲法に内閣総理大臣の規定がなく、国務大臣の一人でしかなく、大臣をまとめるだけで抑えることはできなかった。意見が合わないと閣内不統一ということで内閣総辞職に追い込まれた)。

 しかし、日清戦争では政・軍の調整を元老(伊藤博文・山県有朋・大山巌・井上馨・松形正義)が行い、軍も平時は陸海並列対等であったが、戦時大本営条例では参謀総長(陸)が全軍を統帥し軍令部長を指導することができた。日清戦争を何とか勝利したが三国干渉で臥薪嘗胆している中で、海軍は陸軍の下に立つことを好まず陸海並立対等を唱えた。一時は沙汰止みになったが海相山本権兵衛の強力な意向でついに成立した。

 これが戦争の統一指導を阻み、海軍の担当分野への陸軍の介入を拒否した原因になっている。日露戦争が実は辛勝であったのに現象面での快勝を理由に次の仮想敵をアメリカにして戦備増強を図って、軍縮条約に反対し国家予算の多くを獲得した。このため国民的英雄東郷元帥を取り込んだのは許せない。それが戦略思想面では「艦隊決戦」「通商破壊軽視」となって表れ、更に「艦隊保全」「情報軽視」につながったと考えられる。

 大東亜戦争では、当初考えられていた「速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに更に積極的措置により蒋政権の屈服を促進し独尹と提携してまず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む」とあり太平洋地域は持久正面であった。これを山本五十六は、ハワイ奇襲による開戦に切り替え、表面的な勝利は得たが山本の期待した戦意の喪失とは逆に燃え上がらせてしまった。

 また、戦力転換点(彼我の戦力と兵站支援力のバランスが逆転する距離)を勝手に越えてその後始末を陸軍に要求したり(代表例がガダルカナル)、世界の海軍の常識である通商破壊戦を全く考えず相手の輸送船は航行自由、我の輸送船はほとんど沈められるという結果をどう考えればいいのだろうか。 

 開戦時の戦力で戦うという考え方から戦力の補充という点に考えが向いていないのも問題である。特に、パイロットは世界一の技能集団であったのに次第に消耗し、適切な補充施策がないまま戦力は一気に低下している。戦果確認も、確認機を置いた当初と異なり各自の報告のみの積み上げとなれば戦果は当然過大となる。

 これを客観的に分析することなく突入した搭乗員の報告を尊重するという情緒的な処理で確認し、しかもそれを自分でも信じてしまった。しかも、これに乗っかった陸軍の少壮参謀がいる。自分たちが現地で見たものよりも海軍の意向に乗じようとして、終末作戦指導をした者たちである。瀬島、服部、辻など自分の責任を感じることなく戦後を生き延びたことは到底許しがたい。

 というふうに、著者は海軍を指弾しその説得力は抜群である。ただこれで陸軍は善玉にはならない。特に政治的に動いて世界の世論に与えた影響は無視できない。しかし、先の戦争を考えてみたい方にとっては一度ご覧になったほうがよい書ではないかと思う。

 

2007年06月10日

大地の咆哮 元上海総領事が見た中国

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
杉本 信行 著  PHP研究所  1,785円

 上海総領事館の職員が、チャイナ公安のハニートラップに引っかかって、無念の自殺をして果てたという、ショッキングなニュースが日本中を駆けめぐった。

 これに対して日本政府はどこまで強硬に抗議をしたかは別として、この国の通例として、「知らぬ存ぜぬ」の一辺倒で、忘れやすい日本人の記憶が薄れようとした時、当時の上司であった総領事杉本信行氏の本著が上梓され、あらためてこの国チャイナの内情が赤裸々にされた。

 実はこの書は、氏が末期ガンで死の床にありながら、渾身の力をふるって書き残した、いわば遺書であり、理不尽なチャイナ告発の書だといえよう。氏は悪名高き「チャイナスクール」の一員だが、彼だけか、それとも少数派の一人かは別として、われわれの平板的な認識を一変させる迫力、現地に密着した地道なODA活動や、強硬な主張を行った、タフネゴシエーターとして側面も見せてくれる。

 ただ予想していたハニートラップの実情は、残念ながら出てこないのだが、それを補って余りある迫力のあるチャイナの実状告発と、「正しい付き合い方」について、ともすれば居丈高になりやすい日本の現状を、やんわりとだが抑えてくれている。

 たとえば、「靖国」に対するチャイナの言い分にも触れながら、といって、逆にチャイナの圧力に負けて参拝中止をすれば、国のメンツを持たない国だと上げ済まれるので、絶対に中止してはならないと説く。

ただ同時に根気強、日本の戦後平和に過ごしてきた状況とか、私案としてだが、靖国が「日本民俗独特の宗教」であることを明確した上で、他の普遍的な宗教とは全く違う、日本人のみが自動的に氏子(うじこ)になるという「排他的な自然崇拝的な宗教である」ことを、世界のメディアに明らかにしていくことを提案している。このあたり安倍さんにもだが、特に谷垣さんに読んで欲しい。
 
 本著では、チャイナの問題点として、「環境汚染と公害・水資源の枯渇とその汚染・森林破壊と砂漠化」を取り上げ、今後ODAの打ち切りや削減を言う前に、そうした課題の解決にシフトすることの重要さを強調している。

 加えて興味を持たされるのは、国交が途絶えているバチカンとの国交回復で、それが実現すれば、普及を通じて辺地の窮状を世界に発信して、この国の実状を(ただ非難するのではなく、世界の援助と、この国の上層部に明らかにしていくことが効果的だろうとしている。

 命を賭しての感銘の1冊、未読の方はぜひ購読を勧めたい。

2007年05月15日

海馬―脳は疲れない

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
池谷裕二 糸井重里  共著  新潮文庫  620円

 2000年にこの初版本が出版されたとき、池谷裕二はまだ30歳という若さで、薬学の立場で脳の研究に取り組む気鋭(東大の薬学部助手という)の学者である。糸井重里については紹介する必要のないくらい著名なコピーライターだが、糸井の当意即妙な発言によって、うまく池谷の考えや表現を引き出されえるという形で、「脳」という不思議で難しい分野を、われわれにわかり易く説明してくれる。まさに絶妙のコンビネーションが難解なテーマを分かり易く楽しい読み物にしている。

 「海馬」という脳の一器官が、記憶を司る場所だということを始めて知ったのだが、脳細胞は減る一方で増えることがないといわれてきたのに、この海馬の細胞(神経)だけは、使うことで増えるということも真剣な驚きだった。同神経回路(シナプス)は、思考を重ねる毎に増える上、「決して疲れない」のだそうな。

 この「海馬」という器官は、大脳皮質の内側(脳の中心)にショックから大切に守られている、小指くらいの大きさで、タツノオトシゴの形をしているところから名付けられたもので、先に扁桃体というクルミ状の器官とセットになった左右1対で構成されている。

 この「海馬」の仕事は、毎日側頭葉から送り込まれる情報を取捨選択し、必要なものを記憶として側頭葉に送り返す事だそうだ。

 脳細胞が死ぬ一方だという理由は、いつまでも昔のことを覚えていると、新しい記憶との混同を避けるためで、実際にわれわれは、脳細胞の98%は使っていないのだから脳細胞が死んだと言っても何の問題はないという、嬉しいような寂しいような事実も教えてくれる。

 また記憶力だが、問題はただ記憶することだけではなく、それを思い出すことの方が大切であって、われわれは記憶したものを脳のいろんな箇所に分けて保存しており、必要に応じてそれらを手際よく纏めて書いたりしゃべったりすることなのである。

 各章ごとに取り纏めとしての要約があって、しかも非常にわかりやすいのが特徴で、われわれ年寄りにもうれしい部分が沢山ある。たとえば第1章「一流はおしゃべり」というもので、お喋りし過ぎていつも反省しきりだった塾長への助け舟でもある。

 本書のお陰で、「眠ることは脳の整理である」とか、「記憶にも沢山の種類があり、記憶を高める方法がある」など、今まで知らなかったことを実に沢山教えられた。その中で特にうれしかったのは、「歳を取っても脳は成長する」というくだりと、「30歳の誕生日」が人生の縮図で、その時に考えたことでその後の人生が決まるようなものだ」というところである。

 ちなみに塾長の場合(誕生日云々は別として)この時期に、ハイブリッドアメリカ鶏が輸入されたことであり、このハイブリッド理論がイン・プリントされ、縄文塾に結びついたのである。

 また歳を取ったから物忘れがひどくなると言うのも、興味のあることや特に気になることなどはしっかり記憶するところから見ても、ウソだということが分かる。自分事で恐縮だが、塾長の場合も、昔から見てはるかに物覚えが良くなったのだが、これも「柔軟性と好奇心」をモットーにして、興味のある本を読み、話を聞いてきたせいだとわかった。

 皆さんもぜひこの本を読んで、自ら実証して欲しいものだ。このような「タメになる本」が500円あまりで読めることは、幸福以外にない。なお、もっとくわしく「記憶力のメカニズム」と、その実践法に触れたい方は、同池谷氏の記憶力を強くするの併読をお勧めする。

2007年04月02日

よみがえる緑のシルクロード

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
佐藤 洋一郎  岩波ジュニア文庫  780円+税

 縄文塾にもご縁の深い著者から贈呈いただいた一冊だが、これがジュニア(中高生)対象の文庫とは、今の子供たちはあまりに恵まれすぎているようだ。書き方こそ子供向けに丁寧に書かれているが、実に濃い内容の好著である。

 コメ化石のDNA鑑定による専門家である著者が、なぜ今砂漠の真っ直中かにあるかつてのシルクロードの終着駅」で、コメには縁の薄い、新彊ウイグル地区にある「小河墓遺跡」を中心にした視察メンバーの一員に選ばれたかだが、1997年に当時静岡大学(現総合地球環境研究所教授)助教授だった氏は、かつてのシルクロードの要衝、ウズベキスタン近郊の遺跡調査の機会を得た際に、約1500年前のこの遺跡から多量の(イネの)モミが発見されたという事情が伏線としてあったからである。 (『DNA考古学』参照)

 この「小河墓(しょうこうぼ)遺跡」は、新彊ウイグル自治区の中で、という北に天山山脈、南に崑崙(ろん)山脈とチベット高原に挟まれた広大なタクラマカン砂漠にある、約4000年の墓場の遺跡である。

 この小河墓遺跡視察では、コメこそ発見できなかったものの、コムギ・ウシに関わる副葬品、それに胡柳と呼ばれるポプラによる大きな墓標が数多く発見された。砂漠という環境に助けられた、生けるがごときミイラの顔立ちは、西域の人の特徴を備えており、おそらく現在の新彊ウイグル地区の先祖なのだろう。

 ちなみにこの地の住民は70%がウイグル人(トルコあるいはペルシャの出自だろうといわれる)、その60%はイスラム教徒で、西洋人的なはっきりした目鼻立ちで、青い目を持った人も多い。

 著者の疑問は、前著『DNA考古学』からずっと継続されたものなのだが、こうした遺跡・遺物など併せ、「果たして当時の人は、砂漠だらけのシルクロードを交易の道としたのか?」「こうした砂漠化には、気象の変化だけでなく、農業(特に農耕)がその一端を担っていたのか?」という疑問である。 

 著者は慎重に言葉を選びながらも、農業が荷担した可能性を取り上げ、当時はまだ緑の多い地帯であったとしているのだが、結局農業による過度の灌漑によって、天山山脈から流れる地下水脈を枯渇させ、もともと雨量の少ないこの地を砂漠化させてきた事を検証し、今後こうした環境を中心とした史学に力を注いで、積極的に研究していけば、砂漠のシルクロードは、必ずや緑のシルクロードになるだろうと結んでいる。 

 考えようでは、目先しか見ない大人よりも、純粋なジュニア層に大きな期待を示した1冊と言うことが出来るだろう。

2007年03月12日

ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
カレン・キングストン, 田村 明子  小学館文庫  540円+税

 この本は、私のPC師匠のSさんが、自称「電脳乱雑空間」の余りの無秩序さに呆れて、かつてこの本で見事変身したという実績から、進呈して下さったものである。ごく最近でも知人に顕著な効果があったという謳い文句だったが、読後あろうことか、早速我が会社に、空き段ボールをごっそり頼んだくらいだから、どうしてどうして、実際に説得力満点の1冊である。
 勿論「片付け下手の散らかし上手」では人後に落ちず、しかも「整頓は弥生の習性」と嘯き、「綺麗すぎると人が近寄らない」などとほざいて憚らなかったのだが、その実内心、これではその内に例の「ゴミ屋敷になるんでは」という強迫観念に近い思いもあったので、不眠を逆手にとって一気に読破した。
 「風水整理術入門」とあるように、著者は風水を活用した建物浄化作業「スペース・クリアリング」という分野のパイオニアとして活躍し、本書は世界14カ国で翻訳され80万部というベストセラーになっているが、内容は常識的な風水書ではないし、難解な風水定位盤の代わりに、ごくわかりやすい独特の定位盤を用いて、誰でも簡単に建物や住居のあり方を示してくれる。
 本書は、第1部で、ガラクタとは何かという理解から始まり、第2部では、ガラクタの見分け方、そして第3部でガラクタの処分法を伝授してくれるのだが、巧みな筆致で、ガラクタ・コレクターの弱点をグイグイと突いてくる。
 たとえば第1部では、ガラクタを溜め囲まれることは人生の停滞だとして、精神だけでなく身体そのものも不要なもの(贅肉・脂肪・便秘)を溜め込んだ人が多いと指摘する。またなぜガラクタを溜め込むかという理由についても、大いに納得の出来る回答を用意してくれている。
 第2部では、各部屋でのガラクタ占拠率を集計し、それを部屋数で割ると、平均ガラクタ占拠率が出るが、その数字を知れば、整理しなくてはおれなくなること請け合いである。
 またガラクタの分類でも、明確な仕分けから、モノが滞る理由、特に「紙」の洪水に対する対処法を明示してくれる。いつも悩むのが、「またいつか必要になる」「この前捨てたばかりに~」などという理屈など、木っ端みじんに打ち砕いてくれる。
 第3部では、いかにガラクタを整理するか、身辺がすっきりしたら、いかにハッピーになるかを知らせてくれる。その一方で、いわゆる「潔癖性」の人による、味も素っ気もない、寒々とした整頓は否定している。
 加えるに日本人は、「勿体ない」という感情が強いこともあるが、結局死蔵していることの方が、勿体ないことだと悟る必要があるそうだ。
 結びで著者は、ガラクタを整理することで、「身体を、心を、感情を、そして魂を綺麗にしなさいと説いている。こうした点が普通の「整頓術」の本と違うところだが、残念ながら著者の指摘の一つ一つが、ストンと腑に落ちる。こうなったら潔くその軍門に下るとして、カミさんにもこの本を大急ぎで読まさなければ~。

2007年02月20日

祖国とは国語

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
藤原 正彦 著   新潮文庫

松浦 育郎(寄稿)

 大ベストセラー「国家の品格」の著者が、それに先立つ2000年から2003年かけて書かれたエッセイを文庫化されたものである。本書 は「国語教育絶対論」「いじわるにも程がある」「満州再訪記」の3篇から成っている。

 「国語教育絶対論」は、明治大学教授で「声に出した読みたい日本語」の著者齋藤孝に「ああ、この人に文部科学大臣になってもらいたい」 といわせた教育論である。著者はまず、日本の現状を危機と見る。外交上も経済上もであるが、教育の乱れがその本質ではないかと説く。ゆと り教育路線が定着してから、学力は着実に低下し続けている。ゆとり教育が解決を目指した落ちこぼれ、いじめ、不登校、学級崩壊なども一向 に減る兆しを見せない。次に述べる所論には全く同感としか言いようがない。漠然と感じていたことを顕在化させてくれた。

1.国語はすべての知的活動の基礎である。
 情報伝達のため最重要なのは読む、書く、話す、聞くであるという。これができていないと思考がままならない。語彙を多くするため、漢字 を多く知らねばならない。小学生の頃の、記憶力が最高で、退屈な暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さず叩き込まなくてはなら ない。強制で一向に構わないという。このためには読書が最良の手段である。読書は教養の土台であり、教養は大局観の土台である。大局観は 長期視野と国家戦略の基本である。これが失われていることを嘆く。

2.国語は論理的思考を育てる
 日本の大学生がアメリカの大学生に比べて論理的思考に弱いことについて、国語による論理的思考の習得を説く。書くことや討論を通じて物 事を主張させることの重要性を言う。筋道を立てて相手を説得させることが論理の始まりであるという。

3.国語は情緒を培う
 人生のいろんな体験を通じて培われる情緒が人間を作る。直接体験だけではなく、読書を通じた経験が更に幅を広げる。日本には情緒に満ち た著作が古今を通じて多い。これらから学ぶことが必要である。特に年齢に応じた読書は重要である。

4.祖国とは国語である
 本著の表題であるこの言葉は、フランスのシオランという人のものである。他民族の国では共通の言葉がアイデンティティーであり、祖国、 祖国愛であるという。

5.これからの国語
 最近有名になっている「小学校における教科間の重要度は、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、後は十以下」。ルビつきでよい 、文語の語調のよさも大切である。 今分からなくても、語調として覚えておけば、いつか分かるときがくるのである。

その他、英語第二公用語無用論、犯罪的な教科書、まずは我慢力などの教育論が続く。

「いじわるにも程がある」
 家族の間で発せられる「発見ノート」にまつわる話や、父新田次郎と母藤原ていの思い出、 畏友山本夏彦との交友などが軽妙な語り口で書 かれており、楽しく読める。

「満州再訪記」
 著者の出生地である満州瀋陽を家族で訪問したときのドキュメントである。満州の成り立ち、当時の日本の状況などにソ連侵攻から逃避行の 記憶、父母のことなどをを混ぜ合わせて楽しくまた切実に記述してある。その逃避行を書いた母藤原ていさんの「流れる星は生きている」(中公文庫)を併せて読まれることをお勧めする。

2007年01月20日

国家の品格

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
藤原 正彦 著   新潮新書

 著者は小説家新田次郎と藤原ていという、優れた文科系両親に持つ(理数系の)数学者だが、その血筋は争えず軽妙でしかも情緒溢れるエッ セーでも有名であり、本書も又わかりやすい筆致ながら、適切な表現でかつての日本が持っていた、しかし今失われてしまった、世界に冠たる 資質そして思想を的確に私たちに指し示してくれる。
100万部を超える大ベストセラーになったのも、むべなるかな!

 著者はその経験を通じて、「論理」だけでは世界は破綻すると警告し、戦後欧米型の論理優先型社会への変貌が、日本をおかしくしてきたと 指摘する。数学から敷衍して、(たとえば風が吹いたら桶屋が儲かる式の)「長い論理」は危ういのだと謂う。この典型が(国際人になるため に)「小学生から英語を教える」という発想がそれである。
これが真実なら英米人はみんな国際人になるはずだと切って捨てる。

 いま大きな問題になっている子供たちの精神的荒廃に、殺人は悪いことだと教えたり、学校にカウンセラーを置くよりも、強者が弱者をいじ めたり、大勢で少数者を襲ったりすることは、「卑怯なことだからしてはいけない」そして「ダメなものは絶対ダメだ」と教えなさいと説く。 「殺人」については、戦争で人を殺したり、凶悪人を死刑にしたり、警官が正当防衛でピストルを撃ったり、「殺人」の正当性はいくらでもあ るのに、「殺人はいけない」という論理は通用しないのだという。

 そうした規範こそ「武士道」だと著者はいう。日本の武士道には「もののあわれ」という「弱者をいたわる思想」が、そして美しい情緒が内 蔵されているからである。
美しい情緒は、日本という美しい国柄(風土)が生んだもので、ここではただ咲いた桜が美しいだけではなく、そのはかない命だから散り際まで 美しいのである。

 著者は、「自由と平等」とか、「民主主義は善」という発想を、偽善であり幻想でしかなく、むしろ平等よりも「惻隠の情(相手の気持ちを 推し量る、思いやる)」を持つべきだと強調する。また強者が弱いものに勝つに決まっているのに、自由競争がいいわけはないではないかと指 摘する。

 実は弱者が強くなったのはヴェトナム戦争以降だが、著者は1990年頃から、アメリカで生まれ、世界中に蔓延している「悪疫」に、「ポ リティカル・コレクト」、実際は「弱者こそ正義」だという考え方があるという。弱者とは社会的=(黒人などの)マイノリティや身体的=身障 者・婦女子・老人・子供などである。こうした考え方からは真の幸福は生まれることはないという。

 著者は又、「美しいところにしか天才は生まれない」として、もし万葉集ごろから、ノーベル文学賞があれば、日本では30を超える受賞者 がいただろうとして、アイルランドやイングランドに多くの天才が生まれたという事例を挙げながら、日本は、いわゆる「普通の国」を目指す ことなく、「異常な国」であり続けなさいと説く。

 そして最後に戦後日本が失い続けてきた「国家の品格」を取り戻すために、幾つかの条件を挙げているが、それは読んでのお楽しみにしてお きたい。

2006年12月20日

日本をダメにした売国奴は誰だ!

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
前野 徹 著   講談社+α文庫

奥中 正之 (寄稿)

「戦後 歴史の真実」「新 歴史の真実」に続く三冊目の戦後史の総括本である。前野氏の若干の思い入れを差し引く必要はあるが、まずは傾聴すべきであろう。

現在のわが国の状態はいったい何であろうかというところから始まる。国家観の喪失、領土意識の希薄、自虐的歴史観、受動的な外交、教育の退廃、倫理の崩 壊、などの現状は何に起因するのかという見地から論を進めている。現状を一言で言えば、歴史遺産を放棄した無責任社会といえよう。

これを戦後の日本国憲法と 教育基本法に起因するという。吉田茂に発する官僚出身政治家特に首相による現在の実利的政策が積み重なって次第に歪みを生じたとする。自虐的に謝罪は繰り 返すが、日本の立場を相手に分かるように説明していない。ただ繰り返すことで丁寧な説明といっても信用はされない。そこには明瞭な国家観、歴史観のないた だ場当たりのよいことを進めていることだという。最近の皇室典範改正問題、靖国参拝違憲判決など歴史の重みを考えない傲慢な考え方であるとしている。

ひところ、官僚は一流とい われたことがある。官僚がしっかりしているから政治家は三流でもかまわないといった考えである。大臣就任時に「何も分かりませんがこれから勉強します」が 平気で通っていた。何時ごろからか、官僚に国家観が希薄になり、実利を追うようになってしまった。

法案の大部分を内閣提出法 案が占めているが、ほとんどが官僚によって立案され、与野党の議員に根回しして国会を通過させているのが実態であろう。立法権の簒奪である。更に怖いのは 通達である。これは議会に諮ることも閣議にかけることもなく事務官僚が出せるのである。バブル崩壊のきっかけとなったのが、大蔵省(当時)の銀行局長の金 融機関への総量規制の通達である。このことによって生じた経済の混乱に対する責任は誰も取っていない。それどころかその局長は更に栄進していると指摘して いる。

その官僚の主流は東大出身 者である。東大出がすべて悪いわけではないが、コミュニズムに犯されたものが多いのも事実である。特に法科系の学者は日本弱体化の推進者であったといって 過言ではない。さらにはこれを推進していった偏向メディアについても触れている。自らを良識的と唱えたり、進歩的と形容したりして世論をミスリードした責 任は重い。

氏が日本再生の「起死再生策」として次の三つを上げている

一つ目は、戦後60年、マッカーサーの戦後政治による偽りの歴史観、この呪縛からの脱却 二つ目は、総理が国会で「大東亜戦争は、自存自衛の戦争だった」と宣言すること 三つ目は、総理に石原慎太郎都知事を起用すること。現実的な対応を考えれば安倍晋三を考えている。

これらの論に対しては賛否諸々であろうが、原点に返って考えてみる価値はあろう。 誰が売国奴かは本書でご確認ください。

2006年11月20日

国家の決断―7つの課題

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾

クライン孝子 著  海竜社  定価1700円(税込)

奥中 正之 (寄稿)

 クライン孝子氏の新著「国家の決断 7つの課題」を読んだ。 日本を離れ、外国から母国を眺めたとき、世界常識の流れから孤立した異常な日本に気付く方が多い。

 筆者は冷戦時米ソ対決の最前線であったドイツに住み、且つ国際ジャーナリストとして情報の現場で体験された事実をベースに語られているので説得力があり、「目から鱗が落ちる」思いである。文章表現が簡潔平明で読みやすく、活字が大きいのも有難い。

 これを戦後の日本国憲法と教育基本法に起因するという。吉田茂に発する官僚出身政治家特に首相による現在の実利的政策が積み重なって次第に歪みを生じたとする。自虐的に謝罪は繰り返すが、日本の立場を相手に分かるように説明していない。ただ繰り返すことで丁寧な説明といっても信用はされない。そこには明瞭な国家観、歴史観のないただ場当たりのよいことを進めていることだという。最近の皇室典範改正問題、靖国参拝違憲判決など歴史の重みを考えない傲慢な考え方であるとしている。

 「目から鱗が落ちる」ことは多々ある、例示すれば、日本の政治家の多くは国家観を欠いているとの指摘には、全く同感である。と同時にそのような政治家を選ぶ国民が自らレベルアップする必要性を痛感させられる。

 また、ドイツは国際情勢の変化を機敏に捉え、その変化をすばやくチャンスとして、憲法を50回も変えている事実と、戦後60年間一回も憲法を改正せずにいる日本との差異が浮き彫りになる。第二次世界大戦の敗戦国であった日独、国家の意思決定機能を保持した状態で白旗を掲げた日本に対して、敵の軍事力によって国家権力が壊滅してしまったドイツという両者の決定的な違いがあった。

 しかし半世紀にわたる、彼我努力の違い、国際情勢の変化に機敏に対応する適応力の差が日独の現状に大きく現れている事を、この図書で改めて実感することとなる。特に国家安全保障面において、日独の差は約半世紀はついてしまったと筆者は慨嘆する。

 ドイツでは男性は18歳になったら「徴兵」の義務を負うということ、そして女性も武器を取って戦うことが可能としていること。これなどは「平和ボケ」した日本人には想像を絶する事実であろう。しかしこれが世界の常識なのであり、日本が異常なのだということを我々は認識しなければならない。

 著者が母国に向けられた深い愛情に応える国民が増えることが、「党利党略」や「私利私欲」よりも「国益」を考える政治家を生み出す原動力になると考える。国民が国政への前向きの姿勢を持たず、政治不信を募らせるだけでは、それがファシズムを生み出す土壌となる危険性がある。この点も著者が懸念されるところである。詳しくは是非この図書をお読み頂きたいと思います。

2006年10月20日

博士の愛した数式

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾

小川 洋子 著  新潮社  定価1575円(税込) 

 不眠症なので、夜小説を読み出すと益々眠れなくなるし、日中だったらやりたいことが出来なくなってしまう、というごく単純な理由で、長い間意識的に小説を読まないようにしてきた。したがって書評すら心許ない有様である。

 じつは2004年9月本欄に、CW・ニコルの「勇魚」と併せてこの『博士の愛した数式』の短評を書いた経緯がある。ここ最近所用にかまけてほとんど読書から遠のいていたため、何を書こうかと悩んでいた矢先、本書が寺尾聡主演で映画化されることになり、そうしたタイムリーさだけを頼りに、苦し紛れに一部再録でお茶を濁すことにした。

 なにしろ著者小川洋子が芥川賞作家だったなども知らなかったくらいだが、本書は「本屋が一番呼んで欲しい本」のトップになっているベストセラーなのだが、なにしろ数学といえば学生時代、嫌いだったという人が多い。塾長も大嫌いな学科で、あまりいい思い出はない。その数学・数式をテーマなのだからすごいことである。

 (以下多少手直しして再録) 「本書は、まるでノンフィクションを思わす、淡々としたタッチで3人の交流について語っている。(実は相思相愛であった)義姉の庇護のもとで、ひとり別館で暮らしている老学者はルートや私(その母)に、なんでもないような数字に息を吹き込み、数そして数式の持つ美しさ神秘さを限りなく優美に且つたのしく語り、二人を否応なく数字の持つ数式の持つ不思議な魅力の世界にいざなう。もし塾長も、こんな数学教師に出会っていたら、数学好きになっただろう」

 主人公は、17年前の交通事故の影響で、事故以後の記憶は80分(1時間20分)しか継続しないという天才的数学者の家に雇われた、(主人公に<√=ルート>)と名付けられた)子供連れの家政婦が数少ない登場人物という、きわめてユニークな設定だが、ルートの母の前に9名の家政婦が辞めさせられている前歴がある。

 記憶を繋ぎ合わせるために袖口に記憶用のメモを止め付けている一種偏狭的な博士だが、彼女に10歳の子供があることを知った博士から、小さな子供を一人にしてはいけないから連れてくるように言われ、子供連れの奇妙な勤務になるのだが、博士はこの子供を『ルート』と呼んで深い愛情を傾ける。

 こうして数学や数式を中心にした、博士と家政婦親子の奇妙な生活が始まる。博士にかかるとすべて数字あり数式であり、いつしか家政婦もルートも博士の純粋な数学に対する愛情に引き込まれていく。

 博士によると、数字・数式こそ絶対の美であり、真理であり、世界であり、宇宙である。森羅万象が数字・数式によって語られることが当然のように思えてくる。実際文中に、いくつも数式や素数とか実数・虚数などの数学用語が氾濫するのだが、それさえ美しく思えるから不思議である。

 さて映画で寺尾聡演ずる博士は、どこまで原作の博士に迫れるのだろうか。

2006年09月20日

国家の自縛

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
佐藤 優 著  産経新聞出版  定価1575円(税込)

 国家の罠がベストセラーになったことは、「逮捕された(刑事被告人になった)からワルだ」という短絡的な発想に与しない日本人がまだ多くいるという証しだと言えなくもない。

 本書は産経新聞の元モスクワ支局長斉藤勉氏の質問答える形式を取っているが、そこはお互いに理解し合った中あうんの呼吸が見事である。

 著者は斉藤氏から、ロシアが好きかどうか、それに小泉首相の悪口を言わない理由について、「自分はただロシアとは職業(外交官)として接してきただけで、日本が一番好きである。ロシア人もエリチェンやプーチン、アメリカ人もブッシュの悪口はいうが、外人から彼らの悪口を聞くと大変怒るのだ」という。それに引き替え、一国の総理の悪口を言う外国人に怒らないばかりか、むしろそれを喜ぶ日本人の存在のいかに多いことか。

 著者は「北朝鮮とのパイプ作り」についても、向こうのホテルになにもしないまま何ヶ月でも滞在し、先方からのアプローチがあれば「ただの電話番であって、忠実に国に伝えるだけに徹するし、会いたい人は金正日将軍様の日程を管理する人だけだ」という、「白旗(軍師)作戦」というユニークな案を提示する。

 またロシアとの接触にモンゴルの朝青龍の父親のルートを活用する案とか、反日デモで壊された大使館など謝罪があるまで一切修理させず、この国の理不尽さを世界中に見せつけるべきだった、その他明敏且つ大胆な発想を提示してくれる。

 本書の中で「日本の外務省には、いかに無作為の罪が多いか」を、一つ一つ事細かに指摘しているのだが、その1例として中東問題を挙げている。日本の外務省はアラビア語や中東の研究などは、主としてシリアで行い、イスラエルを無視している。多くの国はイスラエルで学んでいるのだが、軸足を中立ではだれにも信用されないという。

 著者はかつてロシアとの折衝にイスラエルを仲介にして動いたが、その際次官の許可を得ての予算や行動が、結局罪として断罪されることになった事実がある。イスラエルは日本のシンドラーこと杉浦千畝に大きな恩義を感じているので日本に好意的だが、外務省は彼の行為が越権だとして最近まで無視してきた経緯がある。

 著者はまた靖国や、新しい歴史教科書問題にも好意的なスタンスで接しており、彼なりの対応策を論じている。

 つづまるところ外務省は、有り余る著者の能力を生かすどころか、金の卵を産むトリを、むざむざ野に放ってしまったことになる。可能ならば安倍幹事長の秘密機関の長として活用して欲しいものだ。

 本書でもっとも感銘を受けたのは、チャイナでは簡体字、コリアではハングルだけにしてしまったことは、過去の歴史からの離別を意味している、という指摘である。かつて日本も同じ憂き目を見ているが、それはひょっとするとGHQの差し金だったか、コリアの場合は幼稚なナショナリズムだとして、チャイナの場合は共産党による陰謀だといえるかも知れない。 北畠親房の『神皇正統記』に傾倒する著者から見ると、外務官僚の歴史認識と国語知識の欠如は、まさに憂慮の極みに思えるはずである。

 

2006年08月20日

だれが日本の「森」を殺すのか

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
田中 淳夫 著  洋泉社  定価1785円(税込)

 

 “「森を守れ」が森を殺す!”“伐って燃やせば「森は守れる」”という過激なタイトルのシリーズ第3弾である。その実内容は、日本の森林および林業に対する深い愛情に裏打ちされており、それを裏切り続ける日本の現状に切歯扼腕し、警鐘を鳴らし続けているいわば一種の憂国の書でもある。

 本書の中で著者は、世界最大の木造建築物といわれる奈良大仏殿が、明治39年(1906年)の大修理で、屋根には鉄骨829トンが組み込まれて西欧建築手法のトラス構造を取り入れられ、イギリスから鉄骨やボルトが発注されている事実、屋根を軽くするために瓦を2万枚も減らし、葺き土もやめて番線で繋ぐ、場所によっては鉄筋コンクリートを使用するなど、われわれの知らない世界を、垣間見せてくれる。

 実は著者は、この大仏殿の真実とカヴァー率67%という、世界有数の森林国家でありながら、実は82%も輸入に頼っている現状と重ね合わせてみせるのだ。ではなぜこんな不可思議な現象が起きているのだろうか。

 日本はかつて、熱帯雨林を破壊すると非難されてきたが、その後アメリカ・カナダ材に移り、今ではシベリア材や北欧材が主な輸入先になっている。なぜ国産材が売れないのか、今までその理由を険しい斜面からという立地条件の悪さが価格面で外材に太刀打ちできない理由だと言い続けてきたのだが、北欧材、特にオーストリア材は日本に似た傾斜面にある樹木であるため、もはや言い逃れは出来ない状態になっている。最近では国産材の方が割安になってきたのに、なぜ建築業界からそっぽを向かれるのだろうか。

 著者は森林所有者と建築業者の話し合いの現場で、建築業者から「乾燥が足りず寸法が狂っている、納期を守らない、大量にオーダーしても価格がむしろ上がる」というクレームに、なんら反論の声が上がらないことを何度も見聞きしている。

 そこには需要の現状を直視しない林業界の閉塞した意識があり、この分野に一般企業の参入をかたくなに拒んできた、農林行政の後進性があった。

 日本の住宅では、依然として木造建築に対する希求が強いのだが、要は日本の林業界に需要に応じる姿勢や体制がまったく欠如していることである。

 そうした中で著者は、宮崎県の某林業会社が、あの中国に向けてスギ材を輸出している事実を見聞することになった。それらは太さがまちまちで、中にはごく細い枝のようなものが隙間を埋めるように混ざっていることに気付く。訊ねると、節や割れ目などを補修したり、隠したりするために役立つということであった。

 現在木材の世界最大の輸入国になったといえ、安さを誇る中国に日本材が輸出できるという事実は取り組み方では瀕死の状態の日本林業を蘇生できるはずである。著者はそうしたノウハウにも紙数を割いているが、問題は官民一体でこの課題に取り組む必要が肝要であろう。この事例から著者は、それでもやり方によっては「瀕死の日本の森も再生出来る」と結んでいる。