老馬の知―老馬道を知る
―韓非子
九月は敬老の月でもある。一九六六年(昭和四十一年)、従来の「老人の日」を改めて、十五日を国民の祝日として制定され全国各地でお年寄りを敬い、長寿を祝う行事がある。
高齢化社会に生きる一人としては、複雑な気になる。現在七十五歳。気分は青年であり、あるときは、まだ壮年を自負(!?)しているから。しかし、世間では、老人、年寄り扱いである。広辞苑を見ると、「老人」は「年寄り」のふた文字で解釈してあるが、新明解国語辞典の定義には「すでに若さを失った人。たくましさはなくなったが、思慮、経験に富む点で社会的に重んじられるものとされる」とある。これ!これだ!と思わず膝を打った。「思慮、経験に富む…」
とかく高齢者、年寄りは、若者に疎んじられ、疎外される風潮である。時代の流れ、と言ってしまえば、それまで。高齢者の中にも「もう若い者に任せればいいんだ」という人もある。しかし、それでいいものだろうか?と疑念をもつ。
冒頭の言葉は、中国春秋時代の故事。まさに言いえて妙。若い駄馬よりも老馬の知恵を評価したもの。年寄りには若者には無い知恵があることを説いている。
「温故知新」―、ふるきをたずねてあたらしきを知る―。日曜日の民放テレビのコメンテータ、竹村健一氏が口癖のように話す。「歴史をもっと知らないといかん」とパイプの煙をくゆらせながら、キャスターたちに問題の本質のカギを指摘する。この人の評価云々は、別に私も同調することが多々ある。ことのほか、歴史認識ではそうである。
「過去に目を閉じる者は、現在にも盲目になる」西独時代一九八五年五月八日、ドイツの敗戦記念日でのワインベッカー大統領の有名な演説。この言葉のあとに「未来の悲劇に手をかすことにもなる」とまで言った。のちに同じ敗戦国、ドイツと日本の違いとまで言われた。私は思う。年寄りは自らを卑下することなく、若い世代に語り継ぐ責務がある。
とくに広島では原爆の悲劇を語ることもそうであるし、戦後の広島の社会、文化を構成したカープの歴史をもそれぞれの立場で語り部となり、若い世代と共生する羅針盤役に―。
(風彦)