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性善説VS性悪説

縄文が日本を救う! (43)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 「日本の常識 世界の非常識」といわれる。この言葉は日本特有の思考、すなわち日本人の脳天気さ、絶対的な安全(あるいは平和)意識は、決して世界では通用しないのだということを言い表して妙である。

 「人を見たら泥棒と思え」という言葉がある。これはお人好しすぎる日本人に対する、一種の警告語だが、なんでも世界中で「振り込め詐欺」の被害が後を絶たないような無防備で人を信用するような国は皆無だそうで、それだけでも日本の脳天気度は空前絶後といっても、決して言い過ぎではない。

 「日本も危険になった」といいながらも、自販機が路上に並ぶ国など、日本以外にはあり得ないし、あれだけ外国人犯罪者のショベルカーによるATM被害が続発しても、新しい対策法がお目見えしたという話は聞こえてこない。

 昨今話題になっているように、外交官や海上自衛隊員が、チャイナドレスの深いスリットの奥に潜む「ハニー・トラップ」に易々と絡め取られるのも、この国のお人好し度を示している。

 このことを言い換えると、「性善説」の日本に対して、すべての他国は「性悪説」だと言うことになる。ではなぜこうした違いが生まれたか?

 外敵に隔離され、豊かな森に恵まれた環境で生まれた縄文文化は、まず定住であり、採集と漁撈という生活文化の中で、土器に代表される「森に発した匠の技」という手の文化、すなわち「工」という技能を特化させていった。「工」=物づくりにはよりよいものを造り、それを大切にするという文化に通じる。これが日本人の「性善説文化」と直接結びついているのだ。

 一方草原から発した狩猟→遊牧の民は、次第に近隣の採集→農耕の民を隷属させていくが、征服された農民の信じる多くの神々もまた、遊牧民の信じる唯一の神に征服されていった。

 種族の拡大は物資の需要を拡大し、遊牧の民は足の文化を発揮して「商」=通商という技能を特化させ発達させていった。 当初物々交換からスタートした通商には、(良くも悪くも)買い手と売り手の損得勘定が衝突するところから成り立つ。そこから必然的に「性悪説」が生まれることになった。

 旧約聖書を読み解くと、神によって土塊(つちくれ)からつくられた、始原のヒトであるアダムとイヴの時から、すでに神の言いつけに背き、罪としてエデンを追われ、額に汗する労働を科せられるという「原罪」からスタートしていることがわかる。

 その後もノアの箱船や、バベルの塔など、神とヒトの契約は破られ続ける、すなわちヒトは、生まれながら罪を犯すという、「性悪説」がその根底にあるのだ。

 ユダヤ・キリスト・イスラム教という、それぞれ根っこの同じ一神教の国は勿論、世界の殆どの国は、遊牧の民によって支配されてきた。その過程で身につけてきた「保身の術」こそ、「性悪説」に根ざした「まず疑ってかかる」「人を見たら敵と思う」という思想である。またそうしなかったら生き残れなかったのである。

 グローバルな時代、日本的美学がすんなり通用するはずがないと知るべきだが、悲しいことに、また誇るべき事に日本人は、「日本の常識こそ、本物であり、それを非常識と考える世界の人たちの発想こそ非常識だ」と思いこんでいるのだ。

 それ自体本当は正しいことなのだが、残念ながらそれが世界では通用しないことが問題なのである。なにしろ「性悪説」の「商」にさえ、「性善説」に発した倫理観である「商人道」を持ち込むほどの日本人のことだ。小泉内閣の行政改革路線の過程で、行き過ぎた金融界の動向も、遠からず落ち着いてくるだろう。

 グローバリゼーションは避けて通れない命題であり、日本人以外の人たちの考え方を学ぶ必要は不可欠である。だからといって、なにも日本人そのものが「性悪説」に染まる必要はないのだが、相手のことを十分知っていることこそが不可欠なのだ。

 いずれにしろ日本の未来も、「性善説」に発した「工」を中心に進まなければその道は絶対に開けないことを肝に銘ずるべきである。世界の人たちが、どんなことがあっても日本の製品を求める、そんな「工」の極致を極め、磨き続けていることが肝要だと知るべきである。

 間違っても、平気で偽物・まがい物を造って毫(いささか)も恥じない国の意見など、聞くべきではないし、同じ歴史認識を持つことなど、絶対にあり得ないと知るべきである。