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移動しなかった東洋文明

縄文が日本を救う! (45)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾

 つねに盛衰を繰り返し、その都度移動していった西洋文明は、ついに海を越えて新大陸北・南米に到着、特に北米で花咲いた。しかもそれは、引き続き東から西へと移動して遂に太平洋岸に達し、虎視眈々とアジアを見据えている。

 一方東洋文明の方はどうか。インドにしろ、チャイナにしろ、遂にその文明は決して移動することなく、またヒマラヤ山脈や峻険な高原、それに砂漠といった天然の防壁に阻まれてほとんど交流することなく、お互いに独自の文明を維持し、盛衰を繰り返しながらついには陳腐化してきたのである。

 梅棹忠夫は、チャイナより日本に文明が移動したと述べているが、それはある種特殊なフィルターを通して、必要な文化や文明だけが濾過され、それが日本古来の文化・文明と融合して、特有の日本ハイブリッド文化・文明を生んだものであって、正確にいえば移動にはあたらない。

 ユーラシアの東側、すなわちアジアの中央に位置するチャイナ文明は、北方の騎馬遊牧民族による度重なる侵略と王権の簒奪はあったものの、結局黄河流域と言う農耕地帯に収斂し定着して、この地から一歩たりともよその地に移ることはなかった。したがって、つねに移動を繰り返しながら洗練されていった西洋文明とは違って、チャイナ文明は、決して移動することなく洗練され、そしていつしか陳腐化していったことになる。

 チャイナにおいて、侵入者は常に北方の遊牧民であった。この国のこうしたワンパターンの繰り返しの中で、いつしか牢固として抜きがたい「中華思想」なるものが形成されていくことになった。 定着と過大人口という、ヨーロパとまったく相反する現象は、温暖な気候風土と広大な土地に根付いた農耕文化が基底にあるためだが、この事実が侵入した遊牧の民の異文化を解体し、同化し無力化していくことになった。

 なにしろ痩せて寒い北の僻地からこの地を見れば、いかにも豊かで有り余る文化を持っており、その魅力が、剽悍(ひょうかん)な騎馬の民を骨抜きにするのにさして時を要しなかった。あるいは伝え聞くこの地の豊かさと高度な文明が、常に絶ちがたいあこがれとなって北方の民を引きつけずにはおかなかったというべきかもしれない。

 インドではどうか。この国の最南部を頂点とした逆三角形という地形は、その頂点を境にして東西相異なった気象を生んだ。太平洋に連なるインド洋は、その逆三角形に面して東側がベンガル湾、西側がアラビア海になる。ベンガル湾に面した東・南インドそれにバングラデッシュは、湿潤なモンスーン気候の影響を受けるが、アラビア海に面した西・北インド、それにパキスタンは、概して乾燥した気候に支配されてきた。いわば「湿のガンジス」というコメ圏、それに「乾のインダス」というコムギ圏というのが、この地の2つの大河流域が生んだ対極的文化の有り様である。

 古代文明の1つに挙げられるインダス文明は、4500年~3700年前ころインダス河流域で花開いた青銅器文明で、ハラッパー文化とも呼ばれて世界四大文明の一つとしてクローズアップされた。エジプトの象形文字、チグリス・ユーフラテスのクサビ型文字、チャイナの甲骨文字という、他の3つの文明の文字はすでに解読されているが、インダス文字はいまだに解読されていない。そしてインドの古代文明もまた、森を切り開いて興き、森を失って滅んでいったのである。

 インドへは、西からアーリア民族が侵入して定着していったが、結局彼らもこの灼熱の地で、地元の人たちと混交し融合されて行ってしまうのである。

 そしてまたチャイナでも、西洋が2000年有余の間に失ってきた森を、わずかここ70年ほどの時間で、あらかた失おうとしている。 移動することでそのダイナミズムを保持してきた西洋と、停滞したままでの衰微から、人口的ダイナミズムで対抗しようとしている東洋、その中で独自の文化・文明を継承し発展させてきた日本、果たして21世紀以降、西洋そして東洋に、いかなる将来が待ち受けているのだろうか。