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移動しなかった東洋文明-2 インド文明

縄文が日本を救う! (46)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 
村上泰亮『文明の多系史観』は、インドの文明が移動しなかった有り様について、「(中国では、三百年を平均の周期として王朝が交代し)インドにおいても、 王朝の存続は短く、興亡は速やかであり、クシャーナ王朝、ムガール王朝、大英帝国はいずれも異民族王朝というふうに、近代国民国家以降の常識から見れば、 甚だしく不安定もかかわらず、文明成立以来二千数百年の歴史を通じて、ほぼ一定の社会組織が維持され、外部からの侵入勢力もいつしか吸収されて、王朝の交 代という表層の波動の下で、文明の原理は不動に保たれてきた」として、

社 会システムの上層に、抽象化された文明の原理に基づく広域的なコントロールのシステム(儒教に基づく文人官僚制と、ヴェーダ聖典を根拠とするカースト制) があり、他方、社会システムの下層には、血縁的性格の強い自治的共同体(中国の宗教・家とインドの村落・大家族)があって、限られた自衛力しか持たなかっ た。  (中略) このように、抽象的な文明の原理を不動の骨格として保持しながら、具体的な生産活動は自治的小単位で実行されるという自由度の高い構造が、外か らの衝撃を吸収し、侵入民族を文明の原理にけっきょく隷属させて、大文明としてのアイデンティティを保持させたと思われる。

と西欧の文明との違いを指摘している。これは西の文明が、移動を常とする遊牧文化に農耕文化が収斂されたのに反して、逆に(チャイナと同じように)インド文明もまた農耕文化が遊牧文化を吸収し消化してきたことを示している。

イ ンドの歴史をみるとき、この国はなぜか外に覇権を求めたという例も、インドの地に発した種族でこの亜大陸を統治して、長らく王朝を維持することの例のあま りに乏しいことをみれば、そこに複雑な人種と言語・文化そして宗教を統括していくことの困難さがわかるというものだ。

インドを制圧してイスラム教王朝とし て君臨した、ムガール帝国(1526~1857)の滅亡の直接の引き金になったのが、東インド会社のインド人傭兵によるセポイの反乱(1857~59)で ある。事の発端は、インド人の(ヒンズー及びイスラムという)信仰を無視して、先込め式小銃の火薬入れに牛と豚の脂が塗ってあるという噂からである。

しかもその背景には、イギリスの経済 的圧政や強引な藩王国の合併策があり、「海を渡る」という行為がタブーだった内陸国インドに、それを無視してインド傭兵に、海を渡って出兵させるという、 無謀なイギリスの施策にあったからだといわれている。その結果インド側のイギリス人無差別殺戮と、イギリス側の報復的虐殺に発展したのである。

4500年~3700年前ころ、青銅 器文明としてインダス河流域で花開いた、世界四大文明の一つインダス文明は、世界で最も早く火焼き煉瓦の製造、ダムや用水路の建設、それに計画的都市づく りがなされたことで知られている。雨の極端に少ない地域では通常日干しレンガである。この乾燥した地でなぜ焼かれた煉瓦が用いられたのか。

この事実は、いま砂漠と荒れ地に覆われたこの地が、当時深い森に恵まれていたことを示している。ここでも「森を開いて文明が興き、森を失って文明が滅んだ」という教訓を残している。