温暖で食料が豊富、しかも恐ろしい捕食者もほとんどいない日本の地は、長い長いサヴァイヴァルの生活を送って来た流浪の民にとって、ようやくたどり着いた楽園であった。
日本の地には、おそらく数万年前に渡来した先住者もいただろうし、その後ヴユルム氷河期の終わりころ、寒冷期ヤンガードリアス末期の18000年前頃、新モンゴロイドに追われ、アラスカ・樺太方面より、それにコリア半島を経て、チャイナから直接、それに琉球列島を島づたいに北上した南方よりの民という5つルートから、この地に定住を果たしていった。
先住の民はナウマン象やオオツノジカなどを追って来ただろうが、その後の温暖化は、水位の上昇を招き、日本海を形成して、夏場の豪雨、冬場の豪雪を招き、平原の減少と森林の発達、湖沼地帯の増加から、そうした草食大型動物の絶滅を見ることになる。
日本列島では縄文時代、人口が東に偏重したと言われているが、水位の上昇で海に飲み込まれた部分や、弥生遺跡の下に隠された部分を推察すれば、また違った答えが出るかもしれない。
「森と水に恵まれた縄文の民は、早くから定住していた」と書いてきた。では定住の条件と証拠はなにか。
彼らは1万年以上も前から、「竪穴住居」に居住していた。当時の部落(バンド)の一族は、通常2~30人、多くても50人未満だったから、例えば直径が5m、の深さが50cm~1mの縦穴を、木片や石器で掘るとなると、1ヶ月から2ヶ月も掛かる計算になる。少なくとも1ヶ月以上も掛かけて掘ったものをすぐに捨てて移動することは考えにくい。
移動しなかったとしたらそれは何故か。当然移動しなくても充分食料が豊富にあったからである。彼らの主食はドングリ・クリ・クルミ・トチなどの堅果であり、副食はキノコ山菜類であり、無数に流れる小川の魚であり、海岸の魚介類であり、たまには山の動物であった。
漁労や山の猟以外、いわゆる「採集」は婦女子でも出来る。そこで余暇を得た縄文の男たちは、土器の製造を始めることになる。土器を造るための条件は、まず粘土であり、豊富な水分であり、焼き固めるための燃料である。しかも重くて壊れやすい土器は移動生活には適しない。そういう条件に合致した日本だからこそ、世界に先駆けて芸術的にも卓越した土器を造ることが出来たのである。
ではなぜ土器を造ったのか。土器の最大の利用法はやはり「煮炊き」である。「煮炊き」のための土器を造った縄文人こそ、世界で最初に「食のイノヴェーション」を成し遂げた民族でもあった。