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食のイノヴェーションとは?

縄文が日本を救う! (49)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 土器の発明は「食のイノヴェーション」を生むことになった。 考古学には、その当時の人が何を食べたか調べる方法として、「糞石=糞化石」を調べる方法が採られている。これを分析すると、当時の人がどんな物を食べていたかががわかるという。

 その結果縄文人は、何十種類の食材を摂取していたらしい。当時としては驚異的な数字である。それまでの食事法は「単体食」であった。せいぜい1つの食材を「炙り焼き・蒸し焼き」するという程度が関の山だったのである。

 縄文の創生期、鹿児島の上野原遺跡では、薫製したと思われる遺構が見つかっているが、それとてまだ単体食であった。土器の発明は、わずかな動物・魚介類の動物性タンパク源に、ドングリなどのデンプン質、山菜・根菜・キノコなどを加えたバランス食である、(今で言う)「鍋物」として食べた、世界で最初の民族だったのである。

 ドングリなどは、土器を使って水晒し・煮沸によるアク抜きなどを
行ったし、堅い食材も、煮ることで柔らかく消化がよくなる。

 また海辺の民は、土器を海水の濃縮に使用したはずだ。あえて補足すれば、日本で多く見つかっている貝塚だが、短い期間に非常に多量の貝殻の集積がある。

 このことは、貝の身はその場所の民が食べただけでなく、おそらく交易品として利用されたのではないか。すなわち貝は、濃縮した塩に加えられ、美味しい調味料である「出汁の素」として彼らの丸木舟で川を遡行し、奥地の民に届けられたのではあるまいか。
食べるのが精一杯だった当時の人たちは、味覚に鈍感だったといわれるが、おそらく縄文の民は、今で言う「グルマン(美食家)」だったに違いない。

 当時はもちろん「物々交換」である。交換した物はドングリ、それを元にした「縄文クッキー」だったり、塩を煮詰める土器だったり、欲しい物は幾らでもあったはずだ。逆に奥地の民は、新鮮な魚介類や海藻など、これまた幾らでも欲しい物があった。

 こうして縄文に発した「鍋物文化」は、連綿今に継続し、我々の食卓を豊かなものにしてくれていることは確かである。

 ご存じ鍋物は、「北高南低」である。ご当地鍋として有名なものも、いきおい北の方が有利である。いささか脱線して紹介すると、

    北海道  北海鍋・石狩鍋(サケ)  
    青森  じゃっぱ汁(タラ・サケ)・せんべい汁
    秋田  きりたんぽ鍋(ハタハタ)・しょっつる鍋   
    福島・茨城  あんこう鍋
    福井  かにすき  
    山梨  ほうとう鍋   
    兵庫(丹波)  ボタン鍋  
    広島  牡蠣土手鍋   
    大阪・山口  てっちり・ふぐちり   
    福岡  水炊き・もつ鍋

      (注:ミスや漏れなどがあればぜひご教示下さい)

 それに全国版として、すき焼き・しゃぶしゃぶ、それに特殊な物では鍋物では、お相撲さんのちゃんこ鍋がある。各地には知られた芋煮があるし、寄せ鍋やおでんも一種の「鍋物」だと言えるだろう。
一部を除いて、魚介類が主役と言うことも、その由緒ある?歴史を物語っているではないか。

 閑話休題。ユーラシア大陸で交易に従事したのは、移動という「足の文化」に長けた、狩猟→遊牧の民であったが、日本においては、主として漁撈を主にして来た沿海に棲む人たちであったろう。

 おそらく彼らは、丸木舟を駆って漁をし、そうした獲物や塩を川を遡って山の民に届けたに違いない。

 ではなぜ日本にこうした土器・鍋物が生まれたのか、次号では別の視点で見てみたい。