最近「一体なにが人類を救えるのか?」という難問が大きく膨れあがって、筆者を苦しめる。この場合の人とは、個人々々ほど狭くなく、さりとて全世界の人類というほど広範囲ではない。世界中には数多くの国々があり、そこに居住する種族は無数である。そうした人たちのすべてを包含することは不可能であり且つ無意味に近い。従って「一つの国」ほどに限定して考えるしかない。
もっとも「一つの国」といっても、そのすべての人が同じ価値観や思想、感性や感受性を持つわけではないので、少なくとも他国と比較し、いろんな係数や数値を元にして、「個」ではなく「マス」として考えたい。当然対象として「日本」を中心にしている。
さて今回のタイトルだが、「一体なにが人類を救えるのだろうか?」それは「宗教」だろうか?それとも「哲学」だろうか? いやいや「政治」なのか?あるいは「教育」? そうじゃあなくて「経済」?
まず「宗教」はどうか?
昨今中東を中心に、憎悪と相互不信をむき出しにして、エンドレスの「宗教戦争」が血で血を洗っている現実がある。
「なぜ宗教同士が相争うのか?」
「お互い永遠に和解できないのか?」
「宗教は人を救えるのか?」
「宗教で人は幸福になるのか?」
「宗教の教えで、一体どのくらいの人が善行を旨とするようになれるのか?」
「救われた人はまた人を救うのだろうか?」
偉大な宗教者である、キリストを生んだユダヤから、布教の拡大したヨーロッパから南北のアメリカ、偉大なる預言者マホメットを生んだ中東一帯(トルコ・アラビア・イラン(ペルシャ)からアフガン・パキスタンなど南アジアから東南アジア。釈迦を生んだインド。孔子・孟子・老子を生んだチャイナ、偉大な宗教者を生んだ国々には、すべて平和で愛に満ちているか?
たとえばマザーテレサは、インドで献身的な救助活動を行ってきた。イエズス会の大木神父は、ネパールで障害児童の救済に一生を捧げている。だったらそこから相互救済の輪が広がって、大きな「善のうねり」となって、貧困者や差別に泣く人たちが少なくなっているのか? 所詮宗教が救えるのは「個」単位でしかないのだろうか。その一方で自爆テロで無辜の大衆を巻き込んでも、彼ら聖戦の徒は少しも胸が痛まないのだろうか。
では哲学はどうか。日本人にとって「フィロソフィ=哲学」は、難解な孤高の学者の持ち物に過ぎないが、語源は「愛を知る学問」だという。ご存知ギリシャは、プラトン・ソクラテス・アリストテレスを始め多くの哲学者を生んだ。近世ドイツはカント・ヘーゲル・ショーペンハウエル・ニーチェを生んだ。
ではすばらしい哲学者を生んだ国が、つねに英知を発揮し、幸福を継続させ、生活者の精神的依り代となり得たか? 奴度の上に民主主義を植え付けたギリシャは滅び、ドイツは2度の世界大戦の信管となり、火薬庫となったではないか。
だったら「政治」は、「教育」はどうか。こういった設問をすること自体、どうもこれらのいずれもが、決して究極的に愛や幸福や平和を生んできていないことが明白となる。
別の切り口で語ってみよう。もともとこうした命題は、「人(民)を幸せにする」という目的で誕生し、発達したものではなかったのではないかとさえ考えるべきではないだろうか。
つづまるところ、宗教や優れた宗教家、哲学や哲人、それに政治家は、その国をそしてその国の民を、決して幸せにしてこなかったし、平和にすることが出来なかった。だったら彼らの布教や教えの目的は何だったのだろう。それはおそらく、スタートの時点と、拡大の時期で大きく変質し、目的と結果があらぬ方(かた)に大きく逸れていったのだろう。
やや違ったカテゴリーで取り上げたのが「経済」である。これも「個」と「マス=全」で考えた場合で違った答えが出てくるのだが、国の経済状態がいいことは物質面で「個」にも波及する。争いに巻き込まれているときよりも、平和であった方がいい。
ただここでは、当然ながら貧富の差が生じるし、物欲の増大がかえって不幸を招くことすらある。
とは言え、国の経済状態が悪いより良いほうがいいに決まっている。ではどうすれば「経済」がよくなるのか? 過去他国を犠牲にして自国の富を勝ち取ってきたケースが多かったという事実がある。今ではそうした目に見える国の悪行は少なくなったとしても、それは形を変えて現在でも不幸な国や最貧国を生み続けている。
ここまで「幸せとは何か?」という命題には触れないで来た。人を救うと言うことは、人を幸せにすることに通じるが、この「幸せ」には、計量的な基準はないし、主観によって大いに異なる。ここでもやはり、前述の通り、他国と比較し、いろんな係数や数値を元にして、「個」ではなく「マス」として考えていくしかないだろう。
さて以上縷々述べてきたことを根底において、日本という国の現状を、少しでも正しく把握し、よいところは何故よいのかを徹底的に究明し、それを伸ばして他国にも波及させ、思い違いがあればそれを是正していく必要がある。幸か不幸か、日本では「言論の自由」がある。しかも国民性というか自らを低く見る一種の「自虐性」を特性としている。
特に最近のマスコミは、大局を無視して、些細な事象を「針小棒大」に報じ、なにかの大きな意志によってか、白痴的番組を垂れ流している。しかも(純粋な)「愛国心=ペイトリオティズム」を、危険なナショナリズム=民族(国家)主義と置き換えて、歪んだ教育を礼賛している嫌いがある。
今こそ日本という国の「真の姿」を公平に見つめ直していくことが急務ではないか。
本項で述べてきたことの集大成として、縄文再発見」をし、そのことによって“縄文が日本を救う!”から“縄文が世界を救う!”へと進んでいくことが、いわば日本人の崇高な使命ではないだろうか。
お断りしておくが、これはかつての「八紘一宇」でも「万国民皆兄弟」でもない、一切押しつけも強要もない、真の平和のための試案なのである。
ここにまた、一神教と多神教の問題がありる。ほとんどの先進国はキリスト教そして少数派だがユダヤ教という一神教で、現在この二つの宗教と、その間で終わりなき宗教戦争を繰り広げているイスラム教という一神教があります。しかもこの三つの宗教は、源流を一つにした、いわば親類筋なのだ。
。 そればかりか、キリスト教ではカソリックとプロテスタント、イスラムではシーア派とスンニ派のように、同じ宗教の中の宗派の違いで骨肉の争いが止むことなく続いているのは、一体何故なのか。こうした難問が、どうしても私の前から消えようとしない。
ところで、日本はどうなのだろうか。先進国中唯一の多神教的コスモロジー、というより、むしろそうした宗教観を超越した、無神論的コスモロジーをもった、他国から「脳天気民族」として嘲笑されるような、稀有な国柄ということがわかる。なぜ日本にだけ、こうした唯一無二のコスモロジーが生まれ、継続してきたのだろうか。
日本には、キリストも釈迦もキリストも、ましてや孔子、プラトン・ソクラテス、それにカントやへーゲルという哲学者もいなかった。日本が生んだ三人の天才と言えば、(私見だが)聖徳太子・空海、それに織田信長である。空海は釈迦の教えを報じる仏教者であり、信長はいわば鬼っ子的異端の存在であり、残るのは聖徳太子だけだと言うことになる。
だったら聖徳太子は一体私たちに何を伝えたのだろうか。外に対しては当時の超大国「随」の煬帝に、「日出ずる国の天子」という言葉で、対等の国発言を行ったこと、それに神道派と佛教派相争うことに歯止めを掛ける「神仏混淆」という『ハイブリッド宗教』の創造という偉業はあったが、私たちは、太子の施行した「一七条の憲法」の中で、わずかに『和を以て尊しと成す』という超有名な言葉を残したくらいしか記憶していない。
なんでもこの言葉は、孔子の論語の中からの引用だというのだが。驚くべき事にこの「和」という思想が、私たち日本人全体の不抜のアイデンティティとして、連綿且つ厳然と生き残っていることに気付く必要がありはしないか。
考えようでは、聖徳太子に言われなくてもこの「和」という性状は、それ以前から私たちが持ち続けていたものではないだろうか。私はそれを「縄文以来日本人の持ち続けてきた特性」だと思っている。