町田 宗鳳著 法蔵館 2,100円
これは14歳で家出して出家し、以後20年間禅宗寺院での僧坊生活を送ながら、その後一転して名門(ボストンの)ハーバード大学(神学部)大学院で修士課程を修了、フィラデルフィアのペンシルバニア大学東洋学部で博士号を取得した後、プリンストン大学で助教授として教鞭を取るという「破天荒」な半生を送ってきた著者の自叙伝であり、記述の各所に鏤(ちりば)められた、(仏教を中心とした)日本宗教のもとでの社会構造の生んだ明暗と、その対極(良くも悪くも)キリスト教文明の最先端にある米社会の抱えた明暗について、またそれぞれの社会の中で、錯綜し、混迷し、しかも乱高下を繰り返している精神のゆらぎについての、示唆と含蓄に富んだ比較文明論でもある。
これは14歳で家出して出家し、以後20年間禅宗寺院での僧坊生活を送ながら、その後一転して名門(ボストンの)ハーバード大学(神学部)大学院で修士課程を修了、フィラデルフィアのペンシルバニア大学東洋学部で博士号を取得した後、プリンストン大学で助教授として教鞭を取るという「破天荒」な半生を送ってきた著者の自叙伝であり、記述の各所に鏤(ちりば)められた、(仏教を中心とした)日本宗教のもとでの社会構造の生んだ明暗と、その対極(良くも悪くも)キリスト教文明の最先端にある米社会の抱えた明暗について、またそれぞれの社会の中で、錯綜し、混迷し、しかも乱高下を繰り返している精神のゆらぎについての、示唆と含蓄に富んだ比較文明論でもある。
プリンストン大学では、学生にとって人気講座となりながら、大学(と言うより)アメリカ教育界の有り様とのギャップなどからも窺い知れるアメリカの限界が契機なのか、同著を書いた2000年には、一転シンガポール大学の日本研究科準教授、その後東京外国語大学教授(01~06)を経て、現在は広島大学大学院総合科学研究科教授、週末は福山市郊外の「ミロクの里」に小庵を構え、非僧非俗の暮らしを送っている。
我々は本著によって、葬式仏教に堕した日本仏教界の中に残された、唯一高潔な戒律を守る宗派と思ってきた禅宗すら、世襲や妻帯など世塵にまみれており、しかも修行の場ですら妬みやいじめの存在するミニ社会であったことを知ることになるのだが、そうした現実が著者をアメリカという未知の世界に誘(いざな)った原動力の一つであった。
著者のアメリカでの生き様を読み取れば、生半可な体力や神経では到底耐えられないほど厳しいものであって、当初語学のハンディに加え、日本における論理的手法を欠如した宗教学と、多方面から知的アプローチ・分析・比較を厳密に行うアメリカの宗教学との間に横たわる、決して埋められぬことのない乖離にチャレンジしながら、自らの宗教観を確立していく著者の行動力・知識欲に圧倒されるばかりである。
一方そうした著者に寄り添い、二回の難産にも耐え抜いた、決して頑強とは言えない夫人の生命力の凄さに、むしろ戦慄すら覚えるほどだ。
著者は自叙伝的記述の中に、日米の比較文化論をさりげなく織り込んでいくのだが、ある面では日本の状況を擁護し、また批判しながら、同じスタンスで平等にアメリカの問題を指摘している。
たとえば著者は、(文明の)「アフリカ的段階」から「アメリカ的段階」という表現をしているように、アメリカ文明が決して文明の終着点ではないことを強調し、息の詰まる日常生活のカタルシスの一例だとして、アメリカのドラマに見られるカーチェースと銃乱射のシ-ンの多さを挙げる。現在注目を集める複雑系」あるいは「カオス理論」なども、こうした文明社会を背景に生まれたとも謂えるのではないか。
もっともこれは、戦後60年以上平和国家として生きてきた日本に於ける、殺戮をテーマとしたテレビゲームの普及にも言えることだが、その辺り3D技術の進化が可能にした、グローバルなヴァーチャル・リアリティの恐ろしさを痛感させられる。
著者はまたアメリカが口にするグローバリズムの欺瞞性を、大航海時代世界に進出していったキリスト教宣教師たちの愚行とオーヴァーラップさせながら痛烈に批判するのだが、その背景にある、善か悪・黒か白、右か左という二元論によって、世界の平和や安寧がもたらされると思うのは幻想に過ぎないことは、中東の有り様を見れば明白である。なにしろその裏にはしっかり「商業主義」が根を張っているのだから。
著者は謂う。
本当のグローバリズムとは、「徳島人は阿波踊り、花巻人が鹿踊り、アイヌは鶴の舞を踊ることが(明恵の謂う)「あるべきようは」の世界なのである。徳島人も、花巻人も、アイヌも、アメリカ風のディスコ・ダンスしか踊れなくなれば、「一切悪しきなり」と言ってもよいだろう。
また西田幾多郎の言葉を借りて語れば、として、
「アメリカ的段階」は、主体的で、意識集中的な生き方が尊重され、自我が前面に打ち出された「主語的世界」であり、それとは対照的に何事につけ曖昧な日本人は、「場所的」で、下意識的かつ拡散的な「述語的世界」に生きているといえよう。
この指摘は奇しくも先月、同欄で紹介した、モントリオール大学金谷武弘教授の、『日本語には主語は不要』という説と見事に重なり合うことに、偶然以上のなにかを感じてしまうのだ。
サミエル・ハンチントン『文明の衝突』は、日本文明を独立したものと認めながらも、『日本語版への序文』の中で、「日本は自国の利益のみを顧慮して行動することも出来るし、他国と同じ文化を共有することか生じる義務に縛られることがない」とした上で、第二次世界大戦以降のアメリカと、今後発展が続くと見られる新興覇権国中国との狭間で、今後どちらに付くかの選択や対応に迫られる、という問題にぶつかるだろうとしている。
ハンチントンさえも安住している(アメリカかチャイナかという)西欧的二元論な視座に立った発想からは、決して迷路の出口は見つからないのは当然だが、彼にこうした予告をさせる、今までの日本の生き様に対する反省に立って、これからの日本の有り様と展望にというて、本著は一つの示唆を与えてくれるようだ。
つまり、現在曲がりなりに多神教という平和な宗教観を持っている唯一の先進国日本の採るべき道こそ、虚偽と打算と非妥協に満ちた似非グローバリズムに代わって、真実と思いやりと共生を基底とした本物のグローバリズムの実現ではなかろうか。