今月の写真
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「自分で選んで歩き出した道ですもの」
―女の一生より―
―杉村春子
杉村春子といえば、広島の生んだ新劇界の女王であった。九十一歳で亡くなって十一年が過ぎる。映画に舞台に、その存在ぶりは伝説的に語られている。晩年の映画では、進藤兼人監督の作品「午後の遺言状」で、乙羽信子と共に老いた女優らしい演技力をみせた。
私は演劇批評家ではないが、舞台では、記録と記憶に残るのは、「女の一生」。森本薫の戯曲で一九四五年四月初演。久保田万太郎演出、杉村春子主演。孤児から中国貿易商となった「布引けい」の一生を通じて、明治~昭和の激動期を描いた作品。杉村春子さんは「布引けい」役を九百四十七回の公演でこなしたほどである。
それだけに、冒頭の色紙を見つけたときは軽い興奮をおぼえた。『流暢な書体』ながらも、言葉にこの人らしい芯の強さを感じたからである。その色紙は、広島市民球場前のレストラン「マリーナ」の一隅にさりげなく額に収められていた。
店のあるじ中川公一郎さんが、祖母寳山敬子(ほうざん・ゆきこ)さんと女学校時代の同級生だった杉村春子さんの縁で広島公演(一九九五年三月)の際に頂いたものだという。店は場所柄もあり、カープ球団担当のマスコミ関係者が出入りする。
過日、元カープの監督だった阿南準郎さんと選手の「能力格差」について話し合った時、阿南さんはこう言った。
「要は、選手の能力は練習への姿勢。練習をさせられていると思う者と自分の能力を高めるためだと積極的に取り組む者との差だね。自分の選んだ道への生き方だよ」
―好きこそものの上手なれ―であることを説いた。野球も芸道も同じこと。冒頭の杉村春子さんの言葉がそれを教えてくれる。
―すべての道は『愛』からはじまる―。
『愛』は『LOVE』でもあり『LIKE』でもある。
(風彦)
又暑い夏がやってきた。七月は私にとって喪の季節。娘が七歳で亡くなったのも。孫が一歳で亡くなったのも、看護師として手術室に勤務していた折、夏休み中に治そうと蓄膿症の手術をした高校生の男の子が、思わぬ出血で亡くなったのも、すべて七月。人は生まれたからには必ず死ぬものだが、いかにも早い死は、受け入れ難いものだ。しかし、一歳は一年分のたくさんの驚きや喜び、七歳は七年分のたくさんの思い出を残してくれた。あの高校生のご両親は今どうされているだろうかと三十年以上たった今も時々思い出すが高校生になるまでに重ねた想い出をご夫婦で楽しく語らっていらっしゃればと願う。
先月、毎年行うクラス会で宇治平等院を訪れた。平等院鳳凰堂は、約千年前の藤原頼道による建造物で、建築・彫刻・絵画・工芸が一体化し、さらにその周囲は、浄土庭園の遺構がひろがり、建築と庭園が融合したたぐい稀な遺跡で、世界遺産に登録されている。そのテーマは極楽往生を願う浄土信仰。鳳凰堂内部に描かれた各扉の来迎図には、看取るものと臨終者、仏様たちのお迎えの瞬間が、日常生活する場所や活動も含めて上品・中品・下品と生き方の格に応じて描かれている。
「まさに平生の中にこそ死があり、そこに自然の中からの迎えがあり、そのこと自体が「ありのまま」=自然である」と『平安色彩美への旅』の中で神居文彰氏が述べられているが、死と極楽往生を表す鳳凰堂を、お財布の中に必ずある十円玉に刻むという発想をしたのは、一体どこの誰なんだろう?
A: 日割り計算が利用できるのは、月途中に①要介護から要支援に変更となった場合、②要支援から要介護に変更となった場合、③要支援度が変更になった場合、④同一保険者管内での転居や事業所の廃止等により事業所を変更した場合 に限られるとされていました。しかし、平成20年4月21日付の「介護療養型保健施設に係る介護報酬Q&A」によると、ショートステイを利用した場合は、その利用した日数を減じた日数に日割の単位数を乗じて請求するとあります。新しくでたQ&Aですので県によって対応が異なるようです。そういう事例が出た場合は、保険者に確認される事をおすすめします。
①~④の場合の日割り計算は、サービスコード表にある日割りの単位を使用します。その単位×算定基準日数 です。算定基準日数の求め方は実際のサービス利用開始日ではなく変更日が起算日となります。
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あたりが暗くなってくると、ホホッ、ホホッ、とやさしい声が聞こえてくる。東広島市の町なかの、或るお寺の境内。アオバズクが今年もやってきた。市の都市化は著しく、中心街は高いビルで埋め尽くされ、夜も明々と灯がともされる。
お寺の方は今年も来てくれるだろうかと心配されていたが、やって来た。今年で見納めになるかも知れないと、6月の中旬、お寺の子供会の人たちに、一人ずつそっと観てもらった。お昼寝をしていたアオバズクは厳しい目でこちらを睨んだ(写真)。
アオバズクはフクロウの仲間で、初夏東南アジアからやって来て子育てをする。黒褐色の顔と丸い頭、大きな丸い目は金色。胸や腹は白地に茶褐色の縦斑がある。昼間は大きな木の枝で休み、夜行動する。
大正の末期に植えられたと言うセンダンの大樹、地上4mくらいの所に大きな空洞がある。損傷が激しく、入口にひさしをつけてあるが、ここ2年は巣として使われていないそうだ。今年こそは、この雄の呼びかけに応えてくれる雌が現れてほしいものだ。
(2008年6月27日記)
日本のマスコミは、国内の情報に重点を置いた報道を倦むことなく続けている。しかも明るいニュースを避けて、極端に暗い事件に偏っているきらいがある。良くも悪くも、「海外の日本を見る目」についての報道は、ほとんどないのが現状で、そうしたことからいつしかネクラにされてしまった日本人は、自らをまた自らの文化を極端に低く見ることに慣らされてきた。
冷静に伝統文化という面で見た場合、日本ほど長い歴史を有する文化は世界のどこにも存在しない。単に歴史の長さだけを見ると、お隣のチャイナなどに及ばないが、易姓革命によってそれ以前の歴史を否定し、事あるごとに「焚書坑儒」を繰り返してきたチャイナには、継続した文化や文明を持ち得なかった。今こそ日本の価値ある文化に新しい光を当てる時ではないだろうか。
それはしばらく置くとして、今いわゆるサブ・カルチャーと呼ばれるジャンルの中から、いつしか世界の注目を浴び、いまや真のカルチャーとして大きく羽ばたこうとしている分野があることを認識しなければならない。日本人自体が、それを日本文化だと認めるかどうかは別として、世界中で日本発文化として認知されたものが数ある事に気付かされる。
日下公人『数年後に起きていること』によると、「フランスやイタリアで学んだ日本人と、原宿表参道で感性を磨いたフランス人・イタリア人の競争が始まる」というのだが、いまや世界中、日本人の美意識や芸術的感性を疑う者は少数派だと言えそうで、「知らぬは日本人ばかり」という風潮といえる現状にある。
たとえば、ポップ・アーティスト村上隆だが、日本では「単なる模倣者で知らないガイジンばかりが持て囃す」と、その評価が依然として手厳しく毀誉褒貶の最中にあるが、あの世界一のブランド、ルイ・ヴィトンがデザインを依頼し、しかもそれが世界中で売れていることを無視できない。彼の評価は、評論家よりも年端もいかぬ少女が握っているのだ。
世界中でもっとも有名ブランドが売れ、特大の店舗をつくっている国は日本を置いて他ない。今や世界に著名ブランド(メーカー)にとっても、日本人の感性を無視してはやっていけない時代になったことを知るべきであろう。そこには「モノを唯の物と見ない」、縄文以来脈々と続く「モノづくり」に対する日本人の、美意識・感性の大きさがある。
もはや私たちは、かつての高度成長の復活を夢見たり、競争力の消長に一喜一憂する時代ではない。今こそ「日本人にしかできない 世界の新しい価値観を創造する」ことに意を注ぐときではないだろうか。
たとえば、世界中で普及しているカラオケ、スシ(寿司)をトップバッターとした和食、それにJ・カルチャーと呼ばれて注目を浴びているJ・ファッション、J・アニメ、J・ポップス(ポピュラー・ミュージック)など、私たちの目にはごく当たり前のサブ・カルチャーに過ぎませんが、その実、カラオケにしろスシにしろ、いずれもそのまま世界語として通用しており、高度に普及しているのが事実である。
特にスシの場合、ハンドメイドの和食というイメージに相反する、スシ・ロボットとコンベアーシステムというメカトロとの奇妙なハイブリッドが世界中で受けていると言えるし、カラオケではどんな歌でもワンタッチで即座に選択できて、曲に同調したテレビ画面には、状況にマッチした映像に加え、歌詞までがタイムリーに現れるというハイテク性が売り物となっている。ここには、決して他国が思いも付かなかった、ハイテクと感性を巧みにハイブリッドさせた日本の文化力が見て取れるではないか。
特に世界中を席巻している日本のマンガ・アニメだが、たとえば野茂英男やイチローが「巨人の星」「ドカベン」を見てプロ野球選手を夢みて成功し、女子バレー選手たちが「サインはV」を見て大きく育ち、日本の選手だけでなく、フランスの名選手ジダンにまでがサッカー選手を夢みるきっかけとなったという「キャプテン翼」、最近では少年囲碁ファンを増やしたという「ヒカルの碁」…。こうなればサブ・カルチャーなどという時代ではなくなったことがはっきりしている。
つづまるところこうしたJ・カルチャーは、決して無から有が生じたわけではなく、日本という国土が生んだ「たぐい稀な感性」に裏打ちされた文化であり、その根底に脈々と流れるのは、「縄文癒しのアニミズム」であり、「万葉の大らかさ」であり「平安の雅(みや)び」であり、「源平のものの哀れ・無常観」であり、「鎌倉の侘び・寂び」であり、「戦国の婆娑羅(ばさら)」であり、室町の「百花繚乱」であり、「安土・桃山の絢爛豪華」であり、「江戸の粋(いき)・風流」である。
しかもそれらが、集約され、渾然一体化し、醸成され、しかも昇華された「多様化の美」なのである。マスコミや多くの識者は、今の日本の持つ「多様性」に目をつむって、その一面だけを切り取って悪し様に言挙げしているのだと言えるだろう。
「硝子戸の中」
夏目漱石著 株式会社岩波書店 発行
「調査されるという迷惑」
安渓遊地著 みずのわ出版 発行
(哉)
【監督】ジェイソン・ライトマン
【出演】エレン・ペイジ、マイケル・セラ
物語の始まりは高校生で妊娠しちゃった、というちょっと古風(?)な出来事。主人公ジュノにとっての初体験は、彼女の周りの人たちにも初めて接する事件でした。驚き戸惑うのは「大人」たちで、しっかりと意思を持ち自分の決断を実行していくのはジュノと友人の高校生たちです。成熟できないでいる大人に、チープな服装でガムを噛みながら「しっかりしなよ」と叱るジュノのかっこいいこと!思わず「すみません」と謝ってしまいました。
16歳って結構しっかりしています。感受性は豊かだし、記憶力は良いし、神経伝導も活発だから判断も決断も素早いのです。10代を主人公にした映画は若さゆえの純粋さ、傷付きやすさを主体に描かれることが多いですが、この映画は若さゆえの賢さとたくましさを見直させてくれました。大人の皆さん、これを見て気持ちよく叱られましょう。
(nao)
自分が健康だな~とか、
頑張って働けるぞ、
というパロメーターは昼飯を美味く食べれるかどうかにかかっている、
と最近は思う。
市内の友人と久しぶりに昼飯を食べる。
お互いに忙しくなる前だから美味い昼飯をガッツリ喰らおうと言う事になった。
広テレの裏へ向かい、2階にあるその店に入る。
1時はとっくに過ぎているので少し遅めの昼飯。
空腹が限界まで近づき少し凶暴な気持ちになっている。
普段はお客さんでいっぱいの店内も今日は比較的、空いている。
いつものようにメンチカツ定食を頼もうと思ったが、すでに完売。
弁当とビフテキ丼しかないそうだ。
弁当よりはガッツリなビフテキ丼かな~?
と考えていたら弁当とビフテキ丼のセットがあるので二人ともそれを頼んだ。
しばらくしてドガーンとどでかい丼のような器がくる。
覗き込むと色華やかに肉、魚、野菜と詰め込まれてる。
これが弁当?
そして実は二段重ねのその下にビフテキ丼が隠されていた。
う~ん、こういうの好きなんよね~。
もどかしくも適当に写メり、ビフテキ丼から喰らう。
う~ん、牛、美味い。醤油タレとバターが効いて咥内から鼻腔をくすぐり暴れ狂う。
口いっぱいにほうばり、強引に嚥下すると飢餓による苛立ちから開放され笑顔が甦る。
柔らかさが肉の全てではないと聞いたが、口の中で溶け、米と共に拡がる旨さは間違いなくヤバイ。
そこに嘘はない。
少し余裕を取り戻した事で弁当の御膳にも、心が移る。
ハヤシのようなビーフストロガノフのようなのを食べる。
弁当とはいえど温かく、酸味と肉肉しい濃うま味がまた好みな感じで好き。
何よりドガーン入っているのがうれしい。
ケチ臭く少ないと冷めるのも早いしね。
これをまた丼のご飯にぶっかけて食べるとまたしんぼー、堪らん、てぐらい旨いよね。
やはりハヤシライスなんかな?
また魚や野菜でなんかバランスの良い食事をしてる気分となる。
そもそもこの店は洋食屋さんなんだがみそ汁もついており、和のスタンスの強い感じがした。
でも、それがこの店の暖かみに似合ってる気がする。
胃袋と心を満たされて久しぶりに満足した。美味い昼飯を食べる事はやっぱりいいよね。