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生物と無生物のあいだ

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

福岡 伸一著  講談社現代新書  777円

 著者は著名な分子生物学者である。当然内容も専門分野に限定されるわけだが、こうした学術関連書籍にも拘わらず、40万部を超えるベストセラーとなったのはなぜか。一読すぐにその理由が判明した。

 名文なのである。西洋の学者に比べて文章力の面で大いに劣った日本人学者という先入観が、見事に打ち破られた訳だが、なにしろ難解で(実際には有機質なのだが、)無機質なテーマの深部に我々を引き込んで放さない。各所導入部の風景描写から実在の登場人物の心理描写を加えて、仕事内容の分析と、置かれた立場の分析や日米の研究環境の違いなども、さりげなく挿入しながら「生物と無生物の間」という本題に入っていく手法は見事と言うほかない。

 ここで取り上げられるのは、ウイルス/DNA/アミノ酸→タンパク質→消化酵素の細胞膜浸透作戦/遺伝子操作によるキメラ(1つの個体に2つの形質を備えた怪物)  などへの飽くなきアプローチの軌跡なのだが、著者の作業を始め、それぞれ大きな功績のあった人物の「人となり」やその背景に隠されたエピソードを鏤(ちりば)めながら、難解な仕組みには巧みな比喩・修辞(レトリック)を駆使して読者をぐいぐいと引きずり込んでいく。

もっともあまりに精緻な身体内部の仕組みに、著者の──たとえば「砂上の城郭」「ジグソーパズル」など──著者の比類なき比喩・修辞の妙を持ってしても、精妙な細胞や酵素などの働きを描写する上で、部外者の理解の範囲を超える部分はあるが、それは大目に見なければならないだろう。ついでだが、各章のタイトルの中で、たとえば『チャンスは、準備された心に降り立つ』『タンパク質のかすかな口づけ』『時間という名の解(ほど)けない折り紙』など、あまりに詩的であり、哲学的ではないか。

 著者はまた日米の大学研究室の大きな違いを教えてくれる。日本の持つ閉鎖性・特異性の一貫として、一つは、(千円札にもなり)我々日本人にとって医学的英雄であった野口英世の功績だが、我々が目隠しされている部分として、彼が「梅毒・狂犬病・トラコーマ・黄熱病」の病原菌を発見という輝かしい功績だけが(今でも)一人歩きしているが、当時ウイルス測定が不可能であったことも併せ、現在そのほとんどが否定されている事実がある。加えて(実際には)遊蕩癖と浪費癖で、人格的に信用がなかったらしい。ところが日本においてはいまだにその実像を隠したまま英雄野口英也が胸を張って一人歩きしている事実がある。

 さて成功と不成功の分かれ目は偶然とか運不運という、いわば「神のいたずら」がつきまとうようだ。DNAの発見で一躍有名になった、ワトソン・クリック両博士だが、実際にはその陰で、入り口一歩手前まで近づいた学者オズワルド・エイブリーや、知らぬ間にその功績を下敷きにされたまま死んでいったロザリンド・フランクリンなどを、愛情のこもった筆致で私たちに知らしてくれる。以前本欄で紹介した『ダーウィンに消された男(アーノルド・C・ブラックマン著)』における純真なアルフレッド・ウオレスに思いをいたした次第である。そこには「運がよかったか悪かったか」というギャンブルじみた運命がほの見える。ワトソン・クリックの偉業は、そうした先駆者の研究の上に成立するのだが、結局(いささか場違いな言葉だが、)「一将功なりて 万卒枯る」ことになるようだ。

 特に最近の電子顕微鏡やスーパー・コンピュータの出現以前とそれ以後では、研究環境に雲泥の差が生じることになる。このことはそれ以前の労苦の面と、今後の飛躍的な研究成果の両面で受け止める必要性を筆者は言外に指し示してくれるようだ。

 ルドルフ・シェーンハイマーが実験したのは、追跡用放射線処理した重窒素の同位元素(アイソトープ)に置き換えたアミノ酸の行方を追うというものである。それらは速やかにあらゆる細胞に行き渡るばかりか、分子レベルでの置き換わりまでがなされること、それにその消滅や入れ替わりも又めまぐるしいほどのスピードだという事実である。このことは、特にアミノ酸→タンパク質は、食事によって吸収された後、ものすごい勢いで体細胞に取り込まれ、また消え去っていくという代謝を行っていたのだ。

 言い換えると、私たちの身体は、日ならずして(骨に至るまで)全く新しい細胞にすり替わるという激しい代謝作用によって、「絶え間なく壊される(そしてまた造られる)秩序=動的平衡」で成り立ってとことになる。では脳細胞に至るまで全く新しい細胞に代わってしまった私たちは、どのようにして記憶の連続性を保っていけるのだろうか。生命を取り囲むナゾはかくも深い。

 著者が示す「生命」の定義は、「(DNAが行う)自己複製という行為」だという、一見即物的な結論だが、彼が倦むことなく微細で精妙な「生命の世界」へのアプローチを続けられたのは、決して彼が非情で冷徹な無神論的心情の持ち主だったからではない。エピローグで彼が少年時代に、チョウのサナギや、トカゲのタマゴに注いだ愛の眼が、彼が自然に生物学の世界の住人へと誘(いざな)われていった後になっても、ずっと生き続けていることがわかる。

 彼は、「生命に、生命のない(無生命)のアミノ酸・タンパク質・酵素、その秩序ある集合体としてのDNAが関わっている」という確たる信念を抱きながら、これからも終わりなきミクロ探検の旅を続けていくことだろう。

 多分この本は、科学に無関係な文筆家を目指す人にとっても、素晴らしい指標を指し示してくれるだろう。とにかく幅広い分野の人にとって、必読の書として強く推薦したい。