『縄文が日本を救う!』 あとがき 2008年10月

縄文が日本を救う! 

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 2002年2月から「縄文塾通信」に掲載を始めて、先月2008年5月までの66回、途中で入院・手術で中断期間を含めて、(もっともメルマガ以前の郵送時代から数えて)6年と3ヶ月になる。

 その間ご愛読賜った方々に心より感謝申し上げたい。

 ここで復習として、日本民族特有の気質というか、あるいは性状というかだが、渡部昇一がつとに指摘するように、

 これはごく卑近な例に過ぎないが、明治という王政復古・藩政返還によって、諸侯のお抱え時計師達は失職する。

 精巧極まる和時計を作っていた彼らが目にした舶来の「ゼンマイ時計」は、至極幼稚極まりないものであって、彼らのDNAの中に眠っていた、
   1.これなら我々(日本人)にはすぐ出来る
   2.我々(日本人)なら、もっと良いものが出来る

 という気持ちが働いたとしても決して不思議ではない。また渡部昇一、それに堺屋太一が強調するように、日本人はつねに、

 「新しい文明を吸収する場合、不要なもの危険なものを鋭く嗅ぎ分けて捨て去り、換骨奪胎し自家薬籠中のものにしてきた」

 のである。

 当然そうしたことが許されたのには、我々(日本人)特有のメンタリティがあっただけでなく、それが許された理由として,「他とは隔絶された」特異な風土があったことも忘れてはならない。

 つまり幸運にも、こうした立地・風土は、他からの文化はなんとか吸収できても、そとからの武力的な攻撃は受けることがなかったのである。

 「逆も又真なり」で、その歴史上国力を外に向かって発揮することは稀であり、しかもその悉くが失敗に終ったという経緯がある。

 その立地から、日本を海洋国として、大英帝国に擬するという思想もあったが、これは全くナンセンスなものであった。

 さて、この両識者が指摘したメンタリティは、明治以降近代化した西洋文明の吸収に止まらず、、その後昭和の御代、欧米列強との戦いに敗れ去った後にも遺憾なく発揮され、むしろ一層強化され、「追いつき 追い越せ!」というスローガンを強化し、拍車をかけて脇目もふらず走り続けてきたのだのである。

 ところが今、気付いてみると、目標とすべき先行ランナーがいなくなったことから章狼狽しているのが現状だと謂えるだろう。なにしろ先頭ランナーだと信じてきた対象が、実は一周遅れのランナーだったのだ!

 このあたりを前号・前々号で触れてきたが、このことに加えてもう一つ重大なことは、それに軌を同じくするように、文明的爛熟による退廃の機運と、少子化による人口減少と重なりあっていることである。

 すなわち今の日本は、目指すべき目標の喪失と、少子化による「人口減」という、かつて経験したことのない二つの難題に直面しているのだ。

 こうした事情から、日本が2000年に亘って求めてきた道、「追いつき 追い越せ」というスローガンを捨て去って、「過去の英知から学ぶ」という新しいスパラダイムを国是とすべき重要な時期に来たのである。

 折しも、内には食糧自給率の低下・ゆとり教育の弊害・老齢化の進行など、かつてないマイナス要素が重なり合って問題を大きくしており、外では、エネルギーの高騰から、穀物事情の逼迫、加えて環境の悪化と砂漠化の進行など、問題山積である。

 特に中東を舞台に血を血で洗うエンドレスの宗教戦争から、世界中に拡大したテロの恐怖と、世紀末から新世紀に掛けていつ何時、第3次世界大戦が勃発してもおかしくない状況下にある。

 本文中紹介した「東西文明800年周期説」が、ますます現実味を帯びてきたとも謂えるだろう。

 こうした状況下、他国と比較するべくもないが、かつての明治維新における政治家・施政者の真摯且つ無私無欲な取組みに反して、いまの政治屋たちの無能さと脳天気さには唖然とするばかりである。

 もっともこうした人たちを選良と称して選んだ我々にも大きな責任がある。彼らの無能さに加えて,かつて世界最高の「テクノクラート」と賞賛された国家官僚の堕落と硬直性は目を覆うべきものがある。

 一方国民サイドではどうだろうか。多様化時代とはいうものの、昨今あまりに非道で不条理な事件が多すぎる。子供達もだが、、親の側や世間全般に対する「教育」の不毛性を指摘する声も多い。

 今こそ少子化を前提に、あらたに教育の基本的姿勢を再構築する必要が最大の課題であろう。

 これもまた大切なことだが、道州制度への前提としての小さい政府への移行の為に、何から何までお上が定めるという姿勢からの脱皮が肝要であろう。

 ただ悪い点ばかり強調しても事態はなんら改善されない。すでに先頭ランナーが居ないと言うことは、日本の技術が世界で最高に位置していることを示していることに通じる。

 今我々に求められるのは、現実を逃げることなく凝視して、自らの未来を、一部政治家や官僚に委託してよしとせず、加えて目を国外にも向け、積極的に日本をアピールする時期だと認識することではないか。

 環境問題にしろ、省エネ技術にしろ、今や日本の技術や発想抜きには成り立たないことに自信と誇りを持つべきである。

 加えて日本の精神文化としての「勿体ない!」「有り難う!」の心も、アニメやJポップと一緒に,輸出しようではないか。 

 

 

縄文が日本を救う!

“バック・トゥ・ザ・トクガワ” ・・・ 今こそ「温故知新」だ ・・・ 2008年09月

縄文が日本を救う! (66)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

★徳川時代再認識が始まった!

 前回(サブタイトル)『グロ-バリズムといかに対決するか』の後半で、「目標を失った今」として、次のように書いた。


 ところが今大きな問題となっていることは、「気がつけば日本が世界の先頭を走っていた」という事実であって、今までのように「追いつき追い越せ」という手法が通用しないことがはっきりしてきた。
 (中略)。
 同時に、「過去に捨て去ったものの中に、再評価すべきものがあまりに多くはなかったか」しかも「良いと信じて導入したものの中に、むしろ排除すべきものはなかったか」という反省がある。 (後略)

 同文中、列記してきたように、かつて日本は常に新しい文化・文明を吸収・咀嚼し、一定の消化・熟成期間を経て、換骨奪胎して新日本ハイブリッド文化としてきた。

 ところが明治維新というかつてない巨大な国難に直面したとき、早急且つ貪欲に新文明を受け入れなければ国家存続に関わるという危機意識に捉らわれたのである。いわゆる「疾風怒濤時代」であった。


★2つの超弩級「国難」

 国の首脳・中枢要員を含むによる一大デリゲーション(遣欧使)を組織して、1年有余という長期に亘って欧米列強への訪問・視察という破天荒で貪欲な新文明吸収という壮挙を成し遂げるのである。

 その結果、無血で技術革命を自家薬籠中のものにすると共に、明治革命の主役であった武家階級まで(秩禄革命によって)切捨て、富国強兵を旗幟に掲げて瞬く間に世界の大舞台に躍り出た。

 かくして大正・昭和と拡大の一途を辿り、結局大東亜戦争(太平洋戦争)に一敗地に塗(まみ)れてしまう。

 その後の経緯は省略するが、想像を絶する苦労の末、お家芸の「モノづくり」によって奇跡的な復興を遂げ再び繁栄の途を歩むことになるが、ここでもまた新しい文明吸収に努めることで、さらなる繁栄を勝ち取ってきた。

 かくの如く日本は、常に「追いつき追い越すための目標」を必要としてきた歴史を繰り返してきたのだが、ここに来ていわば一種のバーンアウト(燃え尽き症候群)を発症したと言えるだろう。

 現在の日本の混迷と不安、自信や目的達成意欲喪失などは、ここに由来するといっても言い過ぎではないだろう。

 ここで明治以来日本の採ってきた来し方を振り返ってみよう。

1. まず明治維新=王政復古という革命の達成には、どうしてもそれ以前の「徳川時代」というパラダイムを打破する必要があった。
2. その後吸収すべきものの余りの多さとグローバルな時代趨勢の中で、過去を振り返る余裕などとても持てなかった。
3. 戦後マルキシズムの汚染で、江戸時代を「暗黒時代」として糾弾する風潮が高くなった。
4. 技術革新のめまぐるしい進歩の中で、「追いつき追い越せ」という思想があたかも「国是」のような合い言葉になっていった。

 そして今、気付けばいつしか先頭ランナーになってしまっていたのだが、バブル絶頂期には、むしろ「(日本は世界から)すでに学ぶものはない」という傲慢で思い上がった考えが横行し始めたのである。

 その後バブル崩壊によって、そうした自信が打ち砕かれると一転して、重症の「混迷と不安、自信と目的達成意欲喪失症候群」に罹ってしまったのである。


★国家的規模での「温故知新運動」のすすめ

 ここで今始めてといえる、国家的規模での「温故知新運動」として、「バック・トゥ・ザ・トクガワ!」に取り組むことを提唱したい。

 ご存じのように昨今、省エネ意識の高まりの中で「リサイクル運動」が活溌になってきた中、江戸時代こそ世界に誇りうる「超リサイクル先進国」だったことも昨今大いに喧伝されるようになった。

 なお少し前から「江戸学」として、265年に及ぶ平和な時代「パックス・トクガワーナ」が注目されてきた。(本号記載,「感銘の1冊」『江戸の遺伝子』参照)

 「前方に目標を失ったのならば、後ろを振り返ってみよう!」という話である。
一寸考えてみるだけでも、急ぎすぎた結果失ったものの余りの多さに気付くであろう。最近ベストセラーになっている「品格本」などのブームがまさにそれを示している。

明治維新当時、新興日本をリードしてきたのは、福沢諭吉・森有礼(ありのり)・西周(あまね)などの西欧派教育者たちであった。彼らは日本語を捨てローマ字・英語を国語として採用しようとまで考える。

 そうした文明開化の波の中で、過去との決別の一端として強行したのが「廃仏毀釈」運動であり、「神社合祀」であった。その結果いかに国家的財宝が破壊され放逸し、しかも弊履の如く海外流出していったことか。

 さいわい、日本の自然環境と伝統文化の破壊を憂慮した南方熊楠や、佛教美術・芸術の破壊や海外散出に警鐘を鳴らし続けた岡倉天心などの尽力で、「廃仏毀釈」の流れは辛うじて堰き止められたのである。

 そうした経緯を踏まえて現状を見ると、やはり教育面での問題が指摘されるだろう。
 いまや日本の伝統的教育の根幹が失われ、漢字制限という愚行に加え、まるで役に立たぬ英語教育が延々と継続されてきたことか。加えて自分の頭で考える術を軽視する、丸暗記方式という進学優先教育に堕してきたか。

 ここではいささか極論的に(明治から敗戦までの)日本における、「過去との決別」を強調してきたが、誤解を防ぐために付言すれば、それでもなお日本は、伝統文化とその継続を重視してきた国柄であることはまぎれもない事実である。

 ただ敢えて「文化と文明」とに別けて考えた場合、たとえば悲惨な生活を強いられた戦後において、「物質文化から物流文明」へ、「自然から人知」への偏向を余儀なくされたように、予想以上に進んだ欧米(舶来)文明に対する憧憬が、文化継承意識を上回った結果だとも謂えるだろう


★破綻に直面したグローバリズム

 昨今の狂乱的石油価格、代替燃料としてのバイオエタノールへの移行など、アフリカを中心とした食糧難や水不足現実化の中で、まるで歯止めの掛からない状態が続いている。

 これは現在の投機市場・金融システムが、いかにいかに不条理なものかを如実に示している。果たしてこうした理不尽な仕組みがこのまま継続されて良いのか、おそらく何かのきっかけで一挙に破綻し崩壊する危険性を内蔵している。

 デリヴァテイヴの基本となる先物取引は、江戸時代世界で始めて米のリスクヘッジを目的に大阪堂島で創出された。ところが今では、本来のリスクヘッジの本質を逸脱して、行き過ぎた投機目的手段に堕しているのだ。

 こうした中において、世界経済の有力一員として、日本のなすべき事の見極めと、確固たる信念の元でのネオ・グロ-バリズム構築のために、我々は真摯に「江戸の智恵」に学ばなければならない。

  『江戸の遺伝子』と重複する部分も多いので以下割愛するが、いま日本における国家的規模での『新温故知新運動=バック・トゥ・ザ・トクガワ』こそ、喫緊の急務ではないだろうか。


*** お知らせ ***

 長らく『縄文が日本を救う!』ご愛読賜り、ありがたく厚く御礼申し上げます。

 実は今,本稿を中心として新たな構想も加え、『縄文が世界を救う!』として世に問うべく鋭意執筆中です。

 つきましては『縄文が日本を救う!』本号を持って、休筆いたしたく御通知申し上げます。

 

縄文が日本を救う!

グロ-バリズムといかに対決するか 2008年08月

縄文が日本を救う! (65)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

★理不尽な現実

 2000年少し過ぎた頃からようやく回復を見せ始めた日本経済だが、相次ぐ原油高と、穀物価格の高騰に加え、アメリカで発生したサブプライムローン崩壊の影響をもろに受けて、前途に再び暗雲が立ち籠めてきた。

 一国の力だけではどうしようもないグロ-バリズムの荒波に、日本はいかに対応していくのだろうか。なにしろ実際には、それ以前に比べて急に産出量が減ったわけではないのに、金融市場に溢れた余剰資金が石油業界に流れ込んだのが原因で石油価格が高騰した。

次いでそれまで食料・飼料用に生産されていた穀物が、バイオエタノールにシフトしたことから、その暴騰につながり、たちまち食糧難に陥ったアフリカ諸国では、大きなパニックから暴動騒ぎまで引き起こしている。

 工業先進国として化石燃料への依存度が高く、しかも食糧自給率30%を切っていることから、その影響をもろに受けた日本として、いかにこうしたグロ-バリズムの荒波を乗り切ればいいのだろうか。


★今更鎖国は許されない

 特に金融・株式界でグロ-バリズムの(日本人の意識にとって)不条理・非常識さは目に余るものがある。だからと言って開かれた世界に住む以上、今更「鎖国政策」を、「攘夷主義」を採るわけにはいかない。

 逆に一方日本も、グロ-バリズムの恩恵を受けて来たことも事実である。グ-バリズムの負の一面だけを取り上げての、軽率で身勝手な判断は厳に慎まなければならない。

 では我々は、いかに対応していけばいいのか。個々の問題にまで踏み込むことは別に機会に譲るが、一つだけ言えるのは、かつて日本が外に開かれる度に行ってきた、
海外文化の導入術、言うなれば、「縄文に発した匠の技」をバックボーンとして、弥生との遭遇以降、常に無意識のうちに行われた、「ヒトと文化のハイブリッド化」を、ここでも意識的且つ積極的に行うことである。

 考えようでは、グロ-バリズムとはいいながら、その現状はアングロ・ユダヤというアメリカ発市場原理の最後の足掻きだと見ることも出来る。いまこそ新しいグロ-バリズムの創成を考えるべき時期ではないだろうか。


★日本ハイブリッド文化の軌跡

 日本においては、外来文化の吸収→咀嚼→消化の過程において、不要なものは排泄してしまい、必要なものだけを取り込んでまさに換骨奪胎、一定の熟成期間を経ることで、従来の日本文化と合体して、移入元の文化を遙かに凌駕する新日本文化を創造してきたのである。

 ここでその軌跡を検証してみよう。
 (↓は醸成期間)

<日本のハイブリッド文化>

縄文×弥生

↓ 古墳時代
     (農業革命)
帰化人×縄+弥=日本文化・文明

↓  奈良時代・律令
     (都市文明)
髄・唐×日本文化・文明

↓  平安時代
     (漢字+仮名文字)
(元寇)×日本文化・文明

↓  戦国時代/下克上
     (古い権威の崩壊)
明・ポルトガル×日本文化・文明

↓  室町・安土・桃山時代
     (百花繚乱・絢爛豪華)
英・オランダ×日本文化・文明

↓  徳川・江戸時代
     (庶民文化・地域産業)
欧米文明×日本文化・文明

↓   産業革命時代
     (疾風怒濤時代・富国強兵)
米・物量文明×日本文化・文明

↓  敗戦後の日本時代
     (平和モノづくり立国)
グローバリズム×日本文化・文明

↓  バブル崩壊時代
 
ネオ・グロ-バリズム
(新日本文明の創成へ)

 
 ここでは影響力の大小を問わず取り上げたが、それ以外にも数多くの海外文明との接触によって、日本の文化そして文明の進化が行われてきたことは間違いない。


★目標を失った今

 ところが今大きな問題となっていることは、「気がつけば日本が世界の先頭を走っていた」という事実であって、今までのように「追い抜き追い越せ」という手法が通用しないことがはっきりしてきた。

 しかも一神教に発したグロ-バリズムが、ようやく崩壊の兆しを見せているという事実である。

 同時に、「過去に捨て去ったものの中に、再評価すべきものがあまりに多くはなかったか」しかも「良いと信じて導入したものの中に、むしろ排除すべきものはなかったか」という反省がある。

 ここらで一呼吸置いて、じっくりと過去を振り返って見るべき時が到来したのである。  
 (以下次号)

 

縄文が日本を救う!

世界を席巻するJ・カルチャー  サブ・カルチャーから真のカルチャーへ 2008年07月

縄文が日本を救う! (64)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 日本のマスコミは、国内の情報に重点を置いた報道を倦むことなく続けている。しかも明るいニュースを避けて、極端に暗い事件に偏っているきらいがある。良くも悪くも、「海外の日本を見る目」についての報道は、ほとんどないのが現状で、そうしたことからいつしかネクラにされてしまった日本人は、自らをまた自らの文化を極端に低く見ることに慣らされてきた。

 冷静に伝統文化という面で見た場合、日本ほど長い歴史を有する文化は世界のどこにも存在しない。単に歴史の長さだけを見ると、お隣のチャイナなどに及ばないが、易姓革命によってそれ以前の歴史を否定し、事あるごとに「焚書坑儒」を繰り返してきたチャイナには、継続した文化や文明を持ち得なかった。今こそ日本の価値ある文化に新しい光を当てる時ではないだろうか。 

 それはしばらく置くとして、今いわゆるサブ・カルチャーと呼ばれるジャンルの中から、いつしか世界の注目を浴び、いまや真のカルチャーとして大きく羽ばたこうとしている分野があることを認識しなければならない。日本人自体が、それを日本文化だと認めるかどうかは別として、世界中で日本発文化として認知されたものが数ある事に気付かされる。

 日下公人『数年後に起きていること』によると、「フランスやイタリアで学んだ日本人と、原宿表参道で感性を磨いたフランス人・イタリア人の競争が始まる」というのだが、いまや世界中、日本人の美意識や芸術的感性を疑う者は少数派だと言えそうで、「知らぬは日本人ばかり」という風潮といえる現状にある。

 たとえば、ポップ・アーティスト村上隆だが、日本では「単なる模倣者で知らないガイジンばかりが持て囃す」と、その評価が依然として手厳しく毀誉褒貶の最中にあるが、あの世界一のブランド、ルイ・ヴィトンがデザインを依頼し、しかもそれが世界中で売れていることを無視できない。彼の評価は、評論家よりも年端もいかぬ少女が握っているのだ。

 世界中でもっとも有名ブランドが売れ、特大の店舗をつくっている国は日本を置いて他ない。今や世界に著名ブランド(メーカー)にとっても、日本人の感性を無視してはやっていけない時代になったことを知るべきであろう。そこには「モノを唯の物と見ない」、縄文以来脈々と続く「モノづくり」に対する日本人の、美意識・感性の大きさがある。

 もはや私たちは、かつての高度成長の復活を夢見たり、競争力の消長に一喜一憂する時代ではない。今こそ「日本人にしかできない 世界の新しい価値観を創造する」ことに意を注ぐときではないだろうか。

 たとえば、世界中で普及しているカラオケ、スシ(寿司)をトップバッターとした和食、それにJ・カルチャーと呼ばれて注目を浴びているJ・ファッション、J・アニメ、J・ポップス(ポピュラー・ミュージック)など、私たちの目にはごく当たり前のサブ・カルチャーに過ぎませんが、その実、カラオケにしろスシにしろ、いずれもそのまま世界語として通用しており、高度に普及しているのが事実である。

 特にスシの場合、ハンドメイドの和食というイメージに相反する、スシ・ロボットとコンベアーシステムというメカトロとの奇妙なハイブリッドが世界中で受けていると言えるし、カラオケではどんな歌でもワンタッチで即座に選択できて、曲に同調したテレビ画面には、状況にマッチした映像に加え、歌詞までがタイムリーに現れるというハイテク性が売り物となっている。ここには、決して他国が思いも付かなかった、ハイテクと感性を巧みにハイブリッドさせた日本の文化力が見て取れるではないか。

 特に世界中を席巻している日本のマンガ・アニメだが、たとえば野茂英男やイチローが「巨人の星」「ドカベン」を見てプロ野球選手を夢みて成功し、女子バレー選手たちが「サインはV」を見て大きく育ち、日本の選手だけでなく、フランスの名選手ジダンにまでがサッカー選手を夢みるきっかけとなったという「キャプテン翼」、最近では少年囲碁ファンを増やしたという「ヒカルの碁」…。こうなればサブ・カルチャーなどという時代ではなくなったことがはっきりしている。

 つづまるところこうしたJ・カルチャーは、決して無から有が生じたわけではなく、日本という国土が生んだ「たぐい稀な感性」に裏打ちされた文化であり、その根底に脈々と流れるのは、「縄文癒しのアニミズム」であり、「万葉の大らかさ」であり「平安の雅(みや)び」であり、「源平のものの哀れ・無常観」であり、「鎌倉の侘び・寂び」であり、「戦国の婆娑羅(ばさら)」であり、室町の「百花繚乱」であり、「安土・桃山の絢爛豪華」であり、「江戸の粋(いき)・風流」である。

 しかもそれらが、集約され、渾然一体化し、醸成され、しかも昇華された「多様化の美」なのである。マスコミや多くの識者は、今の日本の持つ「多様性」に目をつむって、その一面だけを切り取って悪し様に言挙げしているのだと言えるだろう。

縄文が日本を救う!

グロ-バリズムとジョーモニズムのハイブリッド ・・・ ネオ・グロ-バリズムの創成ー2 2008年06月

縄文が日本を救う! (63)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 小泉前首相は、「自民党をぶっ潰す!」「改革無くて成長無し」と獅子吼して、国民の圧倒的な支持を得、強引な手法で「規制緩和・構造改善」に着手した。その結果保守論壇を含め、自民党内も真っ二つに割れてしまった。

 ところが小泉さんのあとを継ぎ、国民の大きな期待を担って、ようやく世界で通用する若さと実行力を持った(と思われた)安倍総理の登場だったが、相次ぐ閣僚のスキャンダル、それに思わぬ年金問題から、タカ派的スタンスを恐れ嫌う守旧派議員や官僚に加え、マスコミまでもが陰に陽にその足を引っ張るという、まさに「ヤヨイズム」の猛攻に会い、結局衆参両院における大きなねじれを生んだままで退陣してしまった。その結果いま福田内閣になって、改革路線の大きな後退が指摘されている。

 おそらく意見の大きく分かれるところだが、だったら「改革は不要か?」といえばノーであって、やはりこれからも改革は大いに進めなければならないという事になる。結果の是非は歴史が答えを出すことだが、いまの守旧派の有り様を見ると、明治維新での改革派と守旧派の対決と酷似している気がしてならない。

 原理原則をモットーとするアメリカでは「共和党=保守VS民主党=リベラル」という明確な図式だが、日本の場合保守とリベラルの混在、それに社会主義者まで加わるという「あいまい型」であり、確固たる主張や大義名分は欠如し、「政策無くて政局有り」という現状から見て、とても2大政党政治実現は「夢の又夢」といったところである。

 それと同時に、今日本の取り組むべき急務は、どう考えても「官僚制度のリストラ」なのだが、まず自民党では不可能だし、さりとて自治労シンパや官僚OBが横流れた民主党で、それを成し遂げることが出来るかという危惧がある。

 となればねじれ現象を解消させるための再編成「ガラガラポン」が不可欠なのだが、現実的には、政治の停滞を懸念する形での「大連合論」がくすぶり続けている。欲を言えば、いたずらに政権に恋々しない若手を中心とした真性保守政治家が1つになって独立し、理想を現実化させる努力を地道に講じて欲しいのだが…。

 さて本題の「ネオ・グロ-バリズムの創成」だが、その前提として「日本をいかなる国体とすべきか」という、根本的命題抜きには不可能である。その場合政治家にしても官僚にしても、はたまた学識経験者やマスコミにしても、確たる回答を持たないようでは、到底実現不可能な相談である。

 金融市場において、いまや「ニホン・パッシング(無視・素通り)」がますます進行している。少なくとも世界第2位のGDPを誇る国の有り様ではない。ここは実質経済をはるかに凌駕する金融マネーが飛び交う世界とはいえ、閉鎖的な日本の株式市場のあり方に愛想を尽かしたためであって、なにも日本の企業に魅力が無くなった訳ではない。むしろ実力に比べて株安だと言われている。

 本当に日本企業に実力がないためなら諦めも付くが、実力以下に評価されるところに、日本における市場関係者の不手際や拙策があるというべきである。まず第一に、自国の力に自信を持てない事に繋がる「円安誘導」がある。しかもそれを論議しない(させない)風潮がある。もしそれが低評価の原因だとすれば、その改善を急ぐ必要がある。

 企業サイドにしても、いたずらに買収を恐れることなく、しかも充分に買収問題の研究を怠ることなく、その戦術・戦略を研究して逆に買収側に廻ることも視野に入れるべきであって、そのためには広く世界から人材を求める事も必要であろう。

 と同時に、特に製造業の場合は企業のアイデンティティや経営理念として、「短期利益を優先しない。研究費や最新設備を導入する。それに人材育成に投資する。」という方針を大きく掲げ、つねに公表する努力を怠ってはならない。しかもこれは、技術立国ニッポンの国是だということを広く知らしめることが必要であろう。

多くの人は日本製造業の代表を自動車・家電・IT機器だと思いこんでいる。ところがそれらはすべて全世界からの部品の集合体であって、相対的に日本の製品が多いというだけで絶対的なものではない。

 いま我々が知るべき事は、そうした部品の中でも特に必要不可欠な部分において、日本が圧倒的な力を持っていることと、そうした圧倒な力量を持っていることであり、しかもそうした製造業のほとんどは、買収には無縁の中小企業だという事実である。ということは、そうした中小企業群が安泰でいる限り、世界の中でしめる日本の地位はいささかも揺るがないと知るべきである。

 日本の企業の、実に99%以上が中小企業であり、しかもその比率は年々高くなっており、2004年度では、実に99.7%に達している。ちなみに中小企業の定義だが、平成11年の中小企業基本法改正で、

1.資本金3億円以下(卸売業については1億円以下、小売業、サービス業については5,000万円以下)
2.常時使用する従業員の数が300人以下(卸売業、サービス業については100人以下、小売業については50人以下)の会社及び個人事業者とされている。

 このことは、いわゆるグローバリズムによる買収や合併騒ぎには無縁の企業がいかに多いかということを示している。それを知った上で国の取るべき政策とは、

1.中小製造業の保護・育成・振興をはかる
2.地方大学との産学協同による新製品開発研究制度の拡充をはかる
3.過疎地の活性化と併せて、企業の移転・拡充に便宜を図ること
4.共同製品開発・販売・仕入れや販売のネットワーク構築、
5.中小企業のために、海外での関連見本市への出品など、クローバルな販路拡充へのテコ入れと優遇策

などなどである。

 ここでの問題は、こうした中小企業への融資を、日本の金融機関が(土地担保・連帯保証など)旧態依然とした対応に終始し、いわゆる「貸し渋り・貸し剥がしなどを行うようでは、優良企業の外資依存への傾斜を招きかねない。寡聞にして、日本金融界が世界での実例を元に、新しい融資システムを構築することが急務であろう。

 

 

縄文が日本を救う!

グロ-バリズムとジョーモニズムのハイブリッド ネオ・グロ-バリズムの創成 2008年05月

縄文が日本を救う! (62)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

(毀誉褒貶はあるものの)小泉・竹中路線によって、一応はどん底から立ち直った日本経済だが、マスコミは、新たに格差問題とか、「勝ち組・負け組」「ワーキング・プア」など新しい課題をことさらに喧伝している。いくらグロ-バリズムに問題有りと言っても、日本もその開かれた世界市場で活動する以上、それを鎖国的感覚で排除するわけにはいかない。

 問題は、もっと広く視野を広げて、アメリカという「アングロ・ユダヤ」という市場原理主義者以外の価値観を持つ、穏健な仕組みの中で生きる国々の研究も怠ってはならないだろうし、その上でニホンナイズした新しいグローバリズムを構築する必要がある。

 また相手の手口を研究して、「待った」のかからない企業乗っ取り騒ぎや、株の買い占めなどから会社を守る必要がある。企業買収の動きは、なにも外資だけではない。かつてのホリエモンや村上ファンドなど、マスコミが「勝ち組」と持ち上げ続けてきた虚業の仇花であるマネーゲーム感覚の若者たちの跳梁も目に付いた。

 その後、介護サービルの「コムスン」・英語教室の「NOVA」・人材派遣の「グッドウイル」などなど…、時代の寵児と謳われたソフト企業のモラルハザードや破綻を見ると、虚業のむなしさが増幅されるばかりである。これは何もソフト産業が日本という風土に根付くかどうかという問題ではなく、トップの知らないまま、あるいは知った上でのモラルハザードを許容する姿勢に虚業の本質があることを知るべきである。

 さてこのグロ-バリズムだが、どうもアメリカにおける1970~80年代の「脱工業化社会論」から端を発しているのではないかと思う。アメリカでは、日本を始めとする工業国台頭の中で、次第にその思想が国是になり、急速にサービス産業優先に傾斜し、製造品は外国の安いものを購入し、アメリカは物販を基底として、IT産業・金融産業など頭脳産業に特化していった経緯がある。その結果、ゴールデン・シィクスティ(黄金の60年代)といわれた中流階級花盛りの時代から、急速に上下の格差が拡大していき、低所得者層やホームレスの増大に繋がっていく。

 ある識者は、アングロ・サクソンをハチ(蜂)、イスラムをサソリ(蠍)、ユダヤをクモ(蜘蛛)、そして日本をアリ(蟻)であると例えた。ご存じのようにいままで働きアリの日本は、相手の弱点を鋭く突くハチと、知的所有権の網を張り巡らして獲物を絡め取るクモの共同部隊「アングロ・ユダヤ」の、狡猾極まりない戦略と戦術によって、いかに膨大な国富を掠め取られてきただろうか。今こそ馬鹿正直で脳天気なアリが、いかに彼らに立ち向かうべきかが問われているのだ。

 たとえばこのグロ-バリズムの本性だが、日本の閉鎖性を突くために、「グローバル・スタンダード(国際標準)などといいながら、その実アメリカ発の市場原理主義ルールであって、そのアメリカ自体、いまだにポンド・ヤード法を遵守し国際標準であるグラム・メートル法を採用していないというダブルスタンダードに安住していることも認識する必要がある。

 では、西欧はどうか? 最近アメリカ主導の経済環境から脱して、ユーロが堅調なところから、国際通貨としての道を着実に歩んでいるEUでは、そこに食い込もうとしている日本企業の動きを警戒して、多くの制約や罰則強化している。日本円が国際通貨としての力を持ち得ず、さりとて今更かつての鎖国制度に戻れない以上、否応なくグローバルな視野での対応を講じる必要がある。

 あの有名なヘッジファンドの雄、ジョージ・ソロスは、最近急速にアメリカ離れの言動を行っているが、考えようでは沈みかかったアメリカという船から、ユダヤがいち早く逃げ出そうとしているという見方さえ出来るだろう。

 すなわち幾多の欠陥を蔵した「グロ-バリズム」と、どのように接していくべきかが今後の重要な課題となるであろう。ここで提示したいのは、新しいグロ-バリズムとジョーモニズムの合体、言い換えると両者のハイブリッドとして、「ネオ・グロ-バリズム」を創成することが急務でではないか。
 (以下次号へ)

 

縄文が日本を救う!

グローバリズムの本性 2008年04月

縄文が日本を救う! (61)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 20世紀の後半、日本を襲ったハゲタカ・ファンドだが、資金の出所は全世界に亘るとして、運営の主力は(筆者が)アングロ・ユダヤと呼ぶ、アメリカを中心とした金融界における自由経済至上主義者である。

 彼らは閉鎖的な日本の金融障害を打破するために、当時の大蔵省官僚に「グローバル・スタンダード」という和製英語まで作って押しつけようとした経緯がある。真に実情のわかっていない当時の橋本首相と大蔵官僚たちは、彼らが言うがままに、「金融ビッグバン」と称して、金融機関の自己資本比率の拡大や、所有株式の簿価評価から時価評価への切り替えなど「ハードランディング」を強行した。

 加えて当時の大蔵大臣宮沢喜一は、金融機関に対して土地絡みの貸し出しに制限を加え、地価監視制度を設け、更に土地税制を変更したのだが、そのとき既に、土地の価格は下落し始めていたため、そのタイミングを失した引き締め経済制度によってバブルは一気に崩壊したのである。そうした愚策のため、その後10年以上に亘って、バブル崩壊後の長くて暗い「宴の後の呻吟」を続けることになったのである。

 2001年4月、「自民党をぶっ潰す」「改革なくして成長無し」また「郵政改革」という勇ましいかけ声と共に登場した小泉内閣に、国民は熱狂的な支持を持って応えた。経済金融面で小泉首相を支えた竹中金融相は、大きな不良債権に悩む銀行に「公的資金」を惜しげもなく投入し、無金利に等しい低金利という超優遇策を講じるという荒技を断行した。

 その間日本の多くの製造業は、血のにじむリストラを行うと共に、本来の「モノづくり」に回帰していくことで、ようやくバブル後遺症から立ち直ることが出来たのである。製造業には(金融機関のような)優遇策は一切採られなかったが、国の援助に頼らぬ自主努力によって、自らの進路を確実にしていったのである。

 これを見ると、明治維新後の産業革命を、和魂洋才とばかり欧米に追いつき追い越せという「モノづくり」によって乗り切り、その後有史以来初めての敗戦という最悪の国難時も、やはり「モノづくり」によって見事克服してきた。続いてバブル崩壊後の立ち直りも、おなじく「モノづくり」というジョーモニズムによってなされたことを強く心にとめるべきである。

 ご存じのようにアメリカは1970年代以降、第3次産業という「脱工業化社会」への道を歩み始めた。これはサービス業・金融産業・知的所有権関連などだが、そのごIT産業の台頭から、一段と加速されていった。

 もともと「商」というカテゴリーに秀でた民族性から、また四半期決算・株主優先という制度もあって、彼らにとって脱工業はそれほど苦にはならなかった代わりに、製造業での国際競争力は停滞の一歩を辿ることになる。たとえば、約10年という大きなハンディキャップを貰いながら、結局GMにしろフォードにしろ、再びトヨタ・ホンダを先頭とする日本自動車業界に再び席巻された事でも明白である。

 だだ残念なことに最近日本の製造業界において、かつて見られなかったモラルハザードが発生している。その根拠として(すべてとは言えないまでも)トップにモノづくりの経験のない人たちが占めているケースが考えられる。日本の製造業には一時もてはやされたNBAという利益追求型の経営スペシャリストは不要だったのである。

 すなわち日本の企業風土として、株主優先でなく顧客・社員優先であり、何よりも品質優先であって、研究のための投資を、それに即応する設備投資を惜しまずに重視してきた。これこそグロ-バリズムと相容れぬジョーモニズムの真骨頂であって、そこに立ち返らない限り、真の日本の復活はなされないであろう。幸い日本の企業には、まだ自浄作用が働いている。今こそ新たな企業倫理の立て直しと、モノづくりの原点に立ち直ることが急務といえよう。

 その一方利益追求という一点のみで、「企業買収」というグローバリズムが、爪を研いで虎視眈々と日本の優良企業を狙っている。それに対抗するためには、「敵も知り 己も知る」という対応策の構築が急務だと言えよう。と同時に、「モノづくり」においては、日本型経営法が最適であるという発信をつねに怠らない事が肝要ではないか。

 

縄文が日本を救う!

「ジョーモニズム」とはなにか-2 2008年03月

縄文が日本を救う! (60)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

5.ジョーモニズムに対する(比較文化論としての)ヤヨイズム、そしてグローバリズム

 縄文人は「クニ意識」を持たなかったが、後に渡来する弥生人ほど、国家統一意識が高く、邪馬台国から大和王朝などを形成する。弥生人の特徴・資質それに思想は、コメづくりを根底とした社会制度を完成させる。

 この縄文(ジョーモニズム)と弥生(ヤヨイズム)の邂逅は、自由と規則、創造性と模倣・改善性、工と農、断続と継続など相反する特性を包含したハイブリッド日本人を誕生させた。しかもその絶妙の立地によって、殆ど狩猟文化に触れることなく、この採集→農耕という生活様式は、必要なものだけを吸収し、不要なものは捨て去るという「いいとこ取り文化」によって他国の侵略をかわして、実に19世紀、黒船襲来・開港に到るまで継続することになった。

 では「グローバリズム」とはなにか。世界の歴史を文明発祥の時代から大きく俯瞰すれば、なべて狩猟→遊牧の民による、採集→農耕の民の支配・隷属化であった。移動という「足の文化」は、通商を発達させ、弱小種族を支配するという構図を拡大していったのだ。彼らの信奉する一神教は、農耕の民の持つ多くの神々を滅ぼした結果という側面を有しているのだ、旧約聖書に見られる(アダムとイヴに発した)「原罪」は、ヒトの「性悪説」を物語り、旧約・新約という言葉通り、神と人さえ契約によって結ばれるという「契約の文化」を信奉している。

 この「性悪説・契約の文化」を逆に見れば、「契約になければそれはないことに等しい」という意味であり、日本の「性善説・縁の文化」の対極点にある。彼らがいま信奉する市場原理は、まさ(狩猟に発した)理論であって、ダーウィンの謂う「食物連鎖=弱肉強食説」を牽強附会したものである。

 彼らの戦争を頂点とする「商」の原点は、他を信用しない疑心暗鬼が生む「性悪説」だと知るべきである。すでに征服し、隷属化してきた農耕の民との争いがすでに終焉したいま、(ご存知のように)バスク地方VSスペイン・アイルランドVSイングランド・イスラエルVSパレスティナ・イラクVSアメリカ…、すべて一神教同士の争いである。

 20世紀末、日本は突然バブルが崩壊、日本金融界はハゲタカファンドに、いいようにしゃぶり尽くされてしまった。彼らの旗印こそ「グローバリズム」である。では「グローバリズム」とはなにか?これは西洋特にアングロ・ユダヤという狩猟→遊牧の民の本分とする、「待ち伏せ・追跡・ワナ・囮(おとり)・落とし穴・威嚇・はったり…」という商の原点である。

 バブル景気を謳歌する日本に、彼らは、「閉鎖的な日本は、グローバル・スタンダード(この言葉は、外圧を利用する日本官僚の造語)に合致しない」といって、守旧的保護主義ヤヨイズムの堅城に、楔を打ち込んできたのである。今成すをべきこと事は、彼らの「買収・合併」など、その戦略を洞察し、十分な対策を講じることであり、その上で新しい「ジョーモ二ズム戦略」を打ち立てることである。

 疲弊した「ヤヨイズム」に、再び「ジョーモニズム」の血を、そして心を注入しなければ、日本全体が早晩「グローバリズム」に飲み込まれてしまうことだろう。だったら「グローバリズム」をやみくも排除すればいいのかといえば、自分たちは海外でそのルールに則りながら、日本においてそれを拒むことは不条理である。

さて「ヤヨイズム」を打破した後、「グローバリズム」の大波に飲み込まれるか、それとも「ジョーモニズム」に回帰するか、今その選択が迫っている。いずれにしろ、今こそ硬直した排他的な意識を捨て去る必要があるのではないか。

 

縄文が日本を救う!

「ジョーモニズム」とはなにか 2008年01月

縄文が日本を救う! (58)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 いままで縄文に関わる思いを、たとえば『乱世の縄文』『縄文が日本を救う!』というように、すべて「縄文」という大きな括りで表現してきた。これはあまりにあいまいな表現であり、逆に考えれば「縄文」にとって重荷であったとも謂える。

 今まですでに私の諸文を読まれた方は、おそらく至極明確に、あるいは漠然としながらも、意とするところを汲み取って下さってきたものと思うが、時事あるいは政局に関する発言などから、矛盾を感じさせたり、また誤解を与えたりした可能性も否定できない。

 加え新しい読者も対象にして、あらたに私の思想の根底にある「縄文観」を指し示すために、「ジョーモニズム」という造語によって定義付けすることで、より深い理解を頂くための一助としたい。では「ジョーモニズム」とは一体何か。ごく簡略に述べてみたい。

1. 日本という風土が生んだ思想・生命観、それに性状

 アジアモンスーン地帯という湿潤な気象に、峻険な山脈が連なって南北に細長く延び、外部から攻めるにも、逆に外部に侵攻するには遠く、なんとか諸文化の吸収は可能という絶妙な立地であって、四季を持つ気候、大きくて幾つもの天災にさらされ、1万4000年の長きに亘って採集と漁猟を生業として平和に過ごしてきたことから、生まれた穏やかながら芯の強い、独特の思想や生命観を保持して、稀有の文化を今に継続さて来た。すなわち日本の風土は、狩猟という生活様式を主体とすることを拒んだことから、世界的に稀有な採集文化を確立した民族だった。

2.森が育んだ「縄文の匠の技」

 豊かな森の恵みは、早くから縄文の民を定住させ、大きな余裕を、余暇生んだ。縄文の民は、余暇に手仕事を発達させていくが、その最大の成果が「土器の文化」である。世界に例を見ない素晴らしい土器こそ、森にはする縄文の「モノづくり=匠の技」だといえるだろう。

 縄文の匠の技は、その後弥生との邂逅で益々洗煉され、大陸の文化と接する度に、「師の国を超える技」にしていった。西洋のモノづくりが戦争によって陶冶されたのに反して、日本においては、縄文以来の平和に根指したモノづくりに特徴がある。

 日本は幾度も存亡の危機に見舞われていた。曰く明治維新・大東亜戦争の敗戦、それにバブルの崩壊…、その都度いかにしてそうした危機を乗り越えて、不死鳥のごとく甦ってきたのか?それはすべてによってであることを心に銘記すべきである。

3.モノに霊性を、生命を見た!

 日本のモノは、決して物質ではない。そこには精神的な要素を包含した命あるモノがある。たとえば同じ「商」にしても、かつて縄文時代より連綿と、「霊を持った物=マナ」という意識がある。「霊を持ったモノ」を贈り、貰った者がそれに匹敵するモノをお返しするという崇高な習慣が、他に類のない「進物文化」となって連綿と続いているのだ。

 こうした特異な歴史の中で生まれた「ジョーモニズム」のバックボーンは、穏やかな多神教であり、敵すらも死すれば神として祀るほど、常に相手をおもんばかる「性善説」なのである。

 <参考文献:『縄文からアイヌへ』町田宗鳳(せりか書房)

4.弥生との邂逅と融合
    ──ハイブリッド日本人を誕生

 世紀前8世紀、チャイナより弥生の民がボートピープルとして渡来した。彼らは主として採集から進化した農耕(水田稲作)と漁撈の民だったので、容易に混血を果たし、遅まきの「農業革命」を経験し、わずかの期間に最果ての青森の地まで稲作を普及させる。

 縄文=創造の資質と、弥生=継続・改良の資質のドッキングによって生まれたのがハイブリッド日本人ということになる。

 我々が弥生から継承したのは、その根底に日本という風土に根付いた「コメ文化」である。それはいつしか社会全般の底辺に拡大され、何時しか「縦割り・横並び・談合・経験優先・農業暦に基づくディジタル発想であり、個より集団であり、出る釘は打ち、他者は排除する」という、陋習を形成していくのである。これをヤヨイズムと呼ぶことにした。

 こうした「コメ文化=ムラ意識」は、平時では大きな力を発揮するが、賞味期限・耐用年数が過ぎると次第に硬直化し、内部から崩壊していくが、(それと気付かぬまま)守旧派が旧来の陋習に固執し、結局外圧によって解体されるという経緯を辿ってきた。
                 (次回につづく)

 

縄文が日本を救う!

なにが人を救えるのか? 2007年12月

縄文が日本を救う! (58)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 最近「一体なにが人類を救えるのか?」という難問が大きく膨れあがって、筆者を苦しめる。この場合の人とは、個人々々ほど狭くなく、さりとて全世界の人類というほど広範囲ではない。世界中には数多くの国々があり、そこに居住する種族は無数である。そうした人たちのすべてを包含することは不可能であり且つ無意味に近い。従って「一つの国」ほどに限定して考えるしかない。

 もっとも「一つの国」といっても、そのすべての人が同じ価値観や思想、感性や感受性を持つわけではないので、少なくとも他国と比較し、いろんな係数や数値を元にして、「個」ではなく「マス」として考えたい。当然対象として「日本」を中心にしている。

 さて今回のタイトルだが、「一体なにが人類を救えるのだろうか?」それは「宗教」だろうか?それとも「哲学」だろうか? いやいや「政治」なのか?あるいは「教育」? そうじゃあなくて「経済」?
 
 まず「宗教」はどうか?
昨今中東を中心に、憎悪と相互不信をむき出しにして、エンドレスの「宗教戦争」が血で血を洗っている現実がある。
 
  「なぜ宗教同士が相争うのか?」
  「お互い永遠に和解できないのか?」
  「宗教は人を救えるのか?」
  「宗教で人は幸福になるのか?」
  「宗教の教えで、一体どのくらいの人が善行を旨とするようになれるのか?」
  「救われた人はまた人を救うのだろうか?」

 偉大な宗教者である、キリストを生んだユダヤから、布教の拡大したヨーロッパから南北のアメリカ、偉大なる預言者マホメットを生んだ中東一帯(トルコ・アラビア・イラン(ペルシャ)からアフガン・パキスタンなど南アジアから東南アジア。釈迦を生んだインド。孔子・孟子・老子を生んだチャイナ、偉大な宗教者を生んだ国々には、すべて平和で愛に満ちているか?

 たとえばマザーテレサは、インドで献身的な救助活動を行ってきた。イエズス会の大木神父は、ネパールで障害児童の救済に一生を捧げている。だったらそこから相互救済の輪が広がって、大きな「善のうねり」となって、貧困者や差別に泣く人たちが少なくなっているのか? 所詮宗教が救えるのは「個」単位でしかないのだろうか。その一方で自爆テロで無辜の大衆を巻き込んでも、彼ら聖戦の徒は少しも胸が痛まないのだろうか。

 では哲学はどうか。日本人にとって「フィロソフィ=哲学」は、難解な孤高の学者の持ち物に過ぎないが、語源は「愛を知る学問」だという。ご存知ギリシャは、プラトン・ソクラテス・アリストテレスを始め多くの哲学者を生んだ。近世ドイツはカント・ヘーゲル・ショーペンハウエル・ニーチェを生んだ。

 ではすばらしい哲学者を生んだ国が、つねに英知を発揮し、幸福を継続させ、生活者の精神的依り代となり得たか? 奴度の上に民主主義を植え付けたギリシャは滅び、ドイツは2度の世界大戦の信管となり、火薬庫となったではないか。

 だったら「政治」は、「教育」はどうか。こういった設問をすること自体、どうもこれらのいずれもが、決して究極的に愛や幸福や平和を生んできていないことが明白となる。

 別の切り口で語ってみよう。もともとこうした命題は、「人(民)を幸せにする」という目的で誕生し、発達したものではなかったのではないかとさえ考えるべきではないだろうか。

 つづまるところ、宗教や優れた宗教家、哲学や哲人、それに政治家は、その国をそしてその国の民を、決して幸せにしてこなかったし、平和にすることが出来なかった。だったら彼らの布教や教えの目的は何だったのだろう。それはおそらく、スタートの時点と、拡大の時期で大きく変質し、目的と結果があらぬ方(かた)に大きく逸れていったのだろう。

 やや違ったカテゴリーで取り上げたのが「経済」である。これも「個」と「マス=全」で考えた場合で違った答えが出てくるのだが、国の経済状態がいいことは物質面で「個」にも波及する。争いに巻き込まれているときよりも、平和であった方がいい。
ただここでは、当然ながら貧富の差が生じるし、物欲の増大がかえって不幸を招くことすらある。

 とは言え、国の経済状態が悪いより良いほうがいいに決まっている。ではどうすれば「経済」がよくなるのか? 過去他国を犠牲にして自国の富を勝ち取ってきたケースが多かったという事実がある。今ではそうした目に見える国の悪行は少なくなったとしても、それは形を変えて現在でも不幸な国や最貧国を生み続けている。

 ここまで「幸せとは何か?」という命題には触れないで来た。人を救うと言うことは、人を幸せにすることに通じるが、この「幸せ」には、計量的な基準はないし、主観によって大いに異なる。ここでもやはり、前述の通り、他国と比較し、いろんな係数や数値を元にして、「個」ではなく「マス」として考えていくしかないだろう。

 さて以上縷々述べてきたことを根底において、日本という国の現状を、少しでも正しく把握し、よいところは何故よいのかを徹底的に究明し、それを伸ばして他国にも波及させ、思い違いがあればそれを是正していく必要がある。幸か不幸か、日本では「言論の自由」がある。しかも国民性というか自らを低く見る一種の「自虐性」を特性としている。

 特に最近のマスコミは、大局を無視して、些細な事象を「針小棒大」に報じ、なにかの大きな意志によってか、白痴的番組を垂れ流している。しかも(純粋な)「愛国心=ペイトリオティズム」を、危険なナショナリズム=民族(国家)主義と置き換えて、歪んだ教育を礼賛している嫌いがある。

 今こそ日本という国の「真の姿」を公平に見つめ直していくことが急務ではないか。
本項で述べてきたことの集大成として、縄文再発見」をし、そのことによって“縄文が日本を救う!”から“縄文が世界を救う!”へと進んでいくことが、いわば日本人の崇高な使命ではないだろうか。

 お断りしておくが、これはかつての「八紘一宇」でも「万国民皆兄弟」でもない、一切押しつけも強要もない、真の平和のための試案なのである。

 ここにまた、一神教と多神教の問題がありる。ほとんどの先進国はキリスト教そして少数派だがユダヤ教という一神教で、現在この二つの宗教と、その間で終わりなき宗教戦争を繰り広げているイスラム教という一神教があります。しかもこの三つの宗教は、源流を一つにした、いわば親類筋なのだ。
。 そればかりか、キリスト教ではカソリックとプロテスタント、イスラムではシーア派とスンニ派のように、同じ宗教の中の宗派の違いで骨肉の争いが止むことなく続いているのは、一体何故なのか。こうした難問が、どうしても私の前から消えようとしない。

 ところで、日本はどうなのだろうか。先進国中唯一の多神教的コスモロジー、というより、むしろそうした宗教観を超越した、無神論的コスモロジーをもった、他国から「脳天気民族」として嘲笑されるような、稀有な国柄ということがわかる。なぜ日本にだけ、こうした唯一無二のコスモロジーが生まれ、継続してきたのだろうか。

 日本には、キリストも釈迦もキリストも、ましてや孔子、プラトン・ソクラテス、それにカントやへーゲルという哲学者もいなかった。日本が生んだ三人の天才と言えば、(私見だが)聖徳太子・空海、それに織田信長である。空海は釈迦の教えを報じる仏教者であり、信長はいわば鬼っ子的異端の存在であり、残るのは聖徳太子だけだと言うことになる。

 だったら聖徳太子は一体私たちに何を伝えたのだろうか。外に対しては当時の超大国「随」の煬帝に、「日出ずる国の天子」という言葉で、対等の国発言を行ったこと、それに神道派と佛教派相争うことに歯止めを掛ける「神仏混淆」という『ハイブリッド宗教』の創造という偉業はあったが、私たちは、太子の施行した「一七条の憲法」の中で、わずかに『和を以て尊しと成す』という超有名な言葉を残したくらいしか記憶していない。

 なんでもこの言葉は、孔子の論語の中からの引用だというのだが。驚くべき事にこの「和」という思想が、私たち日本人全体の不抜のアイデンティティとして、連綿且つ厳然と生き残っていることに気付く必要がありはしないか。

 考えようでは、聖徳太子に言われなくてもこの「和」という性状は、それ以前から私たちが持ち続けていたものではないだろうか。私はそれを「縄文以来日本人の持ち続けてきた特性」だと思っている。

 

縄文が日本を救う!