| 文明法則史学800年周期説と日本(4) | 2007年11月 |
ここでもう少し、村山史学という「東西文明」の、時空を加えたDNA的コスモロジーを、古代に遡って紹介しよう。ご存じのように通常「歴史」とは、事件とか特筆すべき要素の多いところを厚く、そうでないところは省略して記述されてきた。
3回に亘って紹介した、村山節(みさお)先生の『東西文明周期800年説』の総括を兼ねて、今世界を覆っている、(文明交代期に生じるという)大きな混乱の概要を俯瞰してみよう。
表面的には、両文明の中間である、中東周辺における、
1.イラクでの泥沼的混乱
2.イスラエル対パレスチナおよびレバノンでの紛争
3.イランの核開発問題
4.アフガニスタンにおけるタリバンの復活反攻
などに集約されるが、その陰でもっと大きな問題が表面化しつつある。
それを列記すると、
1.アメリカの実力の相対的低下
2.ロシアのエネルギーをバックにした対外戦力と、プーチンの強権政治の危険性
3.「資源爆食怪獣(宮崎正弘氏命名)」チャイナのエネルギー獲得奔走
4.世界的規模の、温暖化/エネルギー危機/環境汚染の進行/砂漠化の進行と水資源枯渇の危機
などなどが挙げられるだろう。
まず「アメリカの実力の相対的低下」だが、共和党ブッシュ政権がイラクでの戦後経営の稚拙さが祟ってレイムダックになり、次回大統領選では民主党の大勝が予想されるが、この中東地区でのエネルギー確保が大きく頓挫した中で、イランの核開発問題に腐心して、北朝鮮問題での変節と弱腰が日本を失望させている一方、国内ではサブプライムローンの破綻で益々ドルの価値が下落の一途を辿っている。そこにはもはやパックス・アメリカーナを誇った栄光の姿はない。
さてそれが、民主党になってそれが劇的に改善する保証はどこにもない。共和党ほどは露骨ではないとしても、この国の復活には、軍需産業の繁栄は欠かせない。かつてのソ連と違ってエネルギー資源を握ったロシアは、いまや公然とアメリカの地位を窺う気配を見せているが、戦争と言えばイランか北朝鮮ということにななるが、なんでもイラク爆撃というシナリオもちらほら聞かれるという情報があるようだ。
イラン空爆話の再燃 (田中宇の国際ニュース解説 (2007年8月28日)
一方ヨーロッパ文明の低迷には、北狄(ほくてき)ロシアの台頭は頭痛の種がある。エネルギー資源の大きな部分を新興ロシアに依存しなければ成り立たない苦悩が根底にある。EU内部でもだが、同非加盟国間においても総論賛成・各論反対という矛盾の露呈、移民との軋轢やテロの脅威、そして労働人件費の格差や人種的偏見、それに失業率の増大が拡大しつつある。
いまやロシアは、冷戦敗北の後遺症を克服して、豊富なエネルギー資源(主として天然ガス)を武器に優位な対外戦略を着々実行中である。共産主義は崩壊したものの、プーチンの強引且つ強硬な姿勢、エネルギー政策の成功はロシア国民に強い支持を獲得している。
一方「共産主義に市場主義を接ぎ木する」という、破天荒な政策を採用して驚異的成長を続けているチャイナは、(公称)毎年10%以上という急速な成長を続けているが、その反動として急速に資源大消費国に転落し、エネルギーを主体とした資源獲得になりふり構わぬ行動を示して、世界中に恐怖と顰蹙の輪を拡げ続けている。(なお、ここではBRICsと呼ばれる新興工業国群のうち、ブラジル・インドの動向は割愛する)
では今のロシアおよびチャイナに弱点はないのか。決してそうではない。いずれも大きな課題を抱えていることは明白である。
まずロシアだが、冷戦の破綻、ソ連邦の解体によって、かつての衛星諸国は次々と離反していった。その中で特にイスラム信仰国と、たとえば揃ってNATO(北大西洋機構軍)に加盟したバルト3国(エストニア・ラトビア・リトアニア)のように、かつてのソ連を踏襲するようなロシアの態度を快く思わぬ国々との間に、大きな摩擦を内在しており、先般も大きな列車爆発事件が頻発し、それに対しての暗殺の横行という、「負の連鎖」が後を絶たないという悩みを抱えている。
おそらくプーチンは大統領の任期が切れた後も、強圧的な院政を敷くはずだが、パイプラインの敷設を中心にしたエネルギー政策は、いつ引火してもおかしくない危険をはらんでいることは想像に難くない。しかも最近、ロシア国内における新興富裕層の拡大と裏腹に、低収入層の増加は過激なナショナリズムとなって、これも大きな火種になろうとしている。
順風満帆に見えたチャイナ経済の方はどうか。ご存知のように、ここ最近世界中で有毒・有害製品が数多く発生して問題化し、中共政府は、その対策に躍起になっているが、「安かろう 悪かろう」という領域を遙かに超えたこの国のアン・モラル性が今後も続くとしたら、その経済的地位も揺るぎかねないだろう。
今や貿易総額でアメリカに次いで第二位にのし上がり、近いうちに第一の貿易国になると豪語はするのだが、なにしろ国民の平均所得が、アメリカの27000ドルに対して1000ドルという極端な格差は、この国の実情を如実に物語っている。
チャイナの急速な経済発展が生んだ豊富な外貨は、内に沿岸部(都市)と内陸部(農村)の極端な所得格差を生みながら、それを貧困層の救済や、後述環境破壊対策に用いることなく、飽くなき「資源爆食怪獣」(宮崎正弘氏の命名?)として、外に向かって浪費を拡大しているのが現状である。
この国の問題点は山ほどあるが、最大の課題は党幹部による汚職と、それに関連した手抜き工事の続発であろう。先日工事中に崩壊した「湖南鳳凰是沱江大橋」には鉄筋が一本もなく、しかも割れ口には砂利ばかりでセメントらしきものが見られないというひどさで、わずか9ヶ月で、実に6つの橋が崩壊したと言うから話にならない。現在世界各地でチャイナが絡んでいる工事が多いのだが、大惨事の発生が大いに懸念されるところである。
また最近話題になっているのは、資源・エネルギーの枯渇よりも、むしろ「水資源の枯渇」である。来年の北京オリンピックで、空気の悪さ・食品の安全性と共に、水の問題で開催を危ぶむ声が大きいほどである。識者の中には、6年後の上海万博はおろか、まず北京オリンピックさえ、無事開催出来るかという声さえも聞こえるのだが、さていかがなものか。
両国に絡む日本にだが、個々に見られるのは、外交下手というよりもむしろ無外交政策ともいえる日本の「資源・エネルギー対策」のまずさであり、また「譲歩・謝罪・沈黙(黙認)」という、外交上のタブーを遵守し続ける姿勢である。「言うべきは言う」という、毅然とした外交姿勢の復活と、「日本ではこんな事が出来る」という自己主張が肝要であり急務である。たとえば、日本の持つ、省エネ・水問題、それに環境改善など、両国が苦手としている課題に特化して両国との関係を深める努力が必要となる。
宮崎正弘氏によれば、両国のエネルギー効率は、日本を100とした場合、<チャイナ870/ロシア1800>という、驚くべき低効率だという。(ちなみにインドは920/アメリカ300/EU170 資料はIEA))
両国の課題、(と併せ、過重な目標を押しつけられた京都議定書のいかがわしさ) がいかに大きいかがわかるというものだ。
◎参考文献
宮崎正弘著 『世界資源新戦争』 (阪急コミュニケーションズ)>
| 文明法則史学800年周期説と日本(3) | 2007年10月 |
ここでもう少し、村山史学という「東西文明」の、時空を加えたDNA的コスモロジーを、古代に遡って紹介しよう。ご存じのように通常「歴史」とは、事件とか特筆すべき要素の多いところを厚く、そうでないところは省略して記述されてきた。
村山先生は、歴史を等しく、同じ時間で輪切りにして検証し、考証を重ねて結果、明確な東西文明交代の周期を発見したのである。
図面を書くと簡明なのだが、それが出来ないため、各自で「バイオリズム」の要領で、水平な線を挟んで上下に相似形のゆるい半円を並べてもらいたい。上部の半円が繁栄の「陽の時代」で、逆に下側が衰退の「陰の時代」となる。
二つの線が交差するところが、文明の交代期で、その時期が「交代の混乱期」に当たる。「陽の時代」を例に取ると、半円の上昇部から幼→青→壮(最盛期)→老(衰退期)から「陰の時代」に移行するのだ。
当然ながら、文明交代期には大きな混乱が発生する。過去の例を見ても、ほとんどの交代期で、民族の大移動が発生しているのがわかる。そうしたところから、村山先生は、ちょうど現在という文明交代期にも、(西の)民族の大移動発生の予言をされている。
これはある意味、気候の変動とどこかで連動している証左かもしれない。これは推察だが、かつて氷河期にはまだまだ温暖であった(日本を始め)ユーラシアの東(東洋)に比して、ヨーロッパではほとんど全土を氷河が覆い尽くしていたという事実がある。
いささか脱線するが、日本でも(短いスパン・周期でだが)温暖に振れた時代は、三内丸山から始まり、奥羽の中尊寺文化が栄え、江戸(東京)が日本の中心となり、北海道釧路の高校が野球で優勝する。
逆に寒冷に振れると、藤原・平家が活躍し、明治維新では薩摩や萩藩・土佐藩が国の中枢を握って、関ヶ原合戦の仕返しをする。
野球の優勝校は容易に箱根山を越せなかった。
こう見てくると、気候の変動と800年周期説には、相関関係があるようだが、。信じるも信じないも、これは一種明確な(結果としての)「実証科学」と言うべきかもしれない。
故村山先生の講演で予言された西洋での大移動が、もし予言通り実現するとなると、西洋は温暖化ではなく寒冷化が予想される事になる。機構との関連が濃厚だとすれば、いま懸念されている温暖化現象は、西洋文明にとってプラスでなければならない。
ということは、前回にも述べたが、南極・北極の氷が溶けることで、万一暖流が寒流化するとしたら、この予言は当たることになるのだが、さて実際はどうなのだろうか。残念ながら自分の目で確認することは無理だろう。
以下、文明周期(800年)交代図の概要を紹介する。
(出典:『文明の研究』村山節著)
<西暦前3600年前から同2800年前>
◎交代の混乱期 外国人の侵入エジプト衰退
◎陽の時代(東) 古代メソポタミア文明
◎陰の時代(西) エジプト中世的時代
<西暦前2800年前から同2000年前>
◎交代の混乱期 外国人の侵入エジプト衰退
◎陽の時代(東) 古代メソポタミア文明
◎陰の時代(西) エジプト中世的時代
<西暦前2000年前から同1200年前>
◎交代の混乱期 アーリア族大移動→インド侵入
◎陽の時代(西) エジプト・エーゲ文明
◎陰の時代(東) アジア未開時代
<西暦前1200年前から同400年前>
◎交代の混乱期 ドーリア(バルカン民)族大移動
◎陽の時代(東) 古代アジア文明
(メソポタミア・チャイナ・インド)
◎陰の時代(西) 欧州暗黒時代
<西暦前400年~西暦400年>
◎ 交代の混乱期 フン族反乱と民族大移動
アレキサンドロス大帝東征
◎陽の時代(西) ギリシャ・ローマ時代
◎陰の時代(東) 中央アジア(クーシャン王朝)
<西暦400年~1200年>
◎交代の混乱期 (東)ゲルマン民族大移動
(西)乱世=五胡十六国(東)
◎ 陽の時代(東)アジア極東文明時代
チャイナ・古代インドネシア・中央アジア文明
◎ 陽の時代(西) 欧州暗黒の中世時代
キリスト教の東西分裂
<西暦1200年~2000年>
◎交代の混乱期 ジンギスカンの跳梁と民族大移動
◎陽の時代(西) ルネッサンスに始まり、
大航海時代を頂点とする西洋文明の時代
◎ 陰の時代陽の時代(東) アジア没落の時代
<以下現在~>
<西暦2000年~2800年>
◎交代の混乱期 中東における一神教同士の宗教戦争
◎陽の時代(東) 多神教的コスモロジーの到来?
◎陰の時代(西) 一神教文明の崩壊
こうした壮大な視点に立って、日本の現状を俯瞰すると、あらゆる面で、日本人は上から下まで、あまりにひどい視野狭窄に陥っていることがよくわかる。
いまこそ日本は、置かれた立場を見つめ直し、コップの中の嵐を、ことさらに政局化して、お互い足の引っ張り合いをしている場合ではない。世界の情勢を真摯に受け止め、自らの地位を、いかに高めることで、世界の希望に添っていくか、今こそ衆知をそして英知を結集するべき時ではあるまいか。
その手段の一つが、硬直化し形骸化した(官僚組織に代表される)弥生発のコメづくり文化・ムラ意識からの離脱であり、崩れ去りつつある西洋一神教文明と、その強面(こわもて)の仮面としての、(いわゆる)グローバリズムから脱却である。
そして今こそ、縄文に発した多神教世界の蘇りと、それに「山と森に発した匠の技」の踏襲であり、研磨であり、その世界的な普及ではないだろうか。
| 文明法則史学800年周期説と日本(2) | 2007年09月 |
前号でDNAの持つ4つの塩基に対比して、幼・青・壮・老を挙げた。ここらをもう少し深く見てみよう。
幼・青・壮・老や四季という4つの数字概念の根源は、「易学」の陰陽説に見ることが出来る。まず「陽陽・陽陰・陰陽・陰陰」という四象であり、四方位(東西南北)=四聖獣(青竜・朱雀・白虎・玄亀)、および四季(青春・朱夏・白秋・玄冬)である。
西洋的一神教世界では、陽と陰とは相否定する関係となるが、東洋的・多神教的精神世界では、むしろ相互補完的存在となる。たとえば東西交代説にしても、東の循環型・交代型思想に対して、テーゼに対するアンチテーゼという、二元論に立脚した直線的指向である。たとえばそれは、スパイラル軌道を取りながら、終局に向かって突き進むという、終末思想が彼らを支配するのだ。
昨今『ダヴィンチ・コード』とか、反キリスト誕生とか、黙示録それに悪魔などを題材にした映画の多さを見れば、彼らの精神構造が那辺を凝視しているか、明確に見て取れるだろう。彼らにとって、たとえばそれが終末に限りなく近づいているとしても、決してキリスト教以外の世界を容認することは出来ないのだ。これはユダヤ教にしろ、イスラム教にしろ同根だと謂わねばならない。
たとえば、このユダヤ・キリスト・イスラムという一神教の世界では、中庸とか妥協という一種曖昧な発想を嫌悪し且つ排除するのだが、ここに、かつては地方宗教であったこれらの一神教が、いつしかグローバルに拡散した結果、おのずと到着せざるを得なかった
矛盾や自己撞着に喘いでいるのが、今の姿だと言えるだろう。
安田喜憲『蛇と十字架』は、西洋史観が近代科学の枠組みから脱却できず行き詰まりを示している状況を指摘して、世界中で顕在化してきた「文明の衝突」や、行き場のない精神の袋小路の突破口として、次のように「アニミズム・ルネッサンス」を提唱する。
私たちは今、あらゆる宗教の出発点であるアニミズムの大切さを思い起こす時なのではないだろうか。われわれを取りまく動物や植物、あるいは山や川にいたるまで魂がある。それらを尊敬し畏敬の念を持ってつきあっていく。そこに自然とともに共存する思想の原点がある。
アニミズムはヨーロッパのキリスト教世界では手垢によごれた誤解に満ちた言葉である。(中略)
自然と人間が共存可能な、そしてあらゆる民族とあらゆる宗教が共存可能な世界の実現に向けて、日本人が縄文時代以来一万年以上にわたって持ち続けてきたアニミズムの精神の果たす役割は、今後ますます見直されるに違いない。
また比較宗教学者町田宗鳳は、広範且つ柔軟な宗教的知識を縦横に駆使して語る、新著『人類は「宗教」に勝てるか』の中で、
このへんで「権力的な集中的統率力」をもつ文明の形態を転換しないことには、人類社会の行き詰まりは目に見えている。そこには近代文明の軸足となっている一神教的コスモロジーから多神教的コスモロジーへの移行がどうしても不可欠となる。
のだと謂う。
さて本題に戻って村山史学による、西の文明から東の文明への交代期が現在(いま)だとして、「ではその東において、新しい時代の文明を担うのはどこか?」という大きな命題に行き当たる。確かに、今まで東方盟主の役割は、すべてチャイナが担ってきた。ではこの度の交代期にも、チャイナがその役割を果たすのかというと、どうもそうすんなりとはいきそうにないのが現状である。
残念ながら今の日本では、こうした視点に立つ指導者はゼロに等しい。といって日本とチャイナ以外に、盟主という役割を担える国は見あたらない。といって「今の共産党独裁というチャイナにその資格有りや」と言えば、頭をかしげざるを得ない現状が見てとれる。
とすると、誰でも納得で来る公平な視点で、否応なく巡ってくるであろう東の時代に、「盟主として、日本あるいはチャイナのいずれがふさわしいか」という採点をするしかないであろう。
そこでまず比較という論点で見てみよう。ここでは長くなるので、電子書籍・論文集HP 『キャッスルゲイト』の、時事小論より<比較という視座・論座の欠けた日本人> (1~3)
http://joumontn.com/jiji_syouron/13.html
を参照願いたい。ここには幾つも両国の有り様を比較・列記している。現状を見る限り、今のチャイナには、盟主国に不可欠な、「おおらかさ・度量・慈愛」の欠如に加えて、「文化・文明・各術・科学」などに対して、すべて独裁的一党政治が優先し、敬意を払うという気持ちのかけらもない事に気付くだろう。
もっとも日本という国柄が、果たして世界の盟主としてふさわしいかとなると、現時点ではすんなり肯定出来ない点も多く、幾つも疑問点が挙げられる。ただ今後転換・交代期における混乱が収まった時点で、前述の比較という視座、消去法という論点で語るならば、消極的ながら日本を置いて有資格者はいないであろう。いずれにしろ自らの置かれた立場を深く認識し、積極的にその任にふさわしい実力を身につけていく必要がある。
金文学は、新著『日中比較優劣論』の中で、「日・中・韓という東アジアの国は内紛(内訌)を超克つして行くべきだと強調する。違う国同士でありながら、内紛(内訌)という指摘の裏に、日本一国でこの重責を担うことの困難さを踏まえ、ちょうど西欧のECのごとく、その協調を説いているかのようである。氏はその困難性を認めながらも、日本の忍耐強い自己主張を説いている。
もし日本がこの村山文明史学を信じ、自らその地位にふさわしい言動を行っていけば、必ずやその実力が大きくクローズアップされるだろうことを心から信じたい。
もし日本がこの村山文明史学を信じ、自らその地位にふさわしい言動を行っていけば、必ずやその実力が大きくクローズアップされるだろうことを心から信じたい。
なお、その成果を体感できる時間を持たないのが心残りであり残念でもある。
| 文明法則史学800年周期説と日本 | 2007年08月 |
これは故村山節(みさお)先生が、歴史の中から膨大なデータを元に練り上げられ、築き上げられ、壮大な実証科学として提唱された、東西文明が周期800年で交代するという学説である。それは「東西2つの文明が800年ごとに繁栄と衰退を交代して、1600年で一巡する二重螺旋構造である」というものである。
二重螺旋と言えば、1953年ワトソン・クリック博士らが、ノーベル賞を受賞したDNAで有名だが、この文明法則史学は、DNAを構成するA・T・G・Cという4塩基の代わりに「幼・青・壮・老」を置き、時空を加えたものと言えば分かり易いだろう。
村山先生は、最初は天才の出現を研究していたが、それには周期があることを突き止め、その結果東西文明交代の周期を発見する。たとえば800年前、ジンギスカンの出現によって、西洋民族の大移動が起きるが、これはなにもたった一人の英雄によって惹き起こされたのではなく、気候の大変動(寒冷化)が引き金になったのだと喝破する。
文明交代は、その交代時期に生じる大混迷から幼年期・青年期という向上期を経て、壮年期で頂点を迎え、やがて老年期の衰退期に移行する。季節に当て嵌めれば、5月の青年期には万物が芽生え、冬眠から目覚めて活動を始める。そして老期の11月には、諸木一斉に落葉し、渡り鳥は旅立ち、海棲哺乳類は大移動を開始するのだと謂う。
この説の凄さは、西暦前文明発祥の太古にまで遡るのことだが、その東西交代期がちょうどこの21世紀に当たるのだというのだ。また東西の分岐点は中東だというが、いまこの地で繰り返されている不毛の抗争を見るにつけ、混乱期という指摘と同時に、ユダヤ・キリスト・イスラムという同じ根っこの一神教の行き詰まりを痛感するばかりではないか。
先般村山先生の講演を、初めてDDVで聴く機会を得た。話の中で村山先生は、今後もしばらく混乱は続き、そのピークは2015年から2030年頃であって、その時ヨーロッパで民族大移動=北方民族の南下大移動があると予言する。
チンギス・ハーンの軍隊の行くところ殺戮と略奪と破壊だけが残された。その寒冷化のヨーロッパに追い打ちを掛けたのは、モンゴル兵の置きみやげの黒ペストであった。この恐怖の伝染病は、ようやく生き残ったヨーロッパの民を、ふたたび容赦なく死に追いやったのである。
800年前、ヨーロッパだけでなく中東でもモンゴル兵は暴虐の限りを尽くした。 チンギス・ハーンの使節団を殺害し、財宝を奪い取ったホルムズ王朝の殲滅を誓ったモンゴル軍によって、悲惨な虐殺の嵐に見舞われ、チグリス・ユーフラテス河は、数日にわたって真っ赤な血に染められたという。パニックを起こした中東イスラムの民は、カイバル峠を越えてインドに侵入した。彼らは殺生を嫌う仏教徒を虐殺し、この地に定着していくことになる。
その後、この地にイスラムの王朝ムガール帝国(1526~1857年)を建てた。ムガールとはモンゴルの意、中東に侵入したモンゴルの系譜を引く国柄であった。
ちなみに、あの世界一美しいタージ・マハルは、ムガール帝国 の第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルの死を悼んで建てた霊廟(1653年竣工)である。その後時代は西洋文明に移り、結局ムガール帝国はイギリスによって滅ぼされてしまう。
(筆者のホームページ、キャッスルゲイト第8章「森と共に消えたインド文明」
http://joumontn.com/mori&hito/082.html
から「西洋にとってのインド」の項、参照。
村山先生が予言した、大移動説を裏付ける根拠として、温暖化による北極・南極の氷の溶解によって、冷たい海水の海洋循環が挙げられる。暖流が寒流に変わるとき、寒冷期あるいは氷河期の到来が予想されるではないか。そうなると俄然同説の信憑性が高まる。
さて21世紀以降、アジアの時代が到来するとして、その中心を占めるのが日本なのか、それともチャイナなのかという論議は次回に譲るとして、村山先生は、今後も依然として「知の国日本」と「武の国アメリカ」の協調が大切だと説く。
現在日本で行われている憲法改正問題と絡めて、集団的自衛権の問題から見て、村山説に大きなヒントが隠されている気がする。次回その問題とチャイナとの関係について考えてみたい。
| ハイブリッド宗教事始め | 2007年07月 |
神道と仏教の融合
『ハイブリッド文化の精華』で前回記載した"「漢字とカナ」の融合(50~52)"とは、後先になったが、縄文時代は、(言うまでもなく)宗教と言うよりもまだアニミズムの世界であった。彼らは、すでに「ハレ(晴=非日常・祭り)」と「ケ(褻)」という生活を区分をする文化を持っていた。
マツリというハレの日には、男女とも精一杯のおめかしをしてご馳走を並べ、その喜びを祖霊に、森羅万象を形成する自然神に、森の中のありとあらゆる精霊に、種族を守護してくれる守護神に、心からの喜びの祈りや収穫の品を捧げて踊り、ニワトコやヤマブドウなど木の実の酒を飲んでトランス状態となり、神々や精霊と一体になって、笑い泣きまた陶酔の境地の中で歌い舞い明かしただろう。
一方恐ろしい地震は「地母神」の怒りであり、火事は「火の神」、噴火は「山の神」、台風は「雨の神」と「風の神」、旱は「天の神」の洪水は「川の神」の、そして津波は「海の神」の怒りであった。
縄文の民は過酷な自然現象に自らの罪意識を重ね合わせ、恐れおののいて許しを乞いうた。
それらは、あらゆる自然を神と一体に見る「*マナイズム」であり、万物の精霊を神とし、自分たちを護ってくれる先祖の霊を信仰する「アニミズム」であり、祖霊・万物の精霊が憑依し、現世の対話やお告げを行う「シャーマニズム」であり、種族を象徴する守護神、特定する主神を祭る「トーテミズム」であった。
また「言霊」によって悪霊を避け幸せを願う、あるいは敵対するものに災いをもたらす「呪術」でもあった。たとえば、現在まで日本の風土や社会環に脈々生き続けている「言霊(ことだま)思想」だが、呪術的なものとしては、その後「真言」からお経という意味不明な形態で、また日常生活に於いても、口してもよい「縁起のよい言葉」、はばかられる「・悪い言葉」として脈々として今に生き続けている。
こうした多彩な自然神が渾然一体となった多神教の森の世界に、水田稲作を持ち込んだ弥生の民によって、自然神は次第に人格神姿に変わっていくことになった。
もともと蛇を主神としていた縄文の民と、同じく蛇を主体にいろんな動物守護神を集合して「竜」をトーテムとした前期弥生人との融合は容易であった。
彼らは各地で竜信仰の「国津神」を形成していったのだが、その後より国家統一意識に満ちた、太陽神を信仰する後期弥生人「天孫族=天津神」の到来によって、自然神は急速に衰え、あたらな人格神として再生することになった。「古代神道」の誕生である。
時代は下がり、チャイナあるいはコリアの地より仏教が伝来する。
当然守旧神道派(物部氏)と新興仏教派(蘇我氏)の抗争が激くなり、新興仏教派蘇我氏の勝利に終わるのだが、それを契機に起こるであろう大きな抗争と分裂を憂れえた聖徳太子は、神道と仏教に儒教まで包含した「神仏儒集合」を見事に成功させるのだ。
堺屋太一『日本とはなにか』によると、太子は、「神を幹とし仏教を枝として伸ばし、儒教の礼節を茂らせて現実的反映を達成するという詭弁的論理を編み出し、一を加えて他を否定することはない」と述べ、「神々は敬わなければならない。敬ってなお祟るのが日本である。その祟りを沈めるのが仏である」という至極便宜主義的発言によって民を納得させたと指摘する。
「和を以て尊しとなす」という思想の根源が、そして我々日本人の精神構造と社会倫理意識の発生は、ここに遡ることが出来る。その後紆余曲折を経て、一見便宜的にも見えながら、今ほど他を許し昨日の敵を今日は友と見る寛容さが求められる時は無いことを考えれば、日本という国の一見矛盾に富んだ有り様が、いかに貴重なものか再認識する時が来るであろう。
ユダヤ・キリスト・イスラムという一神教が破綻し、エンドレスの血を血で洗う復讐劇、さらに救いのない終末思想が、やり場のない虚無感となってわれわれに迫って来ることに比べ、この一見頼りない宗教観のなんと安らかな思いをもたらすことか。
安田喜憲『蛇と十字架』は、西洋史観がそして近代科学の枠組みから脱却できず行き詰まりを示している状況を指摘して、世界中で顕在化してきた「文明の衝突」や、行き場のない精神の袋小路の突破口として、「アニミズム・ルネッサンス」を提唱する。
ただ神道には、一つ決定的な問題点があった。それは「穢(けが)れ意識」という発想である。精神的にも物質的にも汚いもの、汚れたものを徹底して嫌い、そうしたものに遭遇した時には、必ず禊ぎ、祓(はら)い、清めることが不可欠というものである。
なにしろいまの子どもたちの「いじめ」の深層にも、根強い穢れ意識を見て取れるし、原子力や基地問題から、病気や倒産まで、ある意味穢れに対する差別的な視点の存在が厳存する。またその裏返しとしての清潔意識、行き過ぎた潔癖観念、抗菌グッズの人気などに連綿生き残っている。
そうした穢れのもっとも顕著な例は「死」であり、古事記を繙(ひもと)けばよくわかる。イザナギが最愛の妻イザナミの死を嘆き悲しみ、黄泉(よみ)の国まで追うのだが、そこで醜く変わり果てたイザナミの姿に恐れおののき、逃げ帰るという逸話に見られるように、「死穢(しえ)」を徹底的に忌み恐れてきた。
飛鳥・白鳳・天平と続く奈良の時代の、度重なる遷都もそうした恐れが為さしめた行為に他ならない。結局そうした不得意なところを仏教に全て委譲することで万事解決としてしまうのだ。神道にとっておそらく、土葬でなく火葬という行為が、この上ない禊ぎであり、祓い清めであった。
こうした神道が、果たして宗教かどうかという基本に立ち戻って考察する必要があるだろう。たとえば神道には教典や教義はおろか、本当の意味でのご神体もない。神社に参拝する場合、そこに祀られた神様がどういう神様なのかわからないケースがほとんどである。
しかも現世でご利益をもたらすと思われる神様を、元の神社から分祀して貰って来たりするから、益々分からなくなる。いうなれば「原理・原則」などもともと存在しない、空気のようなものが、神道における神のなのである。
そうした神道の性格が、仏教をはじめ儒教だけでなく、道教やヒンドゥー教まで取り込んだ、「日本教」を創り上げることになる。
まさにご都合主義的な日本教は、敬虔な信者を持つほとんどの国にとって、疑念と不信感を抱かすのだが、案外こうした融通無碍、相手の宗教を認め、敵すらも認め包含する思想が、相互不信に充ち満ちた一神教の行き詰まりを、暖かく溶解させる、新しい宗教観として認知される可能性を期待したい。
注:*マナイズム
上田篤『神なき国ニッポン』は、マナイズムを「万物の中で超人間的、あるいは超自然的な力を持つものを畏れる「超人間教」「超自然教」、アニミズムは「精霊教」といってよく、万物にはどんなものにでも肉体の他に精霊がある」とみるものである」と定義している。
| ハイブリッド文化の精華「漢字とカナ」の融合-3 | 2007年06月 |
聴覚と視覚から見た日本語
角田忠信『日本人の脳』は、聴覚を通じて右脳と左脳というそれぞれ違った脳の働きを探ることで、世界中の人たちとは全く異なった日本人の独特な性情について、興味ある考察を行っている。氏は本来耳鼻科の学究だが、その研究過程で日本人は音の処理を、西欧人を始め、他の民族とは全く異なる音声処理を行っていることに気付く。
たとえば、虫の声・せせらぎ・潮騒(しおざい)・雨音などを、ほとんどの民族が右脳で雑音として処理するものを、日本人は左脳でそれぞれの音や声として処理しているというのだ。しかもこの能力は、6歳くらいまで日本で過ごした人は、外人であっても取得する反面、日本人でも6歳くらいまで外国で過ごした者には、雑音としか聞き取れないのだという。
角田は、そうした違いを生むのは、日本人の話す言葉に大きく影響されることを突き止める。日本語は全ての子音の後に必ず母音を伴う言語である。たとえば印欧語族など、子音と母音が明確に分離した言語の場合、子音は左脳、母音は右脳で処理されるところ、日本語では全て左脳で処理されるという。この差が虫の声やせせらぎ・雨音などを聞き分けの差になっていると角田は謂う。
日本語に多い「擬態語・擬音語」は、自然の音や、音を持たない動作などを独特の音として表現するものだが、たとえば日本人は、西洋音楽は右脳で捉えるものの、それぞれ擬音として表現している琴・三味線・笛の音など邦楽は、すべて左脳で捉えていると指摘している。こうした日本に近い言葉と感性は、わずかにポリネシアの人たちくらいに見られるというのだが、角田はそれを「日本語がもっとも自然に近い発音を持つ言語だからだ」と定義する。
約3000年前日本の地に、大陸より弥生の民が金属器と水田稲作を携えて渡来した。縄文の民は、彼ら弥生人に支配されたと言われてきたが、ならば我々は外来の言葉を話さなければ為らないはずだ。このことは、ポルトガル・スペインに征服された中南米の民が、ポルトガル・スペインの言葉を話すことを見れば明白である。
ところが我々の先祖は、古来よりの言語を継続して使い続けてきた。この事実は、逆に弥生の民がいつしか縄文の民に吸収され同化していったことを示している。そして時代に即応して変化を続けながらも、今に至っても他国とは全く異質な、自然に同化した言語を使い続けていることがはっきりしてきた。
ご存じのように、右脳は感性を左脳は理性を支配すると言われている。そして人は、言葉の中で、必要に応じて右脳と左脳を使い分けているのだという。角田が謂う日本人とそれ以外の民族との差異はかくも大きい。たとえば「日本人は外国語習得を最も不得意とする民族である」と言われている理由も、その原因はここにあったと見ることが出来よう。
さて、角田の脳へのアプローチは「聴覚」であるが、一方ハイブリッド日本文字へのアプローチは当然「視覚」からということになる。日本文字の内漢字はイメージとして右脳で処理され、かな(カナ)やローマ字や外国語の場合は左脳で処理される。
もし日本の文字がすべて仮名=かな・カナ、あるいはローマ字になった場合は、一度すべて左脳に送られた後必要な部分は再び右脳に送られてイメージとして認識されることになる。同音異語の多い日本語の場合、何度か脳内で反芻された後ようやく正しい認識となって意味が読み取れることになる。
この「漢字と仮名」と「仮名かローマ字」という2つのケースの認識スピードを比較だが、かつて東京電気大学とNTTのグループが比較実験によって得た実証によると、この両者の間には大きな差が生じたという結論を出している。その理由として、「漢字は後頭部の視覚野で反応し、かなお(カナ)は話し言葉を聞いて理解する左脳の後言語野で認識される。漢字の場合は音声化段階を省略する分、認識が早く、仮名よりも3倍も早く認識できる」と謂う。
印欧語族圏の人たちに比べて日本人の読書率が高いことは、こうした理由があるからかもしれない。加えて日本語優位性を挙げるならば、
1. 知能開発機能
(漢字を覚えることで知能が向上する)
2. 識字率向上機能
(仮名から始めて、すこしずつ漢字を覚えることが可能)
3. 少ない発音機能
(同音異語が多すぎる欠点はあれ、覚えやすい長所がある)
4. 造語機能
(明治維新時、無数の二字熟語を創ったように、簡単に新しい言葉を創ることが可能である。
仮名書き論者・ローマ字論者の泣き所
かつて、日本でも仮名論者・ローマ字論者が大手を振って横行していた時期があった。果たして彼らは、彼らの主張する仮名書きや、ローマ字書きの手紙の交換などしていたのだろうか。果たして仮名書き・ローマ字書き文章の判読が、現行の(表意+表音という)ハイブリッド文字の3倍程度で収まるだろうか。
前述柳瀬尚紀『日本語は天才である』は、揶揄を込めて次のような文を載せている。
<ローマ字>
──korekore,takagagagagagakuwomaunomohohoemasiisi-njanaino
──kore kore,takaga gaga gagakuwomaunomo hohoemasii si-n ja nai no
<カタカナ>
──コレコレ、タカガガガガガクヲマウノモホホエマシイシーンジャナイノ
<平仮名>
──これこれ、たかがががががくをまうのもほほえましいしーんじゃないの
<漢字+仮名文字>
──これこれ、たかが蛾が雅楽を舞うのも微笑ましいシーンじゃないの
勿論これは極端な例だとしても、漢字をイメージとして捉える日本の文字形態が、いかに判読しやすいかを示している。しかもまず、仮名50音図を習得することで、最低限の読み書きが可能であること、しかも少しずつ漢字を習得することで、高度な認識を深めることさえ出来るようになるのだ。
たとえば西欧言語圏において、学術用語の多くはラテン語に依存している。これはかつての文明の中心であったローマの言語を共通語にしてきた名残だが、通常の人には取り憑きにくい現象を生んでいる。
ところが日本語では、意味を漢字で表現するところから、さして知識のない者にでも理解できるし、外来語をそのままの発音で表現できるというメリットもバカに出来ない。たとえば、エイズあるいはHTVでも通用するし、「後天的免疫不全症候群」としても、中学生程度の知識で理解できるのだ。
| ハイブリッド文化の精華「漢字とカナ」の融合-2 | 2007年05月 |
日本人の英知は、そうした和風回帰の一環として、漢詩や漢文には順序を示す数字や返り点などを施して、日本流に読み解くという術(すべ)を発明したし、平仮名に併せて片仮名も生み出し、それを連綿現在(いま)に引き継ぐという離れ業さえやってのけるのである。
かくして漢字・かな(カナ)の併用は、世界に冠たる高識字率を生んだ。このことがいかに素晴らしいことかだが、時代は下がりコリアにおいて李氏朝鮮(1392~1910)では文字(漢字)が知識階層に一部の所有物に固定され、大衆は文字が書けず読めずという「事大主義」状態の打破を願って、李世宗(1418~1450)は学者に命じて「ハングル文字」を作成させた。
「ハングル文字」自体合成文字として非常に優れたものであったが、漢字との共通性もなかったこともあり、官僚を中心とした知識層の「小中華意識」も手伝って、その普及ははかばかしくなかった。結局漢字との併用による「ハングル文字」の普及を成功させたのは、日韓併合後の日本総統府の教育によってであった。
それがいまのコリアでは、戦後ナショナリズムの台頭もあって、次第に漢字を廃して「ハングル文字」ばかりになっている。このことから見ても、いずれにも偏らぬハイブリッド文化の創成や継続は、思ったほど簡単なものではない。いまコリアにとって大きな問題は、次第に歴史・古典や古文書の理解が出来ぬ人たちが知識人の間に蔓延しているという事実である。
漢字の本家チャイナではどうか。かな文字を持たないチャイナでは、識字率の向上を目指して、従来の文字=繁体字を廃して、簡体字という簡易漢字に置き換えてきた。そのためここでもコリアと同じく、古典や歴史を読めぬ人たちを増やし続けているのだ。
戦後日本は、GHQの意を体した軽薄な御用学者によって、簡略漢字・当用漢字・常用漢字、それに新仮名遣いという愚挙を押しつけられてきた。(それでもコリア・チャイナに比べればまだましかも知れないが)そうした過去の失態を反面教師として、今後古典の学習、使用文字の増加などに取り組むことが重要課題だと知るべきであろう。
さて、話は戻って太宰府に流された菅原道真は、結局許されぬままこの地で客死する。彼の死後、都では原因不明の疫病が流行して多くの死者を出し、時平までもが病死してしまう。迷信深い当時のことだ。これは道真の祟りであり怨霊のなせる仕業と恐れおののき、学問の宮「天満宮」を造営して彼の霊を鎮めることになった。
どちらかというと道真に学術的にも人格的にもシンパシーを抱いていたと思われる時平が、彼を陥れた極悪人のように言われてきたのは不幸なことだが、時平が道真の政策を踏襲しながら、「古今和歌集」という絡め手からの官僚統治に成功したとしても、官僚たちへの決め手となったのは、道真への懼(おそ)れであったかもしれない。
今の世も、官僚の壁を打ち破るためには、飛び切りの妙手と、彼らを恐れおののかす奇手が必要なのかもしれない。
話を戻そう。文字を持たなかった日本人が漢字と出会って悪戦苦闘した末に、まず生み出したハイブリッド文字のプロタイプが万葉仮名であった。
万葉集に収録された和歌には、漢字と漢字を仮名として使用した、いわゆる「万葉仮名」と呼ばれるもので、万葉集には「音(おん)仮名と訓(くん)仮名」が入り交じったり、チャイナの文を借用したり、当て字を用いたり、当時の人のウイットを偲ばせる創意に富んだ和歌は、今の我々にとってはまるで「判じ文」と同じくらい難解なものであった。
柳瀬尚紀『日本語は天才である』は、たとえば、「孤悲?不有国(こひにあらなくに=恋にあらなくに)」など、「門外漢にとっても面白い」というのだが、とにかく難解であったことは間違いない。 (「に」の簡体語は常用漢字に含まれないので表示不能)
その後仮名として、「四十七文字」プラス「ゐ・ゑ・を」を加えた五十音図が次第に定着していく。こうした仮名は、漢字を元にして表音文字として特化したもので、実際には万葉仮名も正式に仮名という位置づけとして、いまでは書道の世界で平仮名になって、生き残っている。
ひらがな・カタカナの語源
あ(安) い(以) う(宇) え(衣) お(於)
か(加) き(幾) く(久) け(計) こ(己)
さ(左) し(之) す(寸) せ(世) そ(曽)
た(太) ち(知) つ(州) て(天) と(止)
な(奈) に(仁) ぬ(奴) ね(祢) の(乃)
は(波) ひ(比) ふ(不) へ(部) ほ(保)
ま(末) み(美) む(武) め(女) も(毛)
や(也) ゐ(為) ゆ(由) ゑ(恵) よ(与)
ら(良) り(利) る(留) れ(礼) ろ(呂)
わ(和) ん(无)
ゐ(為) ゑ(恵) を(遠)
カタカナの語源
ア(阿) イ(伊) ウ(宇) エ(江) オ(於)
カ(加) キ(幾) ク(久) ケ(介) コ(己)
サ(散) シ(之) ス(須) セ(世) ソ(曽)
タ(多) チ(千) ツ(州) テ(天) ト(止)
ナ(奈) ニ(仁) ヌ(奴) ネ(祢) ノ(乃)
ハ(八) ヒ(比) フ(不) ヘ(部) ホ(保)
マ(末) ミ(三) ム(牟) メ(女) モ(毛)
ヤ(也) ヰ(井) ユ(由) エ(慧) ヨ(与)
ラ(良) リ(良) ル(留) レ(礼) ロ(呂)
ワ(和) ン(无)
ヰ(井) ヱ(衛の簡体語?) ヲ(乎)
(ヱ(衛の簡体語は常用漢字に含まれないので表示不能)
| ハイブリッド文化の精華「漢字とカナ」の融合 | 2007年04月 |
「日本人は縄文×弥生のハイブリッド民族」だと言ってきた。 ではどのような文化が生まれたのだろうか。その最大の精華こそ「漢字と仮名文字をドッキングさせた日本文字」の創造であった。
聖徳太子が随の煬帝(ようだい)に送ったという「日出ずる国の天子~」で始まる書簡によって、チャイナ文化・文明への決別宣言以降、和漢折衷型の平城京文化を経て、菅原道真の決断で遣唐使を廃したあと、平安の京の都から見事に和風回帰する。
万葉集では、チャイナ風の韻律や*平仄(ひょうそく)を捨て去って、五文字と七文字の組み合わせの繰り返しが長々と続く長歌の最後の部分、五・七・五・七という、三一文字だけを抽出した「和歌」という短詩形式を完成させる。その後は鎌倉時代の「わび(侘び)・さび(寂び)」という日本特有の美意識まで創造し、ついには短歌の終わりの七・七の14文字までをも捨て去った、五・七・五の一七文字の発句=俳句にまで凝縮し昇華させてしまうのである。こうした事例は日本の歴史を通じて枚挙にいとまがない。(ちなみに最後の七・七を「挙句(あげく)」という)
もっとも「漢字とカナ」の融合という世紀の大実験が、なにもすんなりと成功したわけではない。そこには相も変わらぬ頑強で厚い「官僚の壁」があり、「省あって国なし」という悪習が、近年生まれたものでないことを教えてくれるし、それを打破するためには、並々ならぬ努力と知恵が必要だったことも教えてくれる。
平安の御代になってチャイナから移植した律令が破綻し、平安王朝の財政は危機に瀕していた。そこで時の右大臣菅原道真(845~903)は、寛平六年(894)遣唐大使に任じられ中断していた遣唐使の派遣を検討するが、唐の衰退が進んでいるという情報からそれを諦め、自らの手でそれを解決する必要に迫られることになった。なお、唐の滅亡は907年のことである。
そこで道真は、地方の土地を地元の豪族に与え、分に応じた租税を徴収する策を採ろうとするが、役得と賄賂(まいない)の減少を嫌う官僚の反対で計画は難航し、その挙げ句讒言による左遷で九州太宰府の地に左遷されることになった。また道真の後を継ぎ、その政策を踏襲した藤原時平(886~909)もまた、同じように官僚の抵抗に遭い、計画は頓挫して一歩も前進しなかったのである。
いつの世も官僚は、自らの世界を墨守して、新しい文化の風を拒むのが常である。破綻した律令を頑なに守り、自らの知識をひけらかす道具として、漢文からの脱却を頑強に拒むのである。この傾向は、今の時代に到っても、官僚そして学会という閉鎖社会でも顕著である。まさに弥生の悪い面の真骨頂といえるだろう。
そこで時平は、和歌によって官僚を手なずけるという妙案を実行することになる。まだ漢詩に押されてマイナーな地位に甘んじていた和歌の読み手の多くは、若手の下級官僚であったが、時平は紀貫之を始めとする四名の歌い手に「古今和歌集」の編纂を命じ、醍醐天皇(885~930)の勅選和歌集として世に出たのが延喜五年(905)であった。
ご存じのように最古の歌集は「万葉集」だが、それは「万葉仮名」と呼ばれ、例えば「仮=仮、名=な」というように、漢字の音を日本読みしたものであった。その後漢字の草書を更に砕いた書体である「かな文字」が出来ていたのだが、それを使って新しい和歌集をというのが時平の作戦であった。
格式を重んじる官僚も、先祖たちの古い歌を持ち出されては無下には反対出来ず、ついに「かな文字による古今和歌集」が完成、さすがに頑強な官僚の壁も、時平のソフト作戦の前に瓦解することになった。
かくして「古今和歌集」は、仮名書きが漢字の下層に甘んじることから脱して、飛鳥・白鳳・天平という唐様優位の文化から、平安という和風文化に回帰しただけに止まらず、これを契機に「かな文字」の普及によって、紫式部や清少納言という世界でも稀有な女流文学作家を誕生させ、次第に漢字との併用・合体させるという世界に冠たるハイブリッド日本文化へと昇華させていった画期的なエポックを担うことになったのである。
注: *平仄 平(ひょう)音と仄(そく)音を、一定の配列で組み合わせる漢詩における韻律作法。
| 食のイノヴェーションとは? | 2007年03月 |
土器の発明は「食のイノヴェーション」を生むことになった。 考古学には、その当時の人が何を食べたか調べる方法として、「糞石=糞化石」を調べる方法が採られている。これを分析すると、当時の人がどんな物を食べていたかががわかるという。
その結果縄文人は、何十種類の食材を摂取していたらしい。当時としては驚異的な数字である。それまでの食事法は「単体食」であった。せいぜい1つの食材を「炙り焼き・蒸し焼き」するという程度が関の山だったのである。
縄文の創生期、鹿児島の上野原遺跡では、薫製したと思われる遺構が見つかっているが、それとてまだ単体食であった。土器の発明は、わずかな動物・魚介類の動物性タンパク源に、ドングリなどのデンプン質、山菜・根菜・キノコなどを加えたバランス食である、(今で言う)「鍋物」として食べた、世界で最初の民族だったのである。
ドングリなどは、土器を使って水晒し・煮沸によるアク抜きなどを
行ったし、堅い食材も、煮ることで柔らかく消化がよくなる。
また海辺の民は、土器を海水の濃縮に使用したはずだ。あえて補足すれば、日本で多く見つかっている貝塚だが、短い期間に非常に多量の貝殻の集積がある。
このことは、貝の身はその場所の民が食べただけでなく、おそらく交易品として利用されたのではないか。すなわち貝は、濃縮した塩に加えられ、美味しい調味料である「出汁の素」として彼らの丸木舟で川を遡行し、奥地の民に届けられたのではあるまいか。
食べるのが精一杯だった当時の人たちは、味覚に鈍感だったといわれるが、おそらく縄文の民は、今で言う「グルマン(美食家)」だったに違いない。
当時はもちろん「物々交換」である。交換した物はドングリ、それを元にした「縄文クッキー」だったり、塩を煮詰める土器だったり、欲しい物は幾らでもあったはずだ。逆に奥地の民は、新鮮な魚介類や海藻など、これまた幾らでも欲しい物があった。
こうして縄文に発した「鍋物文化」は、連綿今に継続し、我々の食卓を豊かなものにしてくれていることは確かである。
ご存じ鍋物は、「北高南低」である。ご当地鍋として有名なものも、いきおい北の方が有利である。いささか脱線して紹介すると、
北海道 北海鍋・石狩鍋(サケ)
青森 じゃっぱ汁(タラ・サケ)・せんべい汁
秋田 きりたんぽ鍋(ハタハタ)・しょっつる鍋
福島・茨城 あんこう鍋
福井 かにすき
山梨 ほうとう鍋
兵庫(丹波) ボタン鍋
広島 牡蠣土手鍋
大阪・山口 てっちり・ふぐちり
福岡 水炊き・もつ鍋
(注:ミスや漏れなどがあればぜひご教示下さい)
それに全国版として、すき焼き・しゃぶしゃぶ、それに特殊な物では鍋物では、お相撲さんのちゃんこ鍋がある。各地には知られた芋煮があるし、寄せ鍋やおでんも一種の「鍋物」だと言えるだろう。
一部を除いて、魚介類が主役と言うことも、その由緒ある?歴史を物語っているではないか。
閑話休題。ユーラシア大陸で交易に従事したのは、移動という「足の文化」に長けた、狩猟→遊牧の民であったが、日本においては、主として漁撈を主にして来た沿海に棲む人たちであったろう。
おそらく彼らは、丸木舟を駆って漁をし、そうした獲物や塩を川を遡って山の民に届けたに違いない。
ではなぜ日本にこうした土器・鍋物が生まれたのか、次号では別の視点で見てみたい。
| 日本文明の有り様-2 | 2007年02月 |
温暖で食料が豊富、しかも恐ろしい捕食者もほとんどいない日本の地は、長い長いサヴァイヴァルの生活を送って来た流浪の民にとって、ようやくたどり着いた楽園であった。
日本の地には、おそらく数万年前に渡来した先住者もいただろうし、その後ヴユルム氷河期の終わりころ、寒冷期ヤンガードリアス末期の18000年前頃、新モンゴロイドに追われ、アラスカ・樺太方面より、それにコリア半島を経て、チャイナから直接、それに琉球列島を島づたいに北上した南方よりの民という5つルートから、この地に定住を果たしていった。
先住の民はナウマン象やオオツノジカなどを追って来ただろうが、その後の温暖化は、水位の上昇を招き、日本海を形成して、夏場の豪雨、冬場の豪雪を招き、平原の減少と森林の発達、湖沼地帯の増加から、そうした草食大型動物の絶滅を見ることになる。
日本列島では縄文時代、人口が東に偏重したと言われているが、水位の上昇で海に飲み込まれた部分や、弥生遺跡の下に隠された部分を推察すれば、また違った答えが出るかもしれない。
「森と水に恵まれた縄文の民は、早くから定住していた」と書いてきた。では定住の条件と証拠はなにか。
彼らは1万年以上も前から、「竪穴住居」に居住していた。当時の部落(バンド)の一族は、通常2~30人、多くても50人未満だったから、例えば直径が5m、の深さが50cm~1mの縦穴を、木片や石器で掘るとなると、1ヶ月から2ヶ月も掛かる計算になる。少なくとも1ヶ月以上も掛かけて掘ったものをすぐに捨てて移動することは考えにくい。
移動しなかったとしたらそれは何故か。当然移動しなくても充分食料が豊富にあったからである。彼らの主食はドングリ・クリ・クルミ・トチなどの堅果であり、副食はキノコ山菜類であり、無数に流れる小川の魚であり、海岸の魚介類であり、たまには山の動物であった。
漁労や山の猟以外、いわゆる「採集」は婦女子でも出来る。そこで余暇を得た縄文の男たちは、土器の製造を始めることになる。土器を造るための条件は、まず粘土であり、豊富な水分であり、焼き固めるための燃料である。しかも重くて壊れやすい土器は移動生活には適しない。そういう条件に合致した日本だからこそ、世界に先駆けて芸術的にも卓越した土器を造ることが出来たのである。
ではなぜ土器を造ったのか。土器の最大の利用法はやはり「煮炊き」である。「煮炊き」のための土器を造った縄文人こそ、世界で最初に「食のイノヴェーション」を成し遂げた民族でもあった。



