マンゴーと丸坊主―アフリカ自転車5000km! 2010年01月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

山崎 美緒 

プロローグ:
 著者は大学の後輩である。女性一人でアフリカ大陸を自転車で走破した珍しい経験の持ち主なので、同窓会広島支部総会に際し、来広頂き冒険談を聴かして貰った。
 頭を丸刈りにし、胸にさらしを巻き、男装で冒険に挑んだとのことだったので、さぞかし筋骨隆々な女子プロレスラーを思わす体躯の持ち主だと思っていた。しかし当日お会いすると理知的な顔に均整の取れたスリムなボディーの可愛い乙女であった。
 しかし足が化膿して自転車が漕げなくなった時、現地の医師に麻酔なしで切開手術をうけたり、摂氏53度の砂漠を乗り切り、マラリアに罹ったりもしながら、5千キロを一人で走破したのだから、 やはりただ者ではないと感じた。
 彼女の話がとても面白く、且つ大変に感動したので、早速彼女の著書を求め、一気に読み下した。

 その読後感を下記に纏めた:
 著者は五年前、22歳の時に、自転車により、単身でアフリカのナイロビ(ケニア)から喜望峰(南アフリカ)までの五千キロを三カ月半かけて走破した。
 その冒険旅行記である。
 うら若い女性がたった一人で、アフリカ大陸を五千キロも自転車旅行する!
 屈強な男性でも大変な勇気と体力が必要な冒険を彼女は成し遂げたのだ!
 まさしく前人未到の壮挙である。
 文章は簡潔で、若者らしい表現に満ちている。
 しかし体験した者だけが語れるリアリティに満ち満ちており、深遠な人生哲学の真髄を突く記述がキラリと光る。
 珍しい体験談として面白く読み流すことも出来るが、読者の感性と哲学によって、行間から豊かな泉が湧き出してくる。
 これからの輝く人生を持つ若者には無限の可能性を示唆し、生きる勇気を与えてくれる。
 輝く過去を持つ熟年者にとっては、己の人生哲学を再検証し、更に深めるよすがとなる名著である。
奥中 正之

感銘の一冊

大計なき国家・日本の末路 日本とドイツ、それぞれの戦後を分けたもの 2009年12月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

奥中 正之

 ドイツ在住40年にもなるのに、日本国籍を保持し、母国への熱い思いを燃やし続ける筆者が、遠く離れたわが祖国に対し、母のごとき深い愛情と憂慮をもって放った「頂門の一針」である。
その心は「末路」の一語に凝縮されている。一見祖国を見限ったかと思われる言葉であるが、この激しい言葉により、心有る日本人が目覚めることを願う強い母の言葉として受け止めた。 
 それは本書をひも解けば自ずと分かる。祖国に対する愛情と憂国の情との二つのテーマが織り成されフーガのように奏でられ昇華されて、筆者の結語へと導かれる。そこには決して忘れることが出来ない祖国への熱い思いが主題として貫かれているのである。
 国民・国家の総力をあげて戦ったあの戦争に完敗した日本とドイツの両国は共に戦勝国から苛酷な報復を受けた。その報復への対応の仕方が、冷戦後、世界覇権が多極化する激動の国際社会において日・独それぞれの地位に大きな差異を生むことになった。その経緯がまことに明確に描き出されている。両国の対応の違いについては具体的な事実が例示されており、分かりやすい記述となっている。
 詳しくはお読み頂くとして、紙面の都合上一例として、国家の基本法たる「憲法」について触れると、著者は終章で取り上げ、「独自の憲法を持つ国・持たぬ国――なぜ日本は、国家の芯を抜かれてしまったのか」と指摘している。
 その回答として、著者はあるドイツ人の言葉を借りて次のように分析している。「人類最初の原爆犠牲となったショックは甚大です。そのトラウマから解放されないまま、今日にいたっている」というのだ。
 そのために日本は戦後、アメリカに次ぐ経済大国として見事に復興を果たしたが、安全保障と教育面ではアメリカに首根っこをつかまれたも同然の状態に置かれたという事実を著者は指摘している。
 これに対比して、東西に分断され日本よりも更に苛酷な報復状況下に追い込まれたドイツは決してアメリカをはじめ戦勝国に屈しようとしなかった。ドイツは戦勝国の狡猾さ、弱点をしっかりと握っていた。
 そして知らぬふりをして、地道に忍耐強く国際社会の信頼を回復してゆき、戦勝国の介入を一切はねのけて独自の憲法を制定したと、彼我の違いを明確にしている。
 一針の痛みを自己覚醒の妙薬とすることを著者は我々のDNAに眠る大和心に期待しているのである。
 中国は核武装の強化に加え、軍艦や航空機の増強に狂奔している。そしてその強大な軍事力を背景に、東シナ海の海底ガス田開発に関して両国の合意を無視する理不尽な対応を行っている。
 北朝鮮は核武装路線をひた走っており、拉致被害者全員の解放をしようともしない。かような東アジアの激動の渦中にある日本では民主党政権が誕生し、さらに社民党と野合する。
 民主党は政権を奪取したならば、無謀とも言える選挙公約の中身を大胆に修正して現実路線を目指すものと、かすかに期待していたが、産業界に言わせると「荒唐無稽」な温室ガス削減目標を、選挙公約に謳った通りに、国連で約束する気配が濃厚である。
 その上国家安全保障に関して現実無視の社民党と連立を組めば、この日本は世界の潮流及び東アジアの激動の中で、迷走しさらには沈没する危険性すらあり得る。
 まさにクライン孝子氏が強く訴える「末路」に日本はあるようだ。その「末路」の危機から抜け出す勇気と知恵を得るヒントがこの図書にはちりばめられている。全日本人必読の書である。

感銘の一冊

動的平衡 2009年11月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

福岡伸一著  木楽舎

 分子生物学者でありながら、前著“ 生物と無生物の間 ”が60万部超という大ヒットしたのは、その内容に加えて、日本の学者には珍しく類い稀な筆力を持っているからで、前著以上に哲学的で難解なタイトルにかかわらず、09年2月の発売からわずか2ヶ月ほどで7万部を超えたと言われる。

 日本が先の大戦に参戦する頃、ユダヤ人科学者ルドルフ・シェーンハイマーはドイツからアメリカへ亡命、ニューヨークのコロンビア大学で、マウスにアイソトープで標識を付けたアミノ酸を与える実験を行なったところ、3日以内に半数以上が体内の筋肉・肝臓・血液などに認められ、しかも体重は増えなかった、という研究結果を得た。
 そこで彼は、我々の身体そして生命は、日々変わりゆく身体組織の流れの中で、辛うじて一定の状態を保っている特異な有り様、すなわち「動的平衡(Dynamic equiibrium)」だと定義づけた。当然本著のタイトルはそこから来ている。
 著者は、「(シェーンハイマーの実験結果は)デカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子レベルの解像度を維持しながらも、コペルニクス的変換をもたらした、20世紀最大の科学的発見だった」としている。
 ただシェーンハイマーにとって不運だったことは、当時同じニューヨークの、ロックフェラー大学にいたオズワルド・エイブリーによって、遺伝物質である「核酸」が発見され、それが複製メカニズムを持つ「二重螺旋」を持つことがわかり、一挙に分子生物学時代の幕が切って落ちされることになったことである。 
 その結果、偉大な業績にもかかわらずシェーンハイマーの名前と業績は、歴史の澱(おり)に沈むことになった。
 ご存じのように、それ以後分子生物学の世界では、シェーンハイマーのいわばアナログ・ワールドは打ち捨てられ、以降遺伝子=DNA・RNAの解析から、ゲノム解明・遺伝子操作という、ディジタル・ワールドという還元論者が跋扈する時代となっていくのだ。
 本著の伏流として全巻に流れる思想は、生命ですら全て物質とみなす最近の分子生物学の趨勢、たとえばクローン・遺伝子操作・生体間臓器移植・ES胚細胞・iPS細胞(人工多機能性幹細胞)などなどへの、行き過ぎに関する警告であり、「生命もすべて物質である」という思想、また細分化が行き着く還元主義的発想の危険性である。
 脳内の記憶を司る器官内で、記憶関連物質として認められるのは「ペプチド」というタンパク質だが、本著では、かつてマウスの記憶中枢に蓄積されている「ペプチド」を抽出して別のマウスに注入して失敗した例を挙げる。
 ここで再登場するのが、上述シェーンハイマーの実験である。すなわち、食品から体内に移行したタンパク質は、ごくわずかの時間で消えてしまい、すべては新しく取り込まれたタンパク質と交代し、わずか3ヶ月ほどで体内の細胞はすべて新品になってしまうと言う事実である。
 このことは「生きる」あるいは「記憶」という働きは、決してタンパク質あるいはアミノ酸という物質だけではない事を示している。すなわち、わずかな期間に過去の物質と入れ替わった際に受け継いだ「生命」「記憶」などは、すぐさま次の物質に受け渡されることになる。
 そうしたわずかな期間の持つ「揺らぎ」の中にこそ、「生命」や「記憶」が存在する、というのが題名の由来なのである。
 当然のことながら、物質で構成され、そのわずかな電気パルスによって行なわれる生体反応は、いくら分子レベルにまで細分化し還元化しても、決して再現できないのは、そうした生命体構成物質が、たえず移り変わり、移動し、微妙に揺らぎ続けているからだということなのだ。
 著者はいろんな研究を元に、(例えば)100gのタンパク質を摂取し、20g排泄したら、80g消化されたかと問う。答えはノーである。これを「ペニー・ガム」と呼ぶそうだが、その心は、「自動販売機に1ペニーのコインを入れてガムが出た」ことと同じたと説く。
 なぜなら生体は、別の形で(膵臓という器官で)、食事で得たとは別に、毎日常に100gに相当するタンパク質を造り続けているのだという。
 その事実の裏返しとして、最近サプリで膝の軟骨にいいとして、コラーゲン含有製剤があるが、本来コラーゲンは吸収されにくいアミノ酸で、消化されなかった残滓はすぐに排泄されてしまい、一方消化されたものは血液によって全身に運ばれ、その時点で身体が必要としている部分で使用されるというのが正解らしい。
とすれば「看板に偽りあり」であって、「個人差があります」などと小さく添え書きしてもいわば詐欺行為ではないか。
 著者はまた、食物(その中に含まれるタンパク質=アミノ酸)によって動物の身体が成り立っているという事実から、タンパク質の摂取にしても、それが毎日の三度の食事に配分されないと、時間的に飢餓状態を招くと指摘する。
 これは昨今母親の怠慢によって、幼児から学生など若い世代、それにダイエット目的の女性など、朝食抜きという傾向が強いことへの大きな警告でもある。
 その一環としてだが、フール・フーズ(全タンパク質をバランス良く含んだ食品)として、鶏卵を挙げていることも、(経歴柄)うれしい限りである。
 また「人間は考える管である」として、もともとの先祖が、腸管主体のミミズとかナメクジウオなど腔腸類だったのだから、「すべて脳で考える」という発想は行き過ぎであって、脳以外の腸を主体とする脳以外の器官の作用を無視する風潮に釘を刺すことも忘れていない。
 その柔軟な発想と共に、日本の科学者には珍しい際だったストーリーテリング能力を認めざるを得ない。目からウロコを沢山落としてくれる好著として、一読をお勧めする。

感銘の一冊

日本の曖昧力 2009年10月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

呉 善花著  PHP研究所

 著者は『スカートの風』シリーズで一躍日本で有名になったが、その反動として母国韓国では、国賊扱いという理不尽な仕打ちを受け、日本国籍を取得したことで肉親の葬式に帰国できたというエピソードを持つ。希代の親日派・知日派である。
 現在拓殖大学の教授をしているが、本書は同大学国際学部で、(留学生保含む)学生に「日本の歴史と文化」という講座を理解して貰いたいという希望で開いた講演集を『歴史街道』(PHP研究所)に大幅加筆して連載したものである。
 聴講者は、初年度か予想の50名を遙かに超え、つには300名にも達し、翌年には500名にたというのだから、いかに学生が、こうした当然知るべき知識に飢えていたかがよくわかる。
 本来は日本人の教師が行なって然るべきだが、なにしろ女史は、それまでの著書を通じて、ネイティヴな日本人以上に日本を理解していることで定評がある。
 かえって身贔屓を排した外からの視点からの洞察が、聴講する学生たち、特に留学生にとって大きなインパクトを与えたことは疑いの余地なく大きく評価すべきだろう。特に韓・中留学生にとっては、女史の貴重な体験からのアドヴァイスほど有益なものはないであろう。
 いずれも反日的な偏向教育を受けて来日し、最初は実際に親切な日本人と接してカルチャーショックを受けるが、しばらくするとどこか他人行儀でよそよそしい感じを受けた時点で、帰国するため、かえって反日感情が強くなるケースが多いという。
 女史はもう少し日本を、そして日本人と付き合ってみて、真の日本人をよく認識することを提唱し、その助となるテーマをを本講座の中心に置いている。
 女史は「日本の歴史と文化」は、『日本文化の起源は縄文時代にあった!?』として、そこに「神と大地と人間でもって構成され、他には絶対に見られぬアニミズム的な世界観の継続を指摘し、そこにこそ「世界が見習うべき日本文化の未来性」があるのだと明言していることがなによりもうれしい。
 また日本神話から、北方系の天より「垂直的降臨」と、海から生まれて海に死に、且つ再生を続けるという、南方由来の「水平的降臨」の存在を指摘、双方民族の複合体が日本人の構成だと指摘していることも大いに参考になった。
 今後私の「縄文×弥生=ハイブリッド日本人説」を補完し、強固にするものとして、ちゃっかり援用させて貰うつもりである。
 各章での詳細は避けるが、最終章『天皇はいかにして日本社会に平等をもたらしたのか』が圧巻である。その中でも「「工」と「商」は天皇の領域だった」という説は私にとっても初めての知識で、説得力を持つ。
 外国の皇帝と違って日本の天皇には、古来政治的な統治でなく、農業神を含めあらゆる神々の祭祀を司さどると言うという精神艇根幹であったことことから、農耕民のみの頭領であった武家からの敬愛され続けてきたことを強調している。
 天皇制をあたこも「悪」のごとく謂う左翼連に、女史の爪の垢でも飲ませたい気持ちである。
 まああとは「読んでのお楽しみ」としたい。

感銘の一冊

農業が日本を救う 2009年09月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

財部 誠一著  PHP研究所

 いささか皮肉っぽい、逆説的なタイトルだが、副題には「こうすれば21世紀最大の成長産業になる」とある。問題はこの「こうすれば…」が、一筋縄でいかないところが日本農業の泣き所だと言えるだろう。
 シンクタンク「東京財団」の上級研究員である山下一仁氏の指摘によれば、「(2007年度)全農家299万戸の総生産額が8兆2000億円で、パナソニック1社の2008年2月期9兆700億円に及ばない上、同社の従業員31万人と比較すれば、日本の農業がいかに非効率かがわかる」
という。しかもこれだけの農家数で農業に取り組みながら、食糧自給率が40%以下という数字を示していること自体、長年に亘ってコメ本位という「モノカルチャー」を継続してきた日本の農政がいかに劣悪なものであったか、しかもそうした農政を支えてきたのが農協であるというのが著者の指摘である。
 戦後GHQの命令で地主が追放され、小作農がすべて自作農に変身した。昔から農村で自作農の田畑相続は長男だけになされ、次男以下は婿養子になるか、小作農となるか、都市に出て奉公人になるかしていた。
 これは少ない田畑を分けることを「田分け=たわけ」と言って避けた知恵だった。それをいくら占領軍に押し付けられたとはいえ、農村改革の美名の元に、なんの疑いもなく「国策的たわけ」を断行したツケが今大きくのし掛かっていることになる。
 それが戦後の復興期を過ぎて高度成長時代に突入した1965年頃から、都市部の工業地帯からの求人に応じて、数多くの農家の若者が、狭小な農地から上がる少ない収入と過酷な労働を嫌って、「中学生という金の卵」と呼ばれた人手ブームに乗って都市部に殺到したのである。
   
   ♪ ああ上野駅 ♪
 ♪ どこか故郷の 香りを乗せて
   入る列車の 懐かしさ~
 すでにその頃から日本農業の衰退は始まっていたことになる。そして現在では「専業農家」と呼ばれる農家戸数が、実に1割を割っているという憂うべき現況にあるのだ。
 現在自民も民主も、農業施策として補助金制度を全面に打ち出しているが、農地法で禁じられている耕作放棄地も放置地主もそのまま放置されており、彼らすら農家としてたとえば「減反農家」として補助金対象となっている。
 またかつての農地を転用して進出した企業に勤務する兼業農家も、当然補助金を受けられるし、自分の農地をそうした企業に売った農家は、当然多額の売却費を得て、豪邸を建てて優雅な生活を送っている。
 逆に専業農家が、土地の貸し出しや売却を求めてもそれに応じず、大型小売業や工場、あるいは産廃施設として売れることを待っているのが今の農村の姿だと指摘する。
 著者によれば、こうした不合理・不条理を改善するためには、「ザル法」になっている現行法を忠実に守るだけでまずは充分だという。それが出来ぬようではまさんいこの国の未来は暗い。
 その反面、新たに農業に参入したいという個人や企業には厚い拒否の壁が立ちふさがる。またなんとか参入を果たしたとしても、それまでの企業経営と農業とのギャップで、挫折したケースも数多いと指摘する。逆に成功した事例を挙げてはいるが……。
 
 また著者によれば、本著の執筆に当たって各地の農村を取材し、農協にもインタヴューを試みたが、各地であからさまな妨害と、取材拒否の連続であったという。
 たとえば、ミカン(蜜柑)の某産地では、規格外の小玉はすべて廃棄処分とされ、「小玉排除の幕まであるらしいのだが、取材前には撤去されたり、事前に変な取材には応じないように伝えられたケースまであったという。
 実際には小玉の方が美味しいらしいのだが、農協を通じて出荷する場合、出荷を断られると手の打ちようがないという。ここにも、既存の流通システムに依存し切っている、農協の硬直姿勢が見て取れる。
 最後にタイトルの「日本を救う農業」としては、
1.農地管理のデータベース化
2.民間型農協の出現
3.新規参入の壁排除
4.素晴らしい農作物の海外輸出
などなどを提案しているのだが、ただその前提として絶対に不可欠なのは、昨今日本中に充満している「物貰い根性」からの脱却ではなかろうか。
 ここでは「書評」に名を借りて、日頃からの思いを吐露した部分も多いことをお伝えしておく。

感銘の一冊

霞が関をぶっ壊せ! 2009年08月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

高橋洋一著  東洋経済新報社  1680円

 著者(現東洋大学教授)は、1980年に当時の大蔵省に入省したキャリア官僚だが、主流であった東大法科卒ではなく、東大理数学部数学科および経済学科卒業という、本人談「2年に一度の」変人枠で入省した異色派である。
 3年後運命的に日本開発銀行から出向してきた竹中平蔵氏を上司に迎えるという運命の出会いによって、たちまち意気投合することで、その行く手は大きく変わることになった。
 しかもアメリカのプリンストン大学に留学し、日本の金融制作の異常さを知り、また金融工学を学習することで、その後の小泉内閣で竹中チームの一員として、いつしか出身母体(前大蔵省である)財務省の改革を手がけることになる。
 考えれば、数学を貴重とした経済・財務・金融の専門部署が、法律系ということが、いかに異常なことか素人でもわかるというものだが、なにしろ金融ビッグバンをいわれた時期、「デリヴァティヴ」を知る官僚はほとんど居なかったということをみても、この国の仕組みのおかしさがわかるだろう。
 さて1989年、経済バブル真っ最中にあって、著者はこのまま放置すれば、日本経済は際限なく広がる、ネズミ講に近い状況になるのを恐れ、ふくらみ続ける風船に一針を刺すという英断をすることになった。
 結局その後遺症で、未曾有の不況と閉塞感に日本中が苛まれることになるのだが、その後も金融緩和と公共投資以外に策を持たぬ(急死した)小渕さん、そして森さんの跡を継いだ小泉総理のもので、日本再建の重責に当たった竹中チームにあって、不良債権に悩む金融業界に「不良債権の償却」を徹底させ、公的資金を投入するという荒技によって、見事「失われた10年」に終止符を打つことになった。
 当時何らの経済施策も持ち合わさなかったエコノミスト・経済評論家連が、今頃になって「竹中ドクトリン」を、市場原理主義者のごとく批判しているが、実際には本来政治の介入を許さぬという市場原理に反して、強引な介入や公的資金投入という、まさに原理主義の反対を強行した竹中流金融施策は、むしろその対極にあるといえるのではないか。
 さていま課題視されている官僚制度の現状とは、
1.「省あって国なし 局あって省なし」という超縦割り制度
2.天下り先獲得のためには手段を選ばぬ硬直性
3.キャリア制度と併せ、年功序列という前時代的仕組み
 である。特に「天下り」は省ごとに行うため、省益と無駄な組織や設備を乱造するという弊害をもたらしてきた。しかも官僚は、未だにその権益を手放そうせず、頑強かつ巧妙に抵抗をしているのだ。
 お目付であるべきマスコミだが、各省ごとに閉鎖的な情報獲得ポストを持ち、もしその省庁に不利な報道をしようものなら、即座に排除される仕組みのため、当たらず障らずの記事しか書けないという。
 ちなみに、そうしたシステムによって量産された特殊法人などの含み資産を「埋蔵金」として明らかにした著者の業績だという。
 著者が主張する「官僚システム」の解体は、安倍内閣にまで引き継がれ、前渡辺喜美特命公務員制度改革担当大臣の時に、「第1次公務員制度改革」から福田内閣でも「第2次公務員制度改革」へと進展することになった。
 なお福田内閣当時渡辺大臣を事あるごとに牽制した町村官房長官は旧通産省官僚上がりで、なにかと官僚に肩を持つ、著者流にいう「過去官僚」である。著者が目指すのは内閣官僚の権限を拡充して、各省ごとの縦割りという官僚の野放図な天下りを瓦解し、ニッポン官僚性を樹立することである。
 本書はすべて実名で記述されているが、今1000万人移民受け入れ説を打ち出して大方の顰蹙を買っている中川秀直氏や、安倍内閣当時、顔が見えない声が聞こえないと酷評された塩崎恭久官房長官は、官僚制改革を強力にバックアップした人たちだというから、人は一面だけでは推し量れないものだと痛感した次第である。
 かくのごとく聖域じみた官僚システムだが、最近キャリア官僚の中途辞職が激増しているという。理由として、旧態依然な年功序列システムが、若者のやる気をなくしているのが理由だが、そうしたことも官僚制度改革の起爆剤になることだろう。
 結局出身省庁に戻ることを否定して転身した著者だが、先般同じ思いの旧官僚を糾合して、「脱藩官僚の会」を立ち上げた。今後の活動に期待したいし、協力をしたい思いである。 

感銘の一冊

幸運な文明―日本は生き残る 2009年07月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

竹村公太郎著  PHP研究所  1,575円

 著者は長年旧建設省河川局に勤務、その経験を活かして現在、財団法人リバーフロント整備センター理事長、日本水フォーラム代表理事・事務局長などの要職にあるが、文筆面でも活躍、日本の文明を、河川を中心とした日本の風土や気候から読み解いたユニークな『日本文明の謎を解く(2004)』はベストセラーになった。
 ⇒http://joumon-juku.com/books/2004_7.html
 本著は化石燃料の枯渇や温暖化現象の進行から、今後のキーワードこそ「文明の縮小時代に入った」という視点であり、タイトルのように「日本文明は生き残れる幸運な文明」なのだという。
 もっとも、著者が依拠する「ピークオイル説」のデータは、供給側の陰謀だとする説も多く、賛否両論が複雑に絡み合っているのだが、原油に限らず地球上の資源枯渇化の趨勢を加味すれば、昨今話題を呼んでいる「ロハス=LOHAS=Lifestyles Of Health And Sustainability (健康と持続可能性の(若しくはこれを重視する)ライフスタイル) 」という生き様が妥当であることは言を俟たない。
 では日本のなにが「幸運」なのか。
 まず日本という国土は、温暖化による海面上昇に当たって、70%を占める山地も好都合だし、水飢饉に当たっても、有利なモンスーン地帯に位置している。
 特に日本を救うのが豊富な魚介類だという。考えてみれば、今後の水不足と食糧不足が進行した場合、今まで人類に隷属してきた家畜は、穀物を巡って強力なライバルになるという皮肉な側面を無視するわけにはいかなくなる。
 一方魚介類は、植物プランクトン発生のサポート案とか、深海からの湧昇流を人工的に起こして海底のプランクトンの死骸を利用するなど、適切な対策を講ずれば、エネルギー資源の浪費には繋がらない。
 今の日本の「食糧自給率」だが、まずその基準がカロリーベースだという点もおかしいし、農水省の「国産だけに頼るとイモばかり食べるようになる」という例えも眉唾ものであって、まず魚介類を忘れては困る。なにしろ著者は、今の日本の少子化現象も、縮小時代には「幸運」と捉えている。
 本著では、その他いろんなことを学べるのだが、ここではその内で著者が「様子見作戦」と名付ける、オリジナリティに富んだ国土防衛作戦を三つだけ挙げてみたい。
 まず一つ目、太陽光発電や風車発電はしかも費用対効果が低い上日本の気象に合わないことから、傾斜の多い日本に無数に投げる川を利用して、小型の水車型発電機を設置する案を提示する。
 同発電機を幾つも繋いで使用するというのだが、余剰電力で水素生産することで、無公害エネルギーを獲得できるというものだ。また同案は、似たような発展途上国にも適用できるメリットがある。
 二つ目は、地球上で不足が予測される肥料分は──窒素肥料・カリ肥料と違って──合成出来ないし、有限で枯渇が懸念されている「リン酸」である。実はリン鉱石とは古代のトリの糞化石で、今や世界中のリン鉱山は、掘り尽くして枯渇寸前だという。
 著者が提言するのは、生きたリン鉱石として、渡り鳥の糞を活用すべきだということである。その方法というのが「冬みずたんぼ」という、冬でも田んぼに水を張ったままにしておくことである。
 「冬みずたんぼ」には、カエルからドジョウ、それにいろんな昆虫の幼虫などが棲息するので、渡来した渡り鳥がそこでエサを探すお礼に、生のリン鉱石をお返ししてくれるという寸法である。
 著者によると、浮世絵などから、江戸時代には「冬みずたんぼ」を行なっていたということがわかるというのだ。(近くこのことは別の命題として取上げることにしたい)
 さて最後だが、今までも日本文明の存続を支え、今後も支えていく「日本人のアイデンティ」として、「日本語」の存在を強調している。
 なにしろ北海道から鹿児島まで2000kmという長い国土で、たった一つの言語が通用するということは、他の国々と比較して、奇跡的であり、まさに稀有だといえる。
 詳述は避けるが、こうした唯一の言葉に集約することが可能になったのは、船による交通・交流であり、決め手は江戸時代の「参勤交代」という江戸を中心とした文明交流システムであり、現代にいたってラジオ・テレビの普及であった。
 しかも仮名漢字交じりのハイブリッド日本語は、新文明との出会いに当たって、カタカナ・ローマ字で対応出来るが、本家のチャイナでは、専門部署の設置で、新しい文字の創作に明け暮れているのだという。しかもこの国では、略字体への変換作業まで加わるのだから、その労苦は計り知れない。
 また目からウロコが落ちたのは、地理的実例を挙げて説く、「忠臣蔵の赤穂浪士の討ち入りの成功は、徳川幕府の積極的な援助姿勢であり、こうした犯罪を義挙として喧伝することによって、政権を強固にするための伏線だった」という新説である。
 さすがに長年土地行政に携わってきた、端倪すべからざる生きた目線に感じいった次第である。
 新しい視座確認のためにも、一読をお勧めしたい。

感銘の一冊

21世紀の国富論 2009年06月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

原 丈人著  平凡社  1,470円(税込)

 著者は日本人には珍しく、ベンチャー・キャピタリストとして、多くのシリコン・ヴァレーでベンチャー企業を育成してきたことで有名だが、もともと考古学者になりたかったのでトロイを発掘したハインリッヒ・シュリーマン( 1822~1890)のように、お金持ちになるための手段として実業家の道を選んだという変わり種である。
 そのためまず本人自体がベンチャー企業創設し、それを売却して資金を調達、次第に実績を重ねていくのだが、たとえば1980年代、脱工業化の波に乗ってアップル・マイクロソフト・インテル社などがベンチャー・キャピタルの支援を受けて急成長していったことは記憶に新しい。
 しかしながら、時代を経てベンチャー・キャピタルの性格も次第に大きく変貌していき、著者に言わせると「(アメリカにおいて)すでにベンチャー・キャピタルは死んだ!」のである。
 もともとアメリカでは、住居が動産であるのと同じように、企業すら一種の商品という発想があった。それが脱工業化社会として、「物的工業製品」から「知的工業製品」への道を歩み始めた時分から次第に強くなり、ついに企業は完全に金融商品化していったのである。
 企業経営手段としてのNBA(ビジネススクール)での技法が次第に最終目的と化し、ROE(Rules Of Engagement=株主資本利益率)」を最重視するという「株主のための会社」に変質するに従って、ベンチャー企業の持ち味である「研究費・先行投資・内部留保」などが圧迫されていったからである。
 結局アメリカにおいて、「企業は社会に貢献する」というかつての理念は空洞化し、企業の売買・乗っ取り・合併によって成長するという歪なものになり果てていく。
 そうした中アメリカでは、いわゆるCEO(Chief Executive Officer 最高経営責任者)という企業経営スタイルが定着していくのだが、彼らの中には行き詰まった企業に乗り込んでリストラを強行し、株価を低下させた後、MBO(Management Buyout=経営実績による報酬)の権利を取得し、業績改善に応じて巨利を得るという、ある意味会社を食い物にする行為が公然と横行するようにすら成り果てるのである。 
 著者に謂わせれば、「知的工業製品」としてのITとは、インテルとかマイクロソフト・アップルなどであって、ヤフーやアマゾン・樂天・ソフトバンク(それにライブドアなど)は、ITを利用したサービス業として、厳然と区別すべきだという。
 そう考えると、日本のお家芸である「物的工業製品」分野の企業もITが不可欠なものとなっていることも明白である。
 著者は本著の中で、アメリカ型経営システムの破綻と併せ、すでにいまポストITとして、ソフトとハードが一体化した、PUC(pervasive ubiquitous comunications=パーペイシブ・ユビキタス・コミュニケーションズ)の時代に入ったのだと理論を展開する。
 たとえば現在のIT社会の中心であるパソコンは、電源を入れてから実際に利用できるようになるまで一定以上の時間を必要とする。他の電機製品なら決して許せぬこの状況をなぜか多くの人は当然視して、他の電機製品の場合、クレームが集中するようなケースでも、「こんなもんだ」と諦め半分自分を合わせているのが現状である。
 一方PUCとは、使っていることを感じさせずに、どこにでも存在し、コミュニケーション機能を中心とした──ソフトとハードが一体化し不可分な──次世代のコンピュータの技術形態を指す概念のことである。
 
 なおここで取上げられた「ユビキタス」だが、かつて万能的OSであるトロンの開発者坂村健──当時東京大学助手(現教授)──が提唱したものだが、著者は坂村説はまだソフトとハードが一体化していない理論だと、その違いを明確にする。
 そしてPUCは、「物的工業製品」で圧倒的な力を持つ日本にとって、もっとも可能性を秘めた分野だと言う。
 本著はこうした技術分野を実際に活用している実例として、バングラデッシュでは、PUCを応用して、大画面のハイビジョンによる「遠隔教育・医療支援システム」──学校あるいは病院同士をワイヤレスのブロードバンドの先端技術でつないだ──リアルタイム双方向ネットワークを紹介している。
 また今後救援が穀類というデンプン質に偏ったアフリカにおいて、有効なタンパク源を豊富に含有した藻類「スピルリナ」の、製造から製品化までの技術を提供するなど、全く新しい分野に力を注いでいる。
 ただ著者の理念として、こうした行為は決して援助としてでなく、事業として利益を上げ得る、一種のベンチャー企業あるいはベンチャー・キャピトルとして取り組むべきだということを強調している。
 著者は、昨今日本において、いまだに時代遅れのアメリカ型の経営に偏向することで、優秀な人材や資金がマネーゲームに浪費されていることにに対する警告を発すると同時に、景気後退に伴う税収の減少・財政悪化から、増税の是非が論議されている中で、日本を「先進国の中でもっとも税率の低い国にする」ことで、世界中の優良企業を日本に呼び込むことを提唱している。
 景気の後退期には、ともすれば庶民の生活や福祉の向上に、また税収の増加など後ろ向きの議論が増えるものだが、そうした中で著者の英知と幅広い視野によって、日本の将来像としての「国富」のあり方について、情熱を傾けて論じた貴重な一冊と言えるだろう。

 <参考サイト>
  ほぼ日刊イトイ新聞より
 http://www.1101.com/hara/2007-11-19.html
「原丈人さんと初対面」(0~10回までつづく)参照

感銘の一冊

ゆらぐ脳 2009年05月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

池谷 裕二,木村 俊介共著  文藝春秋  1,300円(税込)

 著者の本を読むのはこれで3冊目、ちょうど2年前に読んだ最初の『海馬』は糸井重里との対談であり、2冊目の『進化しすぎた脳』(両署とも「感銘の1冊」として紹介)は、中高生たちとの対話形式を採っているが、本著では木村俊介の質問に答えるというスタイルである。
 いずれも対談の相手が「脳科学」の素人というところから、一般の読者にとっていたって身近で入りやすいのが特徴である。
 この『海馬』によって、脳細胞は死滅するばかりだと聞いていたのに、記憶中枢である海馬だけは、使うほど増えるのだということを知って、大いに勇気づけられたものだ。
 タイトルの「ゆらぐ脳」だが、脳の神経細胞が自主的に活動するときに、「ゆらぎ」に似たリズムが見られる。従来はそれを一種の「ノイズ(雑音)」として、脳の活動究明に有害なものだとして不当に扱われてきた。
 それを著者は、脳全体で見ると脳部位の相互関係の中で、たえず揺り動いていることを(綿密なMRI検査で)見つけることで、そうしたゆらぎにも意味と理由があるものとして捉えている。
 そこには、組織を分割して部分だけを見ることの危険性、たとえば、いま注目の「分子生物学」だが、彼らの細分化することで全てがわかるという発想の危うさを指摘している。
 とはいえ著者は、脳の至妙な働きを霊的なものとして韜晦(とうかい)する事なく、あくまでも脳の活動は、脳神経の発する電気作用と、タンパク質・アミノ酸それにイオンの移動とフィードバックという、至極即物的な作用で生まれ、特定の神経細胞が放出する脳内物質、たとえばドーバミンとか、エル・アドレナリンなどの微妙な働きで「喜怒哀楽」が生まれ、その作用が表情にも反映されることだとする立場は崩さない。
 たとえば霊的現象・超常現象として捉えられ勝ちの「幽体離脱」にしても、特殊な装置を使うことで、健康な人でも経験することが可能であることを教えてくれる。
 そうした現象について著者は、この「第三者の目で、客観的の己を見る」という人間の「客観視力」は、生長にかがせない能力であって、決してきかいな現象とは思わないと強調する。
 ただそうした「脳の至妙な働き」は、分解することで見付かるものではなく、いわば無駄も多く、間違いや過ち、それに錯覚などという、一種泥臭い行動原理の中で、複雑に張り巡らされた脳の各部の絡み合いと揺らぎの中で生み出されるのだと言う。 
 もっとも興味深い事例だが、神経細胞は栄養を与えられるとシャーレの中で1年ほどは生きるので、それ自体「生命体」といえそうな感じであるが、培養は難しく分裂・増殖はしないし非常に脆い。
 一方ガン細胞は非常に強くて、東京大学にあるものは50年以上生き続けていると言う。
 本著の中で、著者が博士課程の学生時代に行なった興味深い実験紹介している。
 ネズミの脳組織をミンチしてタンパク分解酵素トリプシンをかけて保温器に数十分すると神経細胞はバラバラになって沈殿する。それを濾過して酵素を洗浄する。
 その時点では単に「丸い細胞」に過ぎないが、それをシャーレに入れて栄養を与え、24時間後にわざと栄養を少なくして飢餓状態にする(かわいい子には旅をさせる)と、周囲の細胞と結びついて生きようとして、次第に神経細胞のネットワークを形成させ、しかも常にダイナミックに内部の結束を強めて、回路のつなぎ替えやシナプスを作っていく。
 と言うのだ。ご存じのように海馬以外の脳細胞は、一定の時期から死滅して減少すると言われている。そうした中でこうした、ある意味タフな「生命現象」を知れば知るほど、脳の持つ可能性に驚嘆するばかりである。
 科学に常識と思われる「仮説」という手段を採らないという著者は、「なにをやりたいか」より、「何を試すことができるか」が大切だという。そして「科学的な論理を詰める」よりも、好奇心を先に走らせることを採るのだという。
 どうも著者は、脳の至妙な働きよりも、むしろ脳細胞の「ガックリするほどヘタクソな使用法」に、いい知れないほど愛着を持っているようだ。
 また日本とアメリカのの学者の違いは、その表現能力の差であって、アメリカの著名大学で教わったことは、いかにうまく表現するかという、プレゼンテーション能力の養成だったと述懐する。 
 そうした問題提起も含めて、複雑で捉えどころのない脳の働きについて、このように親切な入門書の存在と、著者の能力・サービス精神に感謝したい。

感銘の一冊

観音の光に包まれて 2009年04月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

大原 弘盟 , 町田 宗鳳著  春秋社  1,890円 (税込)

 これは本当に不思議な、しかも大きな感銘を覚える一冊である。本欄で幾度か紹介した宗教学者であり、求道者でもある町田宗鳳師と、86才になる大原弘盟尼との共著とあるが、対話と言うよりも町田師が、大原尼の波乱と不思議さに満ちた一生、それを生んできた感動の「信の世界」を、巧みに引き出した内容と謂えるだろう。
 下手な書評の前に、町田宗鳳師の紹介文をお読みいただきたい。

   {引用開始)
 新しい本が出ました。今度は、曹洞宗の大原弘盟禅尼との対談です。庵主さまは今年八十七歳ですが、その生涯を信仰一筋で貫かれた方です。
 たいていの人間には、信仰はどこかとらえどころがなくて、曖昧なものに留まっていますが、庵主さまにとっては、信仰は石よりも鉄よりも固く、確実に実在するものです。
 一切の迷いを払拭して、そこまでの確信にいたるのは、並大抵のことではありません。庵主さまは、少女のように可憐で小柄な人ですが、お若いときは、じつに激しい修行を重ねてこられました。あそこまで強烈な求道心をもつことは、男僧にも珍しいことです。
 人間には、それぞれの運命があって、ときに過酷な状況に置かれることもあります。そこで踏ん張れるか、挫けるかは、紙一重の差です。その紙一重の差を決めるのは、平生からの信仰心です。
 信仰心というのは、なにかをがむしゃらに信じることではなく、まず自分という存在の小ささや罪深さを自覚することから始まります。でなければ、目には見えないけれど大いなるものに頭を下げるという謙虚さが、身につかないのです。
 近代文明は、信仰を個我の依存心を高めるものとして、疎外してきました。たしかにそういう一面もあるのですが、本物の信仰は人間の自立を促します。
 姫路の田舎に住む老尼の姿に、私が未来の希望を感じるのは、この退廃した世の中に、近代人が立ち戻るべき人間の原点がさし示されているからです。
   {引用終わり)

 文中町田師は、無垢無欲な老尼の言葉の一つ一つを、まるで手中の珠玉を慈しむように、やさしく私たちに指し示してくれる。
 昨今テレビで話題を呼んでいる霊能者・霊視について老尼は、自分はその能力はないと否定しているが、違った意味でそうした現象を真っ向から否定する人たちに取って、なんのためらいもなく老尼が語る霊的現象や結果がごく自然に発せられると、素直に信じられるから不思議である。
 ちなみに評者は、いわゆる心霊現象やUFO問題などに対して、否定も肯定もしないいわばニュートラルなスタンスである。見えないから否定するというのは、かつて見えなかった細菌やウイルスを否定するのと同じ頑迷さに通じるし、まだまだ不完全な科学を万能視する偏狭さを示すからだ。
 とは言え、自ら確認しない、出来ないことを無批判で信じ込むことも、避けたい思いも否定しない。
 特に、日本のテレビに共通する興味本位での取り組みからは、どうしても最初から胡散臭さを拭いきれないことも確かで、このことが公平な目を曇らせている。
 ところが、英知の人町田師と無垢の人大原老尼の間で交わされる、穏やかなオーラに包まれた会話の中から、次々と発せられる不思議な現象が、深い信仰心に抱かれた老尼の口から発せられるとき、「この人の言うことなら本当なのだ」とごく自然に想ってしまうのだ。
 老尼の幼少の頃継母から受けた筆舌に尽くしがたい虐待の数々を、何の衒いもなく「蔵何軒分にも相当する深い恩」だとごく自然に言い切れる人がいるだろうか。
 勿論そうした話を巧みに引き出した町田師の並々ならぬ力と、それ以上大原老尼に対する尊敬の念も預かって力がある。
 町田師は、老尼を評して(トルストイの)*「イワンの馬鹿」の信仰心と同じものとしているのだが、その裏に過度の科学万能主義跋扈が生んだ、殺伐とした世情に対して、世襲化し、世俗化し、形骸化して「葬式宗教」に堕した、無力極まりない日本仏教に対する痛烈な批判が読み取れるのだ。
 素直に読んでこそ、心の安寧が待っている思いである。

感銘の一冊

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