| ゆらぐ脳 | 2009年05月 |
池谷 裕二,木村 俊介共著 文藝春秋 1,300円(税込)
著者の本を読むのはこれで3冊目、ちょうど2年前に読んだ最初の『海馬』は糸井重里との対談であり、2冊目の『進化しすぎた脳』(両署とも「感銘の1冊」として紹介)は、中高生たちとの対話形式を採っているが、本著では木村俊介の質問に答えるというスタイルである。
いずれも対談の相手が「脳科学」の素人というところから、一般の読者にとっていたって身近で入りやすいのが特徴である。
この『海馬』によって、脳細胞は死滅するばかりだと聞いていたのに、記憶中枢である海馬だけは、使うほど増えるのだということを知って、大いに勇気づけられたものだ。
タイトルの「ゆらぐ脳」だが、脳の神経細胞が自主的に活動するときに、「ゆらぎ」に似たリズムが見られる。従来はそれを一種の「ノイズ(雑音)」として、脳の活動究明に有害なものだとして不当に扱われてきた。
それを著者は、脳全体で見ると脳部位の相互関係の中で、たえず揺り動いていることを(綿密なMRI検査で)見つけることで、そうしたゆらぎにも意味と理由があるものとして捉えている。
そこには、組織を分割して部分だけを見ることの危険性、たとえば、いま注目の「分子生物学」だが、彼らの細分化することで全てがわかるという発想の危うさを指摘している。
とはいえ著者は、脳の至妙な働きを霊的なものとして韜晦(とうかい)する事なく、あくまでも脳の活動は、脳神経の発する電気作用と、タンパク質・アミノ酸それにイオンの移動とフィードバックという、至極即物的な作用で生まれ、特定の神経細胞が放出する脳内物質、たとえばドーバミンとか、エル・アドレナリンなどの微妙な働きで「喜怒哀楽」が生まれ、その作用が表情にも反映されることだとする立場は崩さない。
たとえば霊的現象・超常現象として捉えられ勝ちの「幽体離脱」にしても、特殊な装置を使うことで、健康な人でも経験することが可能であることを教えてくれる。
そうした現象について著者は、この「第三者の目で、客観的の己を見る」という人間の「客観視力」は、生長にかがせない能力であって、決してきかいな現象とは思わないと強調する。
ただそうした「脳の至妙な働き」は、分解することで見付かるものではなく、いわば無駄も多く、間違いや過ち、それに錯覚などという、一種泥臭い行動原理の中で、複雑に張り巡らされた脳の各部の絡み合いと揺らぎの中で生み出されるのだと言う。
もっとも興味深い事例だが、神経細胞は栄養を与えられるとシャーレの中で1年ほどは生きるので、それ自体「生命体」といえそうな感じであるが、培養は難しく分裂・増殖はしないし非常に脆い。
一方ガン細胞は非常に強くて、東京大学にあるものは50年以上生き続けていると言う。
本著の中で、著者が博士課程の学生時代に行なった興味深い実験紹介している。
ネズミの脳組織をミンチしてタンパク分解酵素トリプシンをかけて保温器に数十分すると神経細胞はバラバラになって沈殿する。それを濾過して酵素を洗浄する。
その時点では単に「丸い細胞」に過ぎないが、それをシャーレに入れて栄養を与え、24時間後にわざと栄養を少なくして飢餓状態にする(かわいい子には旅をさせる)と、周囲の細胞と結びついて生きようとして、次第に神経細胞のネットワークを形成させ、しかも常にダイナミックに内部の結束を強めて、回路のつなぎ替えやシナプスを作っていく。
と言うのだ。ご存じのように海馬以外の脳細胞は、一定の時期から死滅して減少すると言われている。そうした中でこうした、ある意味タフな「生命現象」を知れば知るほど、脳の持つ可能性に驚嘆するばかりである。
科学に常識と思われる「仮説」という手段を採らないという著者は、「なにをやりたいか」より、「何を試すことができるか」が大切だという。そして「科学的な論理を詰める」よりも、好奇心を先に走らせることを採るのだという。
どうも著者は、脳の至妙な働きよりも、むしろ脳細胞の「ガックリするほどヘタクソな使用法」に、いい知れないほど愛着を持っているようだ。
また日本とアメリカのの学者の違いは、その表現能力の差であって、アメリカの著名大学で教わったことは、いかにうまく表現するかという、プレゼンテーション能力の養成だったと述懐する。
そうした問題提起も含めて、複雑で捉えどころのない脳の働きについて、このように親切な入門書の存在と、著者の能力・サービス精神に感謝したい。
| 観音の光に包まれて | 2009年04月 |
大原 弘盟 , 町田 宗鳳著 春秋社 1,890円 (税込)
これは本当に不思議な、しかも大きな感銘を覚える一冊である。本欄で幾度か紹介した宗教学者であり、求道者でもある町田宗鳳師と、86才になる大原弘盟尼との共著とあるが、対話と言うよりも町田師が、大原尼の波乱と不思議さに満ちた一生、それを生んできた感動の「信の世界」を、巧みに引き出した内容と謂えるだろう。
下手な書評の前に、町田宗鳳師の紹介文をお読みいただきたい。
{引用開始)
新しい本が出ました。今度は、曹洞宗の大原弘盟禅尼との対談です。庵主さまは今年八十七歳ですが、その生涯を信仰一筋で貫かれた方です。
たいていの人間には、信仰はどこかとらえどころがなくて、曖昧なものに留まっていますが、庵主さまにとっては、信仰は石よりも鉄よりも固く、確実に実在するものです。
一切の迷いを払拭して、そこまでの確信にいたるのは、並大抵のことではありません。庵主さまは、少女のように可憐で小柄な人ですが、お若いときは、じつに激しい修行を重ねてこられました。あそこまで強烈な求道心をもつことは、男僧にも珍しいことです。
人間には、それぞれの運命があって、ときに過酷な状況に置かれることもあります。そこで踏ん張れるか、挫けるかは、紙一重の差です。その紙一重の差を決めるのは、平生からの信仰心です。
信仰心というのは、なにかをがむしゃらに信じることではなく、まず自分という存在の小ささや罪深さを自覚することから始まります。でなければ、目には見えないけれど大いなるものに頭を下げるという謙虚さが、身につかないのです。
近代文明は、信仰を個我の依存心を高めるものとして、疎外してきました。たしかにそういう一面もあるのですが、本物の信仰は人間の自立を促します。
姫路の田舎に住む老尼の姿に、私が未来の希望を感じるのは、この退廃した世の中に、近代人が立ち戻るべき人間の原点がさし示されているからです。
{引用終わり)
{引用終わり)
文中町田師は、無垢無欲な老尼の言葉の一つ一つを、まるで手中の珠玉を慈しむように、やさしく私たちに指し示してくれる。
昨今テレビで話題を呼んでいる霊能者・霊視について老尼は、自分はその能力はないと否定しているが、違った意味でそうした現象を真っ向から否定する人たちに取って、なんのためらいもなく老尼が語る霊的現象や結果がごく自然に発せられると、素直に信じられるから不思議である。
ちなみに評者は、いわゆる心霊現象やUFO問題などに対して、否定も肯定もしないいわばニュートラルなスタンスである。見えないから否定するというのは、かつて見えなかった細菌やウイルスを否定するのと同じ頑迷さに通じるし、まだまだ不完全な科学を万能視する偏狭さを示すからだ。
とは言え、自ら確認しない、出来ないことを無批判で信じ込むことも、避けたい思いも否定しない。
特に、日本のテレビに共通する興味本位での取り組みからは、どうしても最初から胡散臭さを拭いきれないことも確かで、このことが公平な目を曇らせている。
ところが、英知の人町田師と無垢の人大原老尼の間で交わされる、穏やかなオーラに包まれた会話の中から、次々と発せられる不思議な現象が、深い信仰心に抱かれた老尼の口から発せられるとき、「この人の言うことなら本当なのだ」とごく自然に想ってしまうのだ。
老尼の幼少の頃継母から受けた筆舌に尽くしがたい虐待の数々を、何の衒いもなく「蔵何軒分にも相当する深い恩」だとごく自然に言い切れる人がいるだろうか。
勿論そうした話を巧みに引き出した町田師の並々ならぬ力と、それ以上大原老尼に対する尊敬の念も預かって力がある。
町田師は、老尼を評して(トルストイの)*「イワンの馬鹿」の信仰心と同じものとしているのだが、その裏に過度の科学万能主義跋扈が生んだ、殺伐とした世情に対して、世襲化し、世俗化し、形骸化して「葬式宗教」に堕した、無力極まりない日本仏教に対する痛烈な批判が読み取れるのだ。
素直に読んでこそ、心の安寧が待っている思いである。
| 江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵 | 2009年03月 |
徳川 恒孝著 PHP研究所 1,575円(税込)
江戸時代再評価の動き
著者は徳川家第18代当主で日本郵船紐育勤務を経て同社社長就任、現在は財団法人徳川記念研究所理事長である。徳川家の当主が、自らの家系が統治した江戸時代の事を書くこと自体日本では珍しい。
江戸時代は、戦後のマルクス史観の影響と占領下における教育政策の一環として、いやそれ以前、明治維新という王政復古成功のためのスケーブ・ゴートとして、必要以上に「暗黒の封建時代」というラヴェルを張られてきた経緯がある。
ところが少し前より、「江戸時代の見直し運動」とでも言えるような『江戸学』のが活発となり、多くの識者や研究者によって優れた書籍も発行されて来た。
特にバブル崩壊以降、急速に「省エネ運動」が注目され始めるや、「リサイクルの原点は江戸時代にあった!」と、江戸時代見直し機運は一挙に民間レヴェルまで拡がりを見せている。
本著はある意味、こうした『江戸学』の集大成とでも言える位置づけと見ることが出来る。なにしろ江戸時代に当たる時期、西欧では戦乱と殺戮・侵略と略奪に明け暮れ、魔女裁判まで行われていたのだ。
徳川治世の265年間(1603年~1867年)の平和と繁栄と比較するだけで、識者が「パックス・トクガワーナ(平和の徳川時代)」と名付けたようにその素晴らしさがわかるというものだ。
江戸時代は日本国体の縮図であった!
並の内容紹介では面白くないので、読後感じたことを率直に述べると、「江戸時代は日本国体の縮図であった」という思いに尽きる。
つまり2000年間に及ぶ日本の歴史がここに凝縮されているという視点で見れば、今の日本、今後の日本の有り様と対応を的確に把握できるのではないか。
そのあたりを中村式偏光グラスで覗いてみよう。
1. 父系家族に終始した
日本を民族的に分析すれば採集→農耕文明に適した女系家族集団である。女系家族集団は平和的であるが動乱・闘争に極端に弱い。しかも事にあったって纏まりがつかない。そのためにいざという時のリーダーが必要となる。
日本を民族的に分析すれば採集→農耕文明に適した女系家族集団である。女系家族集団は平和的であるが動乱・闘争に極端に弱い。しかも事にあったって纏まりがつかない。そのためにいざという時のリーダーが必要となる。
そのため天皇家も徳川家も直接的な宗家の直接血統が途絶えると、同一父系血統の中から次代当主を当ててきた。ちなみに著者も親藩会津松平家からの養子である。
2. 直接統治しなかった
ところが平和な国柄において、ごく当初あるいは戦乱期以外、生活全般に亘って独裁的な直接統治は邪魔であり無用であった。従ってチャイナにおける「易姓革命」には無縁であった。
ところが平和な国柄において、ごく当初あるいは戦乱期以外、生活全般に亘って独裁的な直接統治は邪魔であり無用であった。従ってチャイナにおける「易姓革命」には無縁であった。
3. 完全には閉ざされない「鎖国」を国是とした
日本という特異な地政学的いちづけは、意識するとしないとに関わらず、孤絶を余儀なくされる。
日本という特異な地政学的いちづけは、意識するとしないとに関わらず、孤絶を余儀なくされる。
そこで外の文明を渇望してその導入に努めるが、当時の外洋航海技術ではそれが最小限に制約されることになる。従って貴重な新文明を日本ナイズしたハイブリッド文化・文明を構築していった。
徳川時代は西欧の大航海時代に当たり、彼らの植民地主義から国体を守るために、意識的に「鎖国政策」を採用することになったが、海外への目を全く閉じることはしなかった。
そのため明治維新という大変革も、驚くように急速に克服していった。
いまこそ日本は「徳川時代」への回帰をはかれ!
縄文塾通信4月―4号『縄文が日本を救う!(グロ-バリズムといかに対決するか 65)で触れたように、
http://joumon-juku.com/help/65.html
http://joumon-juku.com/help/65.html
今大きな問題となっていることは、「気がつけば日本が世界の先頭を走っ
ていた」という事実であって、今までのように「追い抜き追い越せ」という手法が通用しなくなったことがはっきりしてきた。
ていた」という事実であって、今までのように「追い抜き追い越せ」という手法が通用しなくなったことがはっきりしてきた。
現在の日本の、経済的問いよりむしろ精神的混迷は、お家芸である「追い抜き追い越せ」という目標創出手段が通用しないと気付くと同時に、だとすれば今こそもうひとつのお家芸「温故知新」への回帰が必須となったことに思いを致さなければならない。
確かに日本は,明治維新から昭和の敗戦まで、過去を捨てて近代化一辺倒に突っ走ってきた。その間に私たちは、いかに多くのものを失ってきたか,大義名分の美名に隠れて、いかに理不尽な行為をなしてきたか。
個々の事例については、別途(本号)『縄文が日本を救う!(66)』に譲るが、その宝庫こそ「江戸時代」の埋蔵金?として、そこら辺りに手つかずで眠って再発掘を待っているのだ。
江戸時代もまた多様化の時代であった。
最近のテレビや新聞では悲惨なニュースやアンモラルな経済犯罪などが、いやというほど流されている。特にまじめな「憂国の士」にとっては、「一体この国は~」「このままでは日本は滅びる」と言った悲憤慷慨の発言が目につく。
実際今の状況は酷すぎるとして、では日本の現状悪いことばかりなのか。実は今年に入って、あまりに悲観的報道ばかりの風潮に棹さして、「今年は楽観論で迫る」と宣言したこともあって、「コップの水 もう半分 まだ半分」として、『楽天的日本再建論1~2(以下継続中)』を始め、極力明るい面を模索してきた。
そうすると今の日本,必ずしも悲観的・危機的状況ばかりだけでなく、素晴らしい側面も見えてきた。これが江戸時代にも見られた「社会の多様化現象」である。特に今大きな問題となっていることの多くは、誤った教育の影響であることが見えてきた。
これも温故知新、「江戸時代の教育に学ぶ」ことで容易に解消されそうだ。著者は、その時代と現代教育の違いについて、江戸時代の「階層を超えて自由であり、教育報酬に無縁であった教育」に対して、現在(いま)の教育は「教育の場における金銭的格差と対価報酬システム採用」の違いを挙げている。
つまり「聖職」であるべき教育が、単なる対価・報酬を求める「労働」に堕したことに尽きるのだ。
日本の再建は「江戸学」にあり。ご一読をお勧めする。なお書評の形をなさない書評に終ったこと、乞うご容赦!
| 日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! | 2009年02月 |
伊藤 洋一著 講談社α文庫 800円(税込)
著者は住信基礎研究所の巣寂研究員だが、経済問題のテレビキャスターとして有名である。
副題としては「アジアを引っ張る経済・欧米が憧れる文化!」また帯書きには、「次の30年は日本の時代!!」と、勇ましい言葉が踊っている。
わざわざ著者が「日本刀ではない」と謳っているように、「日本力」とは余り聞かない言葉だが、かく示されると著者の言わんとしていることをもっとも的確に表現している言葉であろう。
バブル崩壊後、低迷する日本経済を尻目に、チャイナそしてインドの躍進がはじまった。
加えて豊富な地下資源を武器に急成長を遂げてきたロシア・ブラジルという、いわゆるBRICsのめざましい発展の蔭に、バブル崩壊後の後遺症によって日本中悲観論が充満した。
ところがこのバブル崩壊後の不況と言われる時代を精査すると、むしろ徐々ながら成長路線に転じた時期があったにも拘わらず、依然として日本は悲観論に覆い尽くされていたのだ。
その後日本経済は、成長の度合いこそ違え今まで最長の「岩戸景気」を凌駕していくのだが、デフレを過度に懸念する日銀の政策で、依然としてゼロに近い低金利政策が継続されてきた。
その結果日本への投資誘導ではなく、低金利融資資金が石油などの先物に向かい、未曾有の石油高を招来してしまうのである。
本著では、凋落著しいアメリカに代わって、世界経済の牽引力になっている日本経済の実力、すなわち「驚愕のエコ技術」に代表される精密技術や想像力を明示しながら、その一方で急成長を続けるチャイナ、そしてコリアとインドの分析から、それぞれの抱える問題点と限界を指摘する。
チャイナを覆う ディレンマ・トリレンマ
たとえばチャイナでは、なによりも顕著になった民衆に対する指導力低下や、一向に改まらない地域間格差と、模倣商品の氾濫に見られぬ創造力の欠如が指摘されている。加えてこの国の環境汚染と砂漠化の進行はただ事ではない。
しかも過熱する経済成長によって世界中のエネルギー資源の確保に狂奔していることや、続発する「有毒製品」や北京五輪に絡んでチベット問題の全世界的非難となっている点など、ディレンマ・トリレンマが露呈している。
チャイナ その巨大な光と影 (参照)
http://joumon-juku.jp/mori&hito/072.html
いびつなコリア経済
韓国では、この国のGDPの20%強を占めるサムスン・グループの突出という異常性を指摘する。この国の企業で目立つのはサムスンとヒュンダイ(現代)くらいである。
もし今クローズアップされている、サムスン会長の不正資金疑惑問題の去就次第では、サそのイメージ悪化や経営体制への影響だけに止まらず、この国の経済に多大のダメージを与えかねない危うさがある。
この国の経済は、他国で稼いで日本に貢ぐというスタイルが定着している。これはコリアの製品の中に日本の技術が抜きがたく内蔵されていることを示している。
日本を訪れた(親日家と言われる)李明博新大統領は、「日韓未来志向」を強調するのだが、日本でのテレビ出演に当たって、コリアンの心情を「(過去に)殴った者は忘れても、殴られた者は忘れない」と表現する。
そこには過去日本がこの国に行ってきた善意の行為が一切影をひそめていることに気付けば、まだまだ手放しでは喜べない。
インドの限界
さてインドだが、チャイナに次ぐ人口のこの国は、カーストという抜きがたい格差・階層社会によって、その富の偏在はチャイナを超えるものが現実なりつつあるのだ。
以前紹介した「IITの衝撃」のように、
http://joumon-juku.jp/jiji_syouron/54.html
この国にエリートの実力は、英語圏というメリットも加わって端倪すべからざるものがあるが、この国の特徴はソフト産業に特化されている。
なおこの国は「印僑」と呼ばれるように、商業面での実力が突出しており、例外的に製鉄業のミタル、自動車製造業のタタ自動車が注目されているが、製造技術と言うよりも、主として巧みなM&Aによって急成長を遂げたものである。
多様性ニッポンの強み
第7章では、「世界を席巻する文化と経済」としており、理由として、「失われた産業が少ない」「産業の巾と拡がり」などを理由としている。
併せて、先般来本メルマガで触れてきた、日本のポップカルチャーの実力とその根底にある日本人の美意識、タブーのない日本文化を取り上げているのだが、これこそ日本の持つ多様性の成果であろう。
たとえば、「ポケモン」の市場規模は、実に3兆円あるという事実、キャラクターとして、すでにミッキーマウスなどの追随を許さない「キティーちゃん」など、日本人はもっと外に目を向け、自国の実力に自信を深めるべきことを強調している。
くたばれ悲観論!
最後の章では「くたばれ悲観論」、あとがきでは「溢れんばかり創造性に恵まれた民族」を取り上げている。
いつもマスコミが「負の要素」として取り上げる、少子化それに700兆円という財政赤字、GDPの低迷などについても、的確な反証材料を挙げて、「恐るるに足らず!」と喝破しているのだ。
樂天主義者の中村には願ってもない1冊だが、もし日本経済の先行き悲観論を拭いきれない方にとっても、ぜひ「目からウロコ」の1冊であって欲しいものである。
| 愚者の知恵 トルストイ「イワンの馬鹿」という生き方 | 2009年01月 |
町田 宗鳳著 講談社α新書 880円(税込)
この本を佐伯宏美さんという方から戴いた。実は筆者に町田先生を紹介して下さったのも佐伯さんで、その際にも頂戴した『文明の衝突を生きる』と町田先生の概略は、本欄でも紹介させて貰った。
http://joumon-juku.com/books/2007_4.html
またこの本の出版に当たっても、佐伯さんが大きく関わったことは、本書のあとがきで知ることになった。そのあたりを町田先生はこのように書いていらっしゃている。
(前略)この本を書くきっかけになったのは、広島市在住の佐伯宏美さんとの何気ない会話でした。彼女はひたすら「イワンの馬鹿」のように家族のために尽くす、日本の家庭ならどこにでもおられるような主婦ですが、人に不思議なインスピレーションを与えてくれる女性です。今まで物語風の本を書いたことのないわたしにとって、彼女との出会いは神の恵みだったと深く感謝しています。(後略)
佐伯さんご夫妻の生き様は筆者にとっても、お会いするだけで一陣の涼風の趣で、いつも自然と心が和んでくる思いに満たされる。
さて、ここで紹介される『イワンの馬鹿』の他、民話の形で提示される幾つかの物語(寓話)は、絶対的平和を希求したトルストイにふさわしく、戦前に断固徴兵拒否を貫いた平和主義者、北御門二郎の翻訳に依っている。
裕福な家に生まれながら、汚くてつらい仕事を決して厭わず、愚直で働き者で、健康なイワンには、軍人として栄光の道を歩む長男のセミヨン、商人として才覚を現した次男タラス、それに聾唖者の妹マラーニアがいる。しかも兄たちは、妹の面倒もつらい畑仕事も全部イワンに押しつけて顧みない。
それぞれ才知に長けた兄たちに悪魔が取り憑いて、成功に持ち上げた揚げ句、今度はどん底に落とすのだが、馬鹿正直なイワンにはその魔法が通じず、結局イワンの「神様と一緒に!」という言葉でみんな消し去られる。トルストイはこのイワンの生き様に、本当の信仰のあり方を見いだしたのである。
そして著者は、トルストイがイワンに見いだした「愛と満足の生活」の中に、キリスト教だけではなく「老荘思想」への傾倒をも見いだしている。
また本書では、現実に我々を取り巻く社会の中にイワンの生き方を当てはめて、小細工や小賢しい言動のむなしさを指摘してくれるのだが、ひるがえって周辺を見渡したとき、たとえば「額に汗しないで儲けを考える」風潮とか、感謝を忘れて愚痴ばかりの生活とか、思い当ったり反省したりすることのあまりの多さに嘆息するばかりである。
そのほかに、仲のよい謹厳実直な男と(イワンに似た)愚直な男の、家庭生活と巡礼の旅での出来事の話とか、生涯よい靴を造り続ける男の話、欲張って広い土地を求め、結局命を失う男の話などが、著者の解釈と教訓を交えてながら、真面目に愚直に働き、人のために尽くす(愛のために働き、愛の中に生きる)者の中に本当の幸せが宿ることを教えてくれるのだ。
ここで少し本題から逸れるが、筆者なりに「チエ」について考えてみたい。なお英語に対する浅薄な知識から誤訳や思い違いなどがあればご指摘願いたい。
まず(今まで)筆者にとっての「チエ」とは、
1. まず知識(Knowledge)を無差別にデータ(data)として集積する。
↓
2. データの中から、目的に沿った同方向・同系列のものを集めて、情報(Information)にする。
↓
3. 情報に自分自身の考察や発想を加えて醸成させたものが(自らの)「知恵」(Intelligence, Intellct)となる。
というものであって、そこへの到達を目指してきた経緯がある。
ところが本書を読んで私なりに感じたことは、一体筆者が求めてきた「チエ」と、ここでの“愚者の知恵”との乖離は一体何なのか、という思いである。
結局自分なりに導き出したのは、「チエ」には、知恵/智恵/智慧の3種類があるのではないかということである。
私にとってイワンのチエとは、今まで私が求め続けてきた、理詰めな「頭脳」からのアプローチの結果としての「知恵」など、とてもおよびもつかない「智恵」であって、本来私たちの心の中に隠されてきたものではないかという発見であった。
いわばイワン達のそれは、(筆者なりに当てはめた)智恵(Wisdom)であって、決して理詰めなアプローチで行き着けるものではないのだ。
では「智慧」とはなにか? これこそカミそしてホトケの広大無辺な慈悲の心であって、決して求めて得られるようなものではなく、イワンのような無垢の愚者が、その一生を終えるとき、自然にとたどり着く境地ではないだろうか。
ただ一つ言えることは、(筆者の独断と偏見だが)この『イワンの馬鹿』に見られる心根を最も多く蔵している民族は、天然の風土・資源に恵まれ、戦(いくさ)も階層もない時代を1万年以上に亘って過ごしてきた、縄文に発する日本の民ではないか。
たとえば「日本の常識 世界の非常識」という言葉がある。これば脳天気な日本人を揶揄するものだが、真実は「日本の生き様がいかに常識的であって、世界的な発想や生き様がいかに非常識なものか」ということにもなる。
また現在(いま)の日本の有り様を、堕落したと嘆く向きがいかにも多いが、筆者は敢えて、(善悪上下を網羅して)「いま日本ほど多様な価値観が息づいている時代はないのだ」と、楽天的な思いを込めて──いささか場違いで書評からかけ離れているが──本書の読後評としたい。
| 進化しすぎた脳 (ブル-バックス) | 2008年12月 |
池谷 裕二著 講談社ブルーバックス 1050円(税込)
この欄では06年8月に、著者とコピーライター糸井重里の対談集『海馬』を紹介したが、本書は中高生との対談という形式で、脳の(特に認知機能の)仕組みを平易に説いている大脳生理学入門書である。帯書きに「しびれるくらいに面白い」とあるが、まさに看板に偽りはない。勿論専門的すぎて付いていけない部分はあるものの、ついつい引き込まれて読み進めることになった。
この本からは私たちは、今まで知らなかった、知らないまま誤解していた大脳の仕組みと、そこから生まれる記憶の不確かさを、「不確かだから素晴らしい」というパラドックスの中で、いつしか受け入れてしまうことになる。
また同時に、見ることの出来ない脳の内部が、ここまでわかっているのかと言う驚きと同じくらい、(著者が)「まだほんの入り口にさしかかったところだ」と言う二律背反にも遭遇することになる。
本書の構成は、「人間は脳の力を使いこなせていない」「人間は脳の解釈から逃れられない」「人間はあいまいな記憶しかもてない」「人間は進化のプロセスを進化させる」という4回の講座が中心で、その後に著者の研究室(東大・薬学系研究科/薬品作用額教室)の大学院生との対話を中心とした「僕たちは何故脳科学研究するのか」が加わる構成となっている。目的が中高生対象だし、質疑応答を含めた会話形式だから理解しやすくて有難い。各章で「目からウロコ」の体験を幾つもすることになるが、それをここで、的確に伝えられないことがいかにも歯がゆくもどかしい。以下特に印象を受けた点だけを紹介したい。
第1章では、他の臓器は概して、それぞれ1つの仕事をこなすだけなのに、脳ではいくつもの仕事を行っていること、その作用は決してコンピュータのように正確ではなく、曖昧性あるいは柔軟性といえる作用の集積であることを教えてくれる。また視覚から得られる環境は、もともとそこにあったものではなく、人の脳でつくられたものだと言うことを教えてくれる。
そして人は、(幸か不幸か)進歩しすぎた脳を持っているのだという。ただ身体は脳に命令で制御させているようだが、逆に身体の持つ機能によって制約を受ける存在でもあること教えてくれるのだ。
また自分のどこまでが自分であることかを追求していくのだが、おそらく脳以外のすべてをサイボーグみたいに置き換えたとしても、やはり自分であることの不思議さも教えてくれる。これは前号福岡伸一の、「ごくわずかな期間にすべての細胞が更新されながら、「依然として自分である」という事実と合わせ、人体特に脳の不思議さに打ちのめされる思いである。
第2章では、「いったい心となにか?そしてどこにあるのか」というテーマに迫る。著者によれば心はけっして心臓など多の臓器にあるのではなく、やはり脳にあるというのだが、さて脳の何処でどのように「心」が生まれ作用するのだろうか。著者によると、脳の活動は脳神経の発する電気作用と、タンパク質・アミノ酸それにイオンの移動とフィードバックという、至極即物的な作用で生まれ、特定の神経細胞が放出する脳内物質、たとえばドーバミンとか、エル・アドレナリンなどの微妙な働きで「喜怒哀楽」が生まれ、その作用が表情にも反映されるのだ。
人特有の感情は、人が「言語を持った」ことから生まれたのだと著者はいう。言語のよって人は「抽象」という概念を会得するのだが、それによって多彩で複雑な感情が発生したのだ。
第3章では、脳の1000億、大脳だけで140億もある脳細胞(ニューロン)が、各種の神経伝達物質を受容体に伝え且つフィードバックさせるシナプスのメカニズムを紹介し、その一つ一つの仕事は至極あいまいで伝えたり伝えなかったりしながらトータル的には適切な認識をもたらす不思議さも教えてくれる。
第4章では、いま問題になっているアルツハイマー病の原因と治療薬開発状況に迫る。問題は、人間を実験台にすることは出来ないので、主としてマウスを使っての実験という制約がある。
実はアルツハイマー病患者の脳の表面に老人斑が出来るのだが、そこに細胞を破壊する因子があることがわかっていた。それ以外にも遺伝によるケースなど、かなりの事がわかってきた。著者は薬学専攻で、このアルツハイマー病の解決、薬品の開発に従事しており、治療薬の開発も進んでいるのだが、こうしたたゆまぬ研究にも拘わらず、人は脳のごく一部しかわかっていないということを、脳学者の立場としてもどかしさ半分、しかも「そう簡単にわかってたまるか」という愛情半分でいることを素直に告白している。
また著者は、いま注目されている分子生物学者の、部分部分から全体像を求めるという還元主義手法を、「分解したらわかったといえるのか」と批判した上で、脳細胞はいわゆる「複雑系」、勝手気ままに動いているようだが、意識と無意識をつなぎ、身体と脳をめまぐるしく行き来しながら、結果として脳全体の秩序を組織化し進化させているのだとし、総括として「ヒトの脳はなんのためにここまで発達したかというと、<柔軟性を生むため>の一言に尽きる」と結論している。
第5章、大学院研究室の学生たちとの対談では、より高度な脳談義の応酬がみられる。読んだときのお楽しみのために、ここでの紹介は割愛したい。本編を通じて脳の不思議さを実感できるが、さて人が、「自分の脳で自分たちの脳のことを考えるということの不思議さ」を、今更ながら思い知らされるばかりである。
ただ読書感を始め、伝えたいことが上手く出来ないことへのいらだたしさがひとしおで、本書評を書いた後のむなしさを憶えるばかりである。
| 生物と無生物のあいだ | 2008年11月 |
福岡 伸一著 講談社現代新書 777円
著者は著名な分子生物学者である。当然内容も専門分野に限定されるわけだが、こうした学術関連書籍にも拘わらず、40万部を超えるベストセラーとなったのはなぜか。一読すぐにその理由が判明した。
名文なのである。西洋の学者に比べて文章力の面で大いに劣った日本人学者という先入観が、見事に打ち破られた訳だが、なにしろ難解で(実際には有機質なのだが、)無機質なテーマの深部に我々を引き込んで放さない。各所導入部の風景描写から実在の登場人物の心理描写を加えて、仕事内容の分析と、置かれた立場の分析や日米の研究環境の違いなども、さりげなく挿入しながら「生物と無生物の間」という本題に入っていく手法は見事と言うほかない。
ここで取り上げられるのは、ウイルス/DNA/アミノ酸→タンパク質→消化酵素の細胞膜浸透作戦/遺伝子操作によるキメラ(1つの個体に2つの形質を備えた怪物) などへの飽くなきアプローチの軌跡なのだが、著者の作業を始め、それぞれ大きな功績のあった人物の「人となり」やその背景に隠されたエピソードを鏤(ちりば)めながら、難解な仕組みには巧みな比喩・修辞(レトリック)を駆使して読者をぐいぐいと引きずり込んでいく。
もっともあまりに精緻な身体内部の仕組みに、著者の──たとえば「砂上の城郭」「ジグソーパズル」など──著者の比類なき比喩・修辞の妙を持ってしても、精妙な細胞や酵素などの働きを描写する上で、部外者の理解の範囲を超える部分はあるが、それは大目に見なければならないだろう。ついでだが、各章のタイトルの中で、たとえば『チャンスは、準備された心に降り立つ』『タンパク質のかすかな口づけ』『時間という名の解(ほど)けない折り紙』など、あまりに詩的であり、哲学的ではないか。
著者はまた日米の大学研究室の大きな違いを教えてくれる。日本の持つ閉鎖性・特異性の一貫として、一つは、(千円札にもなり)我々日本人にとって医学的英雄であった野口英世の功績だが、我々が目隠しされている部分として、彼が「梅毒・狂犬病・トラコーマ・黄熱病」の病原菌を発見という輝かしい功績だけが(今でも)一人歩きしているが、当時ウイルス測定が不可能であったことも併せ、現在そのほとんどが否定されている事実がある。加えて(実際には)遊蕩癖と浪費癖で、人格的に信用がなかったらしい。ところが日本においてはいまだにその実像を隠したまま英雄野口英也が胸を張って一人歩きしている事実がある。
さて成功と不成功の分かれ目は偶然とか運不運という、いわば「神のいたずら」がつきまとうようだ。DNAの発見で一躍有名になった、ワトソン・クリック両博士だが、実際にはその陰で、入り口一歩手前まで近づいた学者オズワルド・エイブリーや、知らぬ間にその功績を下敷きにされたまま死んでいったロザリンド・フランクリンなどを、愛情のこもった筆致で私たちに知らしてくれる。以前本欄で紹介した『ダーウィンに消された男(アーノルド・C・ブラックマン著)』における純真なアルフレッド・ウオレスに思いをいたした次第である。そこには「運がよかったか悪かったか」というギャンブルじみた運命がほの見える。ワトソン・クリックの偉業は、そうした先駆者の研究の上に成立するのだが、結局(いささか場違いな言葉だが、)「一将功なりて 万卒枯る」ことになるようだ。
特に最近の電子顕微鏡やスーパー・コンピュータの出現以前とそれ以後では、研究環境に雲泥の差が生じることになる。このことはそれ以前の労苦の面と、今後の飛躍的な研究成果の両面で受け止める必要性を筆者は言外に指し示してくれるようだ。
ルドルフ・シェーンハイマーが実験したのは、追跡用放射線処理した重窒素の同位元素(アイソトープ)に置き換えたアミノ酸の行方を追うというものである。それらは速やかにあらゆる細胞に行き渡るばかりか、分子レベルでの置き換わりまでがなされること、それにその消滅や入れ替わりも又めまぐるしいほどのスピードだという事実である。このことは、特にアミノ酸→タンパク質は、食事によって吸収された後、ものすごい勢いで体細胞に取り込まれ、また消え去っていくという代謝を行っていたのだ。
言い換えると、私たちの身体は、日ならずして(骨に至るまで)全く新しい細胞にすり替わるという激しい代謝作用によって、「絶え間なく壊される(そしてまた造られる)秩序=動的平衡」で成り立ってとことになる。では脳細胞に至るまで全く新しい細胞に代わってしまった私たちは、どのようにして記憶の連続性を保っていけるのだろうか。生命を取り囲むナゾはかくも深い。
著者が示す「生命」の定義は、「(DNAが行う)自己複製という行為」だという、一見即物的な結論だが、彼が倦むことなく微細で精妙な「生命の世界」へのアプローチを続けられたのは、決して彼が非情で冷徹な無神論的心情の持ち主だったからではない。エピローグで彼が少年時代に、チョウのサナギや、トカゲのタマゴに注いだ愛の眼が、彼が自然に生物学の世界の住人へと誘(いざな)われていった後になっても、ずっと生き続けていることがわかる。
彼は、「生命に、生命のない(無生命)のアミノ酸・タンパク質・酵素、その秩序ある集合体としてのDNAが関わっている」という確たる信念を抱きながら、これからも終わりなきミクロ探検の旅を続けていくことだろう。
多分この本は、科学に無関係な文筆家を目指す人にとっても、素晴らしい指標を指し示してくれるだろう。とにかく幅広い分野の人にとって、必読の書として強く推薦したい。
| 第三の母国日本国民に告ぐ!―日本に帰化した韓国系中国人による警世的日本論 | 2008年10月 |
金 文学 著 祥伝社 1,680円
十二月九日、番外編の「繩文塾・忘年の集ひ」に今年もまた參加させていただいた。本來ならば、塾長恩顧の方々の集ひなのだらうが、あつかましく、かつ場所を辨へないのが小生の取り柄ゆゑ、「如何しますか」のお誘ひに、ついついのつかることと相成つた。
飮み會ゆゑに「ここをけづれ」とは趣旨が違ふが、我が儘を承知で謂へば塾長・金先生のトーク&トークを今少し聞きたかつた。しかし、「參加賞」として戴いた「第三の母国 日本国民に告ぐ」(金文學著・祥伝社刊)を読みその想いも晴れたので、書評といふよりも讀後感を述べて見たいとキーボードを叩いている。
結論を先にいふと、前出の「韓国民に告ぐ」、「中国人民に告ぐ」(いずれも祥伝社刊)を讀んで後にこれを讀むと著者の意圖がよくわかるのだが、それでは讀後感にもならないので先へ進める。
「脆弱な国家体制、墮落した国民のみじめな様相」とは、よくぞ言ひきつたものであり、時代が違へば市中引囘しの上「八裂き」の對象である。しかし行間には、我が國を「第三の祖国」と筆者が言ふ通り祖國愛があふれてゐる。ただ、來日で期待したものと、目の前を去來する事象の落差に「怒り心頭」が發端ではあらうが、一つ一つの事象に具體的對應作が記述されてゐる。
第五章で「パチンコ」が採上げられているが、私もこの問題は憂慮すべきであると思ひ續けてきた。理由はその經濟的規模である。洩れ聞くところによると、一時期は三十兆圓ほどの賣上を誇つていたともいうが、これは自動車産業に匹敵する。
「パチンコ」とはギャンブルであり、筆者に指摘されずとも「墮落した國民」を象徴してゐる。その眞つ先に擧げられるのは「パチンコ業は生活保護受給率が高い地域ほど賣上げがよい」と言はれてきたことであり、近年では「サラ金」とリンクしていたことも良く知られてゐる。幸いにもサラ金に規制が掛かり、大手の撤退、中小の廢業などサラ金業界の淘汰と共に、パチンコ業界の賣上げも激減してゐるそうな、慶賀すべきことである。
私は「パチンコ」もそして「ゴルフ」もやらない。それは高邁な思想があってのことでなく運動神經が鈍いことと、自身の人生そのものが「ギャンブル」(家族談)と承知しているからであり、加えて、巷で流行つてゐる「ゴルフ」はスポーツに非らずして「ちびた金をかけるギャンブル」でしかないとも考えている。
著者は、特に若者のことばの亂れ、服裝、立ち居振る舞のおぞましさを問題にしてゐる。
ゆゑに、この本は若い世代に讀んで欲しいと思ふ。
ゆゑに、この本は若い世代に讀んで欲しいと思ふ。
私たち(昭和十八年生)の世代になると、筆者の經歴を先に參照して、本文に入る前に「大きなお世話」が腦味噌を席捲し、主題まで屆かないと愚考する。
上に關しては塾長も「最近の日本の有り様に苦言を呈する内容だとして、事実とはいえやはりいささか気が重い。」と繩文通信で吐露してゐるから、危惧する課題は同じと推察した。
全文を讀むことがもどかしい諸兄は最終項の「日本の未来を救う処方箋二〇カ条」だけでも熟読すべし。就中、国政を預かる「政治屋」、そして主客が転倒していると事実認識に缺けた「高給(誤植に非ず)官僚」ども必讀の書と確信した。
| どうする東アジア聖徳太子に学ぶ外交 | 2008年09月 |
豊田 有恒著 祥伝社新書 777円
著名なSF作家であり、かつて(手塚治虫の)「鉄腕アトム」のシナリオライターであり、ノンフィクション作家、ドキュメンタリー・ライターであり、しかもチャイナ&コリア・ウオッチャーという多彩な活躍をする著者が書き下ろした、「聖徳太子に学ぶ東アジア=チャイナ&コリアとの付き合い方」の課外教科書である。ちなみに著者は、現在島根県立大学教授として、「東アジア問題研究」を担当している。
日本が生んだ数少ない天才のトップにランクされる聖徳太子だが、我々はその実像に関しては、まだ低い認識度にとどまっている。たとえば有名な『一七条憲法』にしても、第一条の中の「和をもって尊しとなす」という超有名な言葉しか知らない上、それさえも決して正しく認識していないと著者は指摘する。
第一条(読み下し文)は、
一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
の中で、「事を論(あげつら)~」は、相談=談合でなく、議論=ディベートであって、いたずらに「和する」ことを押しつけるのではなく、徹底的に議論を尽くした後に一致点=和に到達することだと謂う。
実は同憲法の条文のほとんどが、官僚の心得を諄々と説いていることを知らせてくれることで、官僚という人たちが、飛鳥の時代から現在に至るまで、いかに狡猾で一筋縄ではいかない存在なのかわかる。特に昨今の社保庁や防衛省の醜態に代表される官僚制度の有り様を見れば、大いに納得が行くというものだ。
また著者は太子が、我々の想像するような、「和」を第一義とした柔弱で知的な人物」ではなく、むしろ国家元首としての誇り高い気概と矜持をあわせ持った武人であったと断言する。
その証拠として第一に挙げられるのは、随の煬帝に送ったという「日出ずる国の天子 日没する国の天子にいたす。恙なきや」という胸のすくような言葉である。当時
アジアでは、中華の国チャイナの周辺はすべて野蛮な国であって、貢ぎ物を持って天子に拝謁し、下賜品を恭しく拝受するという屈辱的な「朝貢貿易」を行うのが常であった。いわゆる「冊封制度」である。
その中でいち早くこうした軛(くびき)を脱して、「独立宣言」したのが日本であり、聖徳太子であったのだ。聖徳太子は、こうした弱腰の屈辱的関係を嫌い、同じ天子という対等の立場を確立したのである。以来日本は、この立場を堅持してきた。それが今この国には、屈辱的・隷属的関係を指向する卑屈な腰抜け政治家が多いことか。
著者は、6世紀当時当時今と同じく、日韓関係はギクシャクしていたことを指摘する。たとえば当時半島には、高麗・新羅・百済の他、同三国に属さぬ都市国家群として伽羅(任那)があり、日本への渡来人が多かったこともあり、いわば今の「竹島」と同じような位置づけにあった。太子が伽羅に対して圧力を加える新羅に対して取った毅然とした対応と、今の腰が引けた気概も矜持もない日本外交の有り様との間のギャップがいかに大きいことか。
これはまた今の自本政府の、朝鮮総連や従軍慰安婦問題などへの接し方にも見られるが、一体この国はなにを生き甲斐に日本の民を導こうというのかと、著者は厳しく問うている。もっともそこに著者の「聖徳太子の外交術に学べ」という「混沌の時代を乗り切る」教訓がある。
昨今の東アジアの情勢は、依然として軍拡を続け、しかも訓練中のアメリカ艦隊のいくつのも防備システムをかいくぐって、航空母艦を攻撃可能な位置にまで潜水艦を送り込み、軍事衛星を破壊できる能力を獲得したチャイナと、ならず者国家北朝鮮と、反日政策をとり続け、限りなく北朝鮮に接近するコリアの姿がある。
果たして今の日本に、こうした北東アジア3国に、聖徳太子の示した「毅然たる外交」の復活があるのか、見通しは限りなく暗い。
著者は、「核にしてもロケットにしても、国家を背負って、愛国心に支えられているからこそ、北朝や中国のような途上国でも、それなりの成果が達せられる」のだが、「日本では、軍事も愛国心も、これまでタブーとされてきた」とした上で、
身辺に男女に絡むドロドロした軋轢、叔父である崇峻帝の暗殺などを体験して、人並みに悩んだ等身大の聖徳太子が、「後進的な古代日本を率いて、国際社会に伍していけたのは、ひとえにその揺るぎなき気概と矜持を持ち続けたからだ」と謂う。
いま大きく変わりつつある北東アジアの情勢に即応していくために、日本に必要なのは、聖徳太子のチャイナ・コリアに対する毅然とした、しかも相手の状況をよく把握し理解した上での的確な対応に学んだ、「今日的な問題化の解決にも繋がる国家としての気概の問題」だと喝破する。
ここらで我々日本人、いい加減で「歴史を学ぶ」ことから「歴史に学ぶ」ことにシフトすべきではないか。
<参考サイト>
『聖徳太子の一七条憲法』(原文 読み下し 現代語訳)
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm
| 深層水「湧昇」、海を耕す! | 2008年08月 |
長沼 毅著 集英社新書 693円
9月18日、NHKテレビ「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、はじめて著者を知った。肩書きは広島大学大学院生物生産学部 生物海洋学研究室の準教授で、専門は生物海洋学・微生物生態学、従来の海洋生物学から軸足を生物に置き換えた、全く新しい研究分野の第一人者である。テレビでは、高温・有毒ガスの充満する火山口などに棲む、生命発生に繋がる微生物を探して歩くフィールド派(行動学者)の姿を映し出している。
著者はかつて、深海探査艇「しんかい6500」で幾多の深海探査に従事、特に「チューブワーム」という深海生物の生態観察で有名になった。チューブワームは、深海の熱水噴出孔付近で、硫化水素などを栄養源としている微生物との共生によって生きている、口も消化管も持たないチューブ状の不思議な生物である。
同著は、学生への生物海洋学「講義ノート」をベースにしているとあるが、シャレや言葉遊びも交えた平易な表現で、私たちの知らなかった海洋生態圏の食物連鎖・海洋気象学、それに表題となっている「湧昇(ゆうしょう)」を始め、海流のメカニズムなど多様な知識を与えてくれる。
日本は古くから魚食が中心で生きてきたが、世界的に見ると圧倒的少数派で、現在(牛乳・乳製品を除く)農業生産は年間約35億7000万トンに対し、漁業生産は1億3300万トンに過ぎないという。漁業は古代からの漁撈という延長路線を踏襲しているが、より以上収量を求める手段として、いま養殖(幼魚まで飼育して放流する方法と、成魚まで飼育する方法がある)という方法が採られているが、特に成魚まで飼育する方法には、環境破壊と病気の発生が大きな問題となっている。
いま地球上には65億人という人類がおり、ごく一部の飽食社会を除き、今でも飢えに苦しむ多くの人たちがいる。しかも今世紀末には100億人を突破することが確実視されている。その時点において従来の陸上由来の食料だけでは到底賄いきれないが、今までいわば眠っていた海洋由来の食料を、「湧昇」という自然現象を活用し、且つそれに人知を付加することで、マグロで100億人が賄えるという試算を提示しているのが本著である。
本著は陸上にしろ海洋にしろ、食物連鎖のスタートは、日光による光合成であることを再認識させてくれるが、それが陸上では草であり、それを食べる草食動物なのだが、草は有機物を消化できない。従って土中の微生物や菌類などがそれを無機質に代えたものを吸収する。そして草を消化できないヒトは、草を消化できる家畜を食べることで食物連鎖の頂点「人間生態圏」を構築している。
海においては、川から流れ込んだ、また浅い海中で発生して光合成を行う植物プランクトンを、動物プランクトンが食べ、それを小魚や幼魚が、またそれをイワシ・サンマなど中型魚が~、最後に極相(クライマックス)としてマグロという連鎖サイクルで形成され、その過程や極相で人間生態圏に組み入れられる構図が見えてくる。そうしたメカニズムを生むのが海流であり、その循環過程で引き起こす「湧昇」という現象が、このサイクルの主役であることを教えてくれる。
以上が「生食連鎖」と呼ばれるが、実はもう一つ「死骸・食べ残し」という、いわば陸上の生ゴミに当たる存在があり、それがマリン・スーノーになって海中を浮遊し、再び動物プランクトンや幼魚などの掃除屋に70%は食べられ、30%が深海に堆積されて行くのだが、そうした堆積物が「湧昇」という現象によって 再び海面近く上昇して、再び植物性プランクトのエサとしての発生にリユースされる。これを「腐食連鎖」と呼んでいる。そうしたメカニズムを生むのが海流であり、その循環過程で引き起こす「湧昇」という現象が、この「腐食連鎖」というサイクルの主役である。
大きな漁場は「生食連鎖」に「腐食連鎖」が加わった恩恵の上に成り立っている。さしずめ、新車の流通という「動脈流通」と、中古車のリサイクル・リユース流通に当たる「静脈流通」とに当たると考えると分かり易い。ちなみに植物性プランクトンの必要とする栄養源は、窒素分でありリンであり、ケイ素(シリコン)というミネラル分である。
ではなぜこの「湧昇」が海の豊穣をもたらすかだが、堆積物が持つ窒素分の再利用である。深海では、硝酸化された窒素分が、海面地殻に上がってくると、植物プランク論が光合成にとって大発生を促すことになる。これは陸上でのマメ科植物が、根粒菌の働きで地中に窒素固定を行うことと似た現象と言えるだろう。ご存知窒素分は肥料の主成分である。
地球上には、海流の位置によって幾つもの大小「湧昇」ゾーンがあり、豊かな堆積物のあるところには大きな動物性プランクトンが育つ。例えばヒゲクジラやペンギンのエサになり、世界最大の哺乳類シロナガスクジラを生んだ南極の動物性プランクトン、オキアミは体長5センチもある。またカリフォルニア沖では、ウニやアワビを大発生させ、それがラッコのエサになって、ジャイアントケルプの大森林を守っている。
著者によると、もしこのオキアミをマグロの味に出来たら、すぐにでも100億人は養えるというのだが、海での捕食者たちは、多くの場合サイズがその下のエサの10倍くらいになるそうだが、陸上でも同様、頂点に近づくほど個体数が減少する。
そのために、本当にマグロで100億人を養うより、「ヒトがトラを食べる」という比喩を用いて、生態系の頂点にいるマグロを食べることより、その過程にあるオキアミ・イワシ・サンマなどを食べ、マグロは100億人が祭りの日に、ご馳走として食べることで結んでいる。
自然の力に比べて、悲しいことヒトの力はまだまだ弱小であるが、英知を絞って人工湧昇に取り組む必要を説いている。たとえば現在(いま)、ポンプによる汲み上げとか、人工海底山脈を造り上昇海流を起こそうという試みがなされているという。
ここから敷衍すれば、未開発の海に比べて、環境問題とも絡んで陸上における耕地の開発、食料生産量は限界に近いといえる。とすればいつでもウナギを、牛肉を食べるということが困難になってくる日は近い。
やはりウナギは土用の丑の日に食べるべきで、牛肉はハレの日という昔の生活に活路を見出すと共に、100億人時代にもなれば、もはや飼料効率の低いウシからブタ、ブタからニワトリへというように、動物タンパク源は、マグロを頂点とした海洋生産物の利用と同調して、(エサ要求率の低い捕食の中位以下の動物)例えばニワトリの肉やタマゴ主体にシフトすべき事を示唆している。



