霞が関をぶっ壊せ! 2009年08月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

高橋洋一著  東洋経済新報社  1680円

 著者(現東洋大学教授)は、1980年に当時の大蔵省に入省したキャリア官僚だが、主流であった東大法科卒ではなく、東大理数学部数学科および経済学科卒業という、本人談「2年に一度の」変人枠で入省した異色派である。
 3年後運命的に日本開発銀行から出向してきた竹中平蔵氏を上司に迎えるという運命の出会いによって、たちまち意気投合することで、その行く手は大きく変わることになった。
 しかもアメリカのプリンストン大学に留学し、日本の金融制作の異常さを知り、また金融工学を学習することで、その後の小泉内閣で竹中チームの一員として、いつしか出身母体(前大蔵省である)財務省の改革を手がけることになる。
 考えれば、数学を貴重とした経済・財務・金融の専門部署が、法律系ということが、いかに異常なことか素人でもわかるというものだが、なにしろ金融ビッグバンをいわれた時期、「デリヴァティヴ」を知る官僚はほとんど居なかったということをみても、この国の仕組みのおかしさがわかるだろう。
 さて1989年、経済バブル真っ最中にあって、著者はこのまま放置すれば、日本経済は際限なく広がる、ネズミ講に近い状況になるのを恐れ、ふくらみ続ける風船に一針を刺すという英断をすることになった。
 結局その後遺症で、未曾有の不況と閉塞感に日本中が苛まれることになるのだが、その後も金融緩和と公共投資以外に策を持たぬ(急死した)小渕さん、そして森さんの跡を継いだ小泉総理のもので、日本再建の重責に当たった竹中チームにあって、不良債権に悩む金融業界に「不良債権の償却」を徹底させ、公的資金を投入するという荒技によって、見事「失われた10年」に終止符を打つことになった。
 当時何らの経済施策も持ち合わさなかったエコノミスト・経済評論家連が、今頃になって「竹中ドクトリン」を、市場原理主義者のごとく批判しているが、実際には本来政治の介入を許さぬという市場原理に反して、強引な介入や公的資金投入という、まさに原理主義の反対を強行した竹中流金融施策は、むしろその対極にあるといえるのではないか。
 さていま課題視されている官僚制度の現状とは、
1.「省あって国なし 局あって省なし」という超縦割り制度
2.天下り先獲得のためには手段を選ばぬ硬直性
3.キャリア制度と併せ、年功序列という前時代的仕組み
 である。特に「天下り」は省ごとに行うため、省益と無駄な組織や設備を乱造するという弊害をもたらしてきた。しかも官僚は、未だにその権益を手放そうせず、頑強かつ巧妙に抵抗をしているのだ。
 お目付であるべきマスコミだが、各省ごとに閉鎖的な情報獲得ポストを持ち、もしその省庁に不利な報道をしようものなら、即座に排除される仕組みのため、当たらず障らずの記事しか書けないという。
 ちなみに、そうしたシステムによって量産された特殊法人などの含み資産を「埋蔵金」として明らかにした著者の業績だという。
 著者が主張する「官僚システム」の解体は、安倍内閣にまで引き継がれ、前渡辺喜美特命公務員制度改革担当大臣の時に、「第1次公務員制度改革」から福田内閣でも「第2次公務員制度改革」へと進展することになった。
 なお福田内閣当時渡辺大臣を事あるごとに牽制した町村官房長官は旧通産省官僚上がりで、なにかと官僚に肩を持つ、著者流にいう「過去官僚」である。著者が目指すのは内閣官僚の権限を拡充して、各省ごとの縦割りという官僚の野放図な天下りを瓦解し、ニッポン官僚性を樹立することである。
 本書はすべて実名で記述されているが、今1000万人移民受け入れ説を打ち出して大方の顰蹙を買っている中川秀直氏や、安倍内閣当時、顔が見えない声が聞こえないと酷評された塩崎恭久官房長官は、官僚制改革を強力にバックアップした人たちだというから、人は一面だけでは推し量れないものだと痛感した次第である。
 かくのごとく聖域じみた官僚システムだが、最近キャリア官僚の中途辞職が激増しているという。理由として、旧態依然な年功序列システムが、若者のやる気をなくしているのが理由だが、そうしたことも官僚制度改革の起爆剤になることだろう。
 結局出身省庁に戻ることを否定して転身した著者だが、先般同じ思いの旧官僚を糾合して、「脱藩官僚の会」を立ち上げた。今後の活動に期待したいし、協力をしたい思いである。 

感銘の一冊

幸運な文明―日本は生き残る 2009年07月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

竹村公太郎著  PHP研究所  1,575円

 著者は長年旧建設省河川局に勤務、その経験を活かして現在、財団法人リバーフロント整備センター理事長、日本水フォーラム代表理事・事務局長などの要職にあるが、文筆面でも活躍、日本の文明を、河川を中心とした日本の風土や気候から読み解いたユニークな『日本文明の謎を解く(2004)』はベストセラーになった。
 ⇒http://joumon-juku.com/books/2004_7.html
 本著は化石燃料の枯渇や温暖化現象の進行から、今後のキーワードこそ「文明の縮小時代に入った」という視点であり、タイトルのように「日本文明は生き残れる幸運な文明」なのだという。
 もっとも、著者が依拠する「ピークオイル説」のデータは、供給側の陰謀だとする説も多く、賛否両論が複雑に絡み合っているのだが、原油に限らず地球上の資源枯渇化の趨勢を加味すれば、昨今話題を呼んでいる「ロハス=LOHAS=Lifestyles Of Health And Sustainability (健康と持続可能性の(若しくはこれを重視する)ライフスタイル) 」という生き様が妥当であることは言を俟たない。
 では日本のなにが「幸運」なのか。
 まず日本という国土は、温暖化による海面上昇に当たって、70%を占める山地も好都合だし、水飢饉に当たっても、有利なモンスーン地帯に位置している。
 特に日本を救うのが豊富な魚介類だという。考えてみれば、今後の水不足と食糧不足が進行した場合、今まで人類に隷属してきた家畜は、穀物を巡って強力なライバルになるという皮肉な側面を無視するわけにはいかなくなる。
 一方魚介類は、植物プランクトン発生のサポート案とか、深海からの湧昇流を人工的に起こして海底のプランクトンの死骸を利用するなど、適切な対策を講ずれば、エネルギー資源の浪費には繋がらない。
 今の日本の「食糧自給率」だが、まずその基準がカロリーベースだという点もおかしいし、農水省の「国産だけに頼るとイモばかり食べるようになる」という例えも眉唾ものであって、まず魚介類を忘れては困る。なにしろ著者は、今の日本の少子化現象も、縮小時代には「幸運」と捉えている。
 本著では、その他いろんなことを学べるのだが、ここではその内で著者が「様子見作戦」と名付ける、オリジナリティに富んだ国土防衛作戦を三つだけ挙げてみたい。
 まず一つ目、太陽光発電や風車発電はしかも費用対効果が低い上日本の気象に合わないことから、傾斜の多い日本に無数に投げる川を利用して、小型の水車型発電機を設置する案を提示する。
 同発電機を幾つも繋いで使用するというのだが、余剰電力で水素生産することで、無公害エネルギーを獲得できるというものだ。また同案は、似たような発展途上国にも適用できるメリットがある。
 二つ目は、地球上で不足が予測される肥料分は──窒素肥料・カリ肥料と違って──合成出来ないし、有限で枯渇が懸念されている「リン酸」である。実はリン鉱石とは古代のトリの糞化石で、今や世界中のリン鉱山は、掘り尽くして枯渇寸前だという。
 著者が提言するのは、生きたリン鉱石として、渡り鳥の糞を活用すべきだということである。その方法というのが「冬みずたんぼ」という、冬でも田んぼに水を張ったままにしておくことである。
 「冬みずたんぼ」には、カエルからドジョウ、それにいろんな昆虫の幼虫などが棲息するので、渡来した渡り鳥がそこでエサを探すお礼に、生のリン鉱石をお返ししてくれるという寸法である。
 著者によると、浮世絵などから、江戸時代には「冬みずたんぼ」を行なっていたということがわかるというのだ。(近くこのことは別の命題として取上げることにしたい)
 さて最後だが、今までも日本文明の存続を支え、今後も支えていく「日本人のアイデンティ」として、「日本語」の存在を強調している。
 なにしろ北海道から鹿児島まで2000kmという長い国土で、たった一つの言語が通用するということは、他の国々と比較して、奇跡的であり、まさに稀有だといえる。
 詳述は避けるが、こうした唯一の言葉に集約することが可能になったのは、船による交通・交流であり、決め手は江戸時代の「参勤交代」という江戸を中心とした文明交流システムであり、現代にいたってラジオ・テレビの普及であった。
 しかも仮名漢字交じりのハイブリッド日本語は、新文明との出会いに当たって、カタカナ・ローマ字で対応出来るが、本家のチャイナでは、専門部署の設置で、新しい文字の創作に明け暮れているのだという。しかもこの国では、略字体への変換作業まで加わるのだから、その労苦は計り知れない。
 また目からウロコが落ちたのは、地理的実例を挙げて説く、「忠臣蔵の赤穂浪士の討ち入りの成功は、徳川幕府の積極的な援助姿勢であり、こうした犯罪を義挙として喧伝することによって、政権を強固にするための伏線だった」という新説である。
 さすがに長年土地行政に携わってきた、端倪すべからざる生きた目線に感じいった次第である。
 新しい視座確認のためにも、一読をお勧めしたい。

感銘の一冊

21世紀の国富論 2009年06月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

原 丈人著  平凡社  1,470円(税込)

 著者は日本人には珍しく、ベンチャー・キャピタリストとして、多くのシリコン・ヴァレーでベンチャー企業を育成してきたことで有名だが、もともと考古学者になりたかったのでトロイを発掘したハインリッヒ・シュリーマン( 1822~1890)のように、お金持ちになるための手段として実業家の道を選んだという変わり種である。
 そのためまず本人自体がベンチャー企業創設し、それを売却して資金を調達、次第に実績を重ねていくのだが、たとえば1980年代、脱工業化の波に乗ってアップル・マイクロソフト・インテル社などがベンチャー・キャピタルの支援を受けて急成長していったことは記憶に新しい。
 しかしながら、時代を経てベンチャー・キャピタルの性格も次第に大きく変貌していき、著者に言わせると「(アメリカにおいて)すでにベンチャー・キャピタルは死んだ!」のである。
 もともとアメリカでは、住居が動産であるのと同じように、企業すら一種の商品という発想があった。それが脱工業化社会として、「物的工業製品」から「知的工業製品」への道を歩み始めた時分から次第に強くなり、ついに企業は完全に金融商品化していったのである。
 企業経営手段としてのNBA(ビジネススクール)での技法が次第に最終目的と化し、ROE(Rules Of Engagement=株主資本利益率)」を最重視するという「株主のための会社」に変質するに従って、ベンチャー企業の持ち味である「研究費・先行投資・内部留保」などが圧迫されていったからである。
 結局アメリカにおいて、「企業は社会に貢献する」というかつての理念は空洞化し、企業の売買・乗っ取り・合併によって成長するという歪なものになり果てていく。
 そうした中アメリカでは、いわゆるCEO(Chief Executive Officer 最高経営責任者)という企業経営スタイルが定着していくのだが、彼らの中には行き詰まった企業に乗り込んでリストラを強行し、株価を低下させた後、MBO(Management Buyout=経営実績による報酬)の権利を取得し、業績改善に応じて巨利を得るという、ある意味会社を食い物にする行為が公然と横行するようにすら成り果てるのである。 
 著者に謂わせれば、「知的工業製品」としてのITとは、インテルとかマイクロソフト・アップルなどであって、ヤフーやアマゾン・樂天・ソフトバンク(それにライブドアなど)は、ITを利用したサービス業として、厳然と区別すべきだという。
 そう考えると、日本のお家芸である「物的工業製品」分野の企業もITが不可欠なものとなっていることも明白である。
 著者は本著の中で、アメリカ型経営システムの破綻と併せ、すでにいまポストITとして、ソフトとハードが一体化した、PUC(pervasive ubiquitous comunications=パーペイシブ・ユビキタス・コミュニケーションズ)の時代に入ったのだと理論を展開する。
 たとえば現在のIT社会の中心であるパソコンは、電源を入れてから実際に利用できるようになるまで一定以上の時間を必要とする。他の電機製品なら決して許せぬこの状況をなぜか多くの人は当然視して、他の電機製品の場合、クレームが集中するようなケースでも、「こんなもんだ」と諦め半分自分を合わせているのが現状である。
 一方PUCとは、使っていることを感じさせずに、どこにでも存在し、コミュニケーション機能を中心とした──ソフトとハードが一体化し不可分な──次世代のコンピュータの技術形態を指す概念のことである。
 
 なおここで取上げられた「ユビキタス」だが、かつて万能的OSであるトロンの開発者坂村健──当時東京大学助手(現教授)──が提唱したものだが、著者は坂村説はまだソフトとハードが一体化していない理論だと、その違いを明確にする。
 そしてPUCは、「物的工業製品」で圧倒的な力を持つ日本にとって、もっとも可能性を秘めた分野だと言う。
 本著はこうした技術分野を実際に活用している実例として、バングラデッシュでは、PUCを応用して、大画面のハイビジョンによる「遠隔教育・医療支援システム」──学校あるいは病院同士をワイヤレスのブロードバンドの先端技術でつないだ──リアルタイム双方向ネットワークを紹介している。
 また今後救援が穀類というデンプン質に偏ったアフリカにおいて、有効なタンパク源を豊富に含有した藻類「スピルリナ」の、製造から製品化までの技術を提供するなど、全く新しい分野に力を注いでいる。
 ただ著者の理念として、こうした行為は決して援助としてでなく、事業として利益を上げ得る、一種のベンチャー企業あるいはベンチャー・キャピトルとして取り組むべきだということを強調している。
 著者は、昨今日本において、いまだに時代遅れのアメリカ型の経営に偏向することで、優秀な人材や資金がマネーゲームに浪費されていることにに対する警告を発すると同時に、景気後退に伴う税収の減少・財政悪化から、増税の是非が論議されている中で、日本を「先進国の中でもっとも税率の低い国にする」ことで、世界中の優良企業を日本に呼び込むことを提唱している。
 景気の後退期には、ともすれば庶民の生活や福祉の向上に、また税収の増加など後ろ向きの議論が増えるものだが、そうした中で著者の英知と幅広い視野によって、日本の将来像としての「国富」のあり方について、情熱を傾けて論じた貴重な一冊と言えるだろう。

 <参考サイト>
  ほぼ日刊イトイ新聞より
 http://www.1101.com/hara/2007-11-19.html
「原丈人さんと初対面」(0~10回までつづく)参照

感銘の一冊

ゆらぐ脳 2009年05月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

池谷 裕二,木村 俊介共著  文藝春秋  1,300円(税込)

 著者の本を読むのはこれで3冊目、ちょうど2年前に読んだ最初の『海馬』は糸井重里との対談であり、2冊目の『進化しすぎた脳』(両署とも「感銘の1冊」として紹介)は、中高生たちとの対話形式を採っているが、本著では木村俊介の質問に答えるというスタイルである。
 いずれも対談の相手が「脳科学」の素人というところから、一般の読者にとっていたって身近で入りやすいのが特徴である。
 この『海馬』によって、脳細胞は死滅するばかりだと聞いていたのに、記憶中枢である海馬だけは、使うほど増えるのだということを知って、大いに勇気づけられたものだ。
 タイトルの「ゆらぐ脳」だが、脳の神経細胞が自主的に活動するときに、「ゆらぎ」に似たリズムが見られる。従来はそれを一種の「ノイズ(雑音)」として、脳の活動究明に有害なものだとして不当に扱われてきた。
 それを著者は、脳全体で見ると脳部位の相互関係の中で、たえず揺り動いていることを(綿密なMRI検査で)見つけることで、そうしたゆらぎにも意味と理由があるものとして捉えている。
 そこには、組織を分割して部分だけを見ることの危険性、たとえば、いま注目の「分子生物学」だが、彼らの細分化することで全てがわかるという発想の危うさを指摘している。
 とはいえ著者は、脳の至妙な働きを霊的なものとして韜晦(とうかい)する事なく、あくまでも脳の活動は、脳神経の発する電気作用と、タンパク質・アミノ酸それにイオンの移動とフィードバックという、至極即物的な作用で生まれ、特定の神経細胞が放出する脳内物質、たとえばドーバミンとか、エル・アドレナリンなどの微妙な働きで「喜怒哀楽」が生まれ、その作用が表情にも反映されることだとする立場は崩さない。
 たとえば霊的現象・超常現象として捉えられ勝ちの「幽体離脱」にしても、特殊な装置を使うことで、健康な人でも経験することが可能であることを教えてくれる。
 そうした現象について著者は、この「第三者の目で、客観的の己を見る」という人間の「客観視力」は、生長にかがせない能力であって、決してきかいな現象とは思わないと強調する。
 ただそうした「脳の至妙な働き」は、分解することで見付かるものではなく、いわば無駄も多く、間違いや過ち、それに錯覚などという、一種泥臭い行動原理の中で、複雑に張り巡らされた脳の各部の絡み合いと揺らぎの中で生み出されるのだと言う。 
 もっとも興味深い事例だが、神経細胞は栄養を与えられるとシャーレの中で1年ほどは生きるので、それ自体「生命体」といえそうな感じであるが、培養は難しく分裂・増殖はしないし非常に脆い。
 一方ガン細胞は非常に強くて、東京大学にあるものは50年以上生き続けていると言う。
 本著の中で、著者が博士課程の学生時代に行なった興味深い実験紹介している。
 ネズミの脳組織をミンチしてタンパク分解酵素トリプシンをかけて保温器に数十分すると神経細胞はバラバラになって沈殿する。それを濾過して酵素を洗浄する。
 その時点では単に「丸い細胞」に過ぎないが、それをシャーレに入れて栄養を与え、24時間後にわざと栄養を少なくして飢餓状態にする(かわいい子には旅をさせる)と、周囲の細胞と結びついて生きようとして、次第に神経細胞のネットワークを形成させ、しかも常にダイナミックに内部の結束を強めて、回路のつなぎ替えやシナプスを作っていく。
 と言うのだ。ご存じのように海馬以外の脳細胞は、一定の時期から死滅して減少すると言われている。そうした中でこうした、ある意味タフな「生命現象」を知れば知るほど、脳の持つ可能性に驚嘆するばかりである。
 科学に常識と思われる「仮説」という手段を採らないという著者は、「なにをやりたいか」より、「何を試すことができるか」が大切だという。そして「科学的な論理を詰める」よりも、好奇心を先に走らせることを採るのだという。
 どうも著者は、脳の至妙な働きよりも、むしろ脳細胞の「ガックリするほどヘタクソな使用法」に、いい知れないほど愛着を持っているようだ。
 また日本とアメリカのの学者の違いは、その表現能力の差であって、アメリカの著名大学で教わったことは、いかにうまく表現するかという、プレゼンテーション能力の養成だったと述懐する。 
 そうした問題提起も含めて、複雑で捉えどころのない脳の働きについて、このように親切な入門書の存在と、著者の能力・サービス精神に感謝したい。

感銘の一冊

観音の光に包まれて 2009年04月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

大原 弘盟 , 町田 宗鳳著  春秋社  1,890円 (税込)

 これは本当に不思議な、しかも大きな感銘を覚える一冊である。本欄で幾度か紹介した宗教学者であり、求道者でもある町田宗鳳師と、86才になる大原弘盟尼との共著とあるが、対話と言うよりも町田師が、大原尼の波乱と不思議さに満ちた一生、それを生んできた感動の「信の世界」を、巧みに引き出した内容と謂えるだろう。
 下手な書評の前に、町田宗鳳師の紹介文をお読みいただきたい。

   {引用開始)
 新しい本が出ました。今度は、曹洞宗の大原弘盟禅尼との対談です。庵主さまは今年八十七歳ですが、その生涯を信仰一筋で貫かれた方です。
 たいていの人間には、信仰はどこかとらえどころがなくて、曖昧なものに留まっていますが、庵主さまにとっては、信仰は石よりも鉄よりも固く、確実に実在するものです。
 一切の迷いを払拭して、そこまでの確信にいたるのは、並大抵のことではありません。庵主さまは、少女のように可憐で小柄な人ですが、お若いときは、じつに激しい修行を重ねてこられました。あそこまで強烈な求道心をもつことは、男僧にも珍しいことです。
 人間には、それぞれの運命があって、ときに過酷な状況に置かれることもあります。そこで踏ん張れるか、挫けるかは、紙一重の差です。その紙一重の差を決めるのは、平生からの信仰心です。
 信仰心というのは、なにかをがむしゃらに信じることではなく、まず自分という存在の小ささや罪深さを自覚することから始まります。でなければ、目には見えないけれど大いなるものに頭を下げるという謙虚さが、身につかないのです。
 近代文明は、信仰を個我の依存心を高めるものとして、疎外してきました。たしかにそういう一面もあるのですが、本物の信仰は人間の自立を促します。
 姫路の田舎に住む老尼の姿に、私が未来の希望を感じるのは、この退廃した世の中に、近代人が立ち戻るべき人間の原点がさし示されているからです。
   {引用終わり)

 文中町田師は、無垢無欲な老尼の言葉の一つ一つを、まるで手中の珠玉を慈しむように、やさしく私たちに指し示してくれる。
 昨今テレビで話題を呼んでいる霊能者・霊視について老尼は、自分はその能力はないと否定しているが、違った意味でそうした現象を真っ向から否定する人たちに取って、なんのためらいもなく老尼が語る霊的現象や結果がごく自然に発せられると、素直に信じられるから不思議である。
 ちなみに評者は、いわゆる心霊現象やUFO問題などに対して、否定も肯定もしないいわばニュートラルなスタンスである。見えないから否定するというのは、かつて見えなかった細菌やウイルスを否定するのと同じ頑迷さに通じるし、まだまだ不完全な科学を万能視する偏狭さを示すからだ。
 とは言え、自ら確認しない、出来ないことを無批判で信じ込むことも、避けたい思いも否定しない。
 特に、日本のテレビに共通する興味本位での取り組みからは、どうしても最初から胡散臭さを拭いきれないことも確かで、このことが公平な目を曇らせている。
 ところが、英知の人町田師と無垢の人大原老尼の間で交わされる、穏やかなオーラに包まれた会話の中から、次々と発せられる不思議な現象が、深い信仰心に抱かれた老尼の口から発せられるとき、「この人の言うことなら本当なのだ」とごく自然に想ってしまうのだ。
 老尼の幼少の頃継母から受けた筆舌に尽くしがたい虐待の数々を、何の衒いもなく「蔵何軒分にも相当する深い恩」だとごく自然に言い切れる人がいるだろうか。
 勿論そうした話を巧みに引き出した町田師の並々ならぬ力と、それ以上大原老尼に対する尊敬の念も預かって力がある。
 町田師は、老尼を評して(トルストイの)*「イワンの馬鹿」の信仰心と同じものとしているのだが、その裏に過度の科学万能主義跋扈が生んだ、殺伐とした世情に対して、世襲化し、世俗化し、形骸化して「葬式宗教」に堕した、無力極まりない日本仏教に対する痛烈な批判が読み取れるのだ。
 素直に読んでこそ、心の安寧が待っている思いである。

感銘の一冊

江戸の遺伝子―いまこそ見直されるべき日本人の知恵 2009年03月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

徳川 恒孝著  PHP研究所  1,575円(税込)

江戸時代再評価の動き
 著者は徳川家第18代当主で日本郵船紐育勤務を経て同社社長就任、現在は財団法人徳川記念研究所理事長である。徳川家の当主が、自らの家系が統治した江戸時代の事を書くこと自体日本では珍しい。
 江戸時代は、戦後のマルクス史観の影響と占領下における教育政策の一環として、いやそれ以前、明治維新という王政復古成功のためのスケーブ・ゴートとして、必要以上に「暗黒の封建時代」というラヴェルを張られてきた経緯がある。
 ところが少し前より、「江戸時代の見直し運動」とでも言えるような『江戸学』のが活発となり、多くの識者や研究者によって優れた書籍も発行されて来た。
 特にバブル崩壊以降、急速に「省エネ運動」が注目され始めるや、「リサイクルの原点は江戸時代にあった!」と、江戸時代見直し機運は一挙に民間レヴェルまで拡がりを見せている。
 本著はある意味、こうした『江戸学』の集大成とでも言える位置づけと見ることが出来る。なにしろ江戸時代に当たる時期、西欧では戦乱と殺戮・侵略と略奪に明け暮れ、魔女裁判まで行われていたのだ。
 徳川治世の265年間(1603年~1867年)の平和と繁栄と比較するだけで、識者が「パックス・トクガワーナ(平和の徳川時代)」と名付けたようにその素晴らしさがわかるというものだ。

江戸時代は日本国体の縮図であった!
 並の内容紹介では面白くないので、読後感じたことを率直に述べると、「江戸時代は日本国体の縮図であった」という思いに尽きる。
 つまり2000年間に及ぶ日本の歴史がここに凝縮されているという視点で見れば、今の日本、今後の日本の有り様と対応を的確に把握できるのではないか。
 そのあたりを中村式偏光グラスで覗いてみよう。
1. 父系家族に終始した
 日本を民族的に分析すれば採集→農耕文明に適した女系家族集団である。女系家族集団は平和的であるが動乱・闘争に極端に弱い。しかも事にあったって纏まりがつかない。そのためにいざという時のリーダーが必要となる。
 そのため天皇家も徳川家も直接的な宗家の直接血統が途絶えると、同一父系血統の中から次代当主を当ててきた。ちなみに著者も親藩会津松平家からの養子である。
2. 直接統治しなかった
 ところが平和な国柄において、ごく当初あるいは戦乱期以外、生活全般に亘って独裁的な直接統治は邪魔であり無用であった。従ってチャイナにおける「易姓革命」には無縁であった。
3. 完全には閉ざされない「鎖国」を国是とした
 日本という特異な地政学的いちづけは、意識するとしないとに関わらず、孤絶を余儀なくされる。
 そこで外の文明を渇望してその導入に努めるが、当時の外洋航海技術ではそれが最小限に制約されることになる。従って貴重な新文明を日本ナイズしたハイブリッド文化・文明を構築していった。
 徳川時代は西欧の大航海時代に当たり、彼らの植民地主義から国体を守るために、意識的に「鎖国政策」を採用することになったが、海外への目を全く閉じることはしなかった。
 そのため明治維新という大変革も、驚くように急速に克服していった。

いまこそ日本は「徳川時代」への回帰をはかれ!
 縄文塾通信4月―4号『縄文が日本を救う!(グロ-バリズムといかに対決するか 65)で触れたように、 
   http://joumon-juku.com/help/65.html
 今大きな問題となっていることは、「気がつけば日本が世界の先頭を走っ
ていた」という事実であって、今までのように「追い抜き追い越せ」という手法が通用しなくなったことがはっきりしてきた。
 現在の日本の、経済的問いよりむしろ精神的混迷は、お家芸である「追い抜き追い越せ」という目標創出手段が通用しないと気付くと同時に、だとすれば今こそもうひとつのお家芸「温故知新」への回帰が必須となったことに思いを致さなければならない。
 確かに日本は,明治維新から昭和の敗戦まで、過去を捨てて近代化一辺倒に突っ走ってきた。その間に私たちは、いかに多くのものを失ってきたか,大義名分の美名に隠れて、いかに理不尽な行為をなしてきたか。
 個々の事例については、別途(本号)『縄文が日本を救う!(66)』に譲るが、その宝庫こそ「江戸時代」の埋蔵金?として、そこら辺りに手つかずで眠って再発掘を待っているのだ。

江戸時代もまた多様化の時代であった。
 最近のテレビや新聞では悲惨なニュースやアンモラルな経済犯罪などが、いやというほど流されている。特にまじめな「憂国の士」にとっては、「一体この国は~」「このままでは日本は滅びる」と言った悲憤慷慨の発言が目につく。
 実際今の状況は酷すぎるとして、では日本の現状悪いことばかりなのか。実は今年に入って、あまりに悲観的報道ばかりの風潮に棹さして、「今年は楽観論で迫る」と宣言したこともあって、「コップの水 もう半分 まだ半分」として、『楽天的日本再建論1~2(以下継続中)』を始め、極力明るい面を模索してきた。
 そうすると今の日本,必ずしも悲観的・危機的状況ばかりだけでなく、素晴らしい側面も見えてきた。これが江戸時代にも見られた「社会の多様化現象」である。特に今大きな問題となっていることの多くは、誤った教育の影響であることが見えてきた。
 これも温故知新、「江戸時代の教育に学ぶ」ことで容易に解消されそうだ。著者は、その時代と現代教育の違いについて、江戸時代の「階層を超えて自由であり、教育報酬に無縁であった教育」に対して、現在(いま)の教育は「教育の場における金銭的格差と対価報酬システム採用」の違いを挙げている。
 つまり「聖職」であるべき教育が、単なる対価・報酬を求める「労働」に堕したことに尽きるのだ。
 日本の再建は「江戸学」にあり。ご一読をお勧めする。なお書評の形をなさない書評に終ったこと、乞うご容赦!

感銘の一冊

日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! 2009年02月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

伊藤 洋一著   講談社α文庫  800円(税込)

 著者は住信基礎研究所の巣寂研究員だが、経済問題のテレビキャスターとして有名である。

 副題としては「アジアを引っ張る経済・欧米が憧れる文化!」また帯書きには、「次の30年は日本の時代!!」と、勇ましい言葉が踊っている。

 わざわざ著者が「日本刀ではない」と謳っているように、「日本力」とは余り聞かない言葉だが、かく示されると著者の言わんとしていることをもっとも的確に表現している言葉であろう。

 バブル崩壊後、低迷する日本経済を尻目に、チャイナそしてインドの躍進がはじまった。

加えて豊富な地下資源を武器に急成長を遂げてきたロシア・ブラジルという、いわゆるBRICsのめざましい発展の蔭に、バブル崩壊後の後遺症によって日本中悲観論が充満した。

 ところがこのバブル崩壊後の不況と言われる時代を精査すると、むしろ徐々ながら成長路線に転じた時期があったにも拘わらず、依然として日本は悲観論に覆い尽くされていたのだ。

 その後日本経済は、成長の度合いこそ違え今まで最長の「岩戸景気」を凌駕していくのだが、デフレを過度に懸念する日銀の政策で、依然としてゼロに近い低金利政策が継続されてきた。

その結果日本への投資誘導ではなく、低金利融資資金が石油などの先物に向かい、未曾有の石油高を招来してしまうのである。

 本著では、凋落著しいアメリカに代わって、世界経済の牽引力になっている日本経済の実力、すなわち「驚愕のエコ技術」に代表される精密技術や想像力を明示しながら、その一方で急成長を続けるチャイナ、そしてコリアとインドの分析から、それぞれの抱える問題点と限界を指摘する。


チャイナを覆う ディレンマ・トリレンマ

 たとえばチャイナでは、なによりも顕著になった民衆に対する指導力低下や、一向に改まらない地域間格差と、模倣商品の氾濫に見られぬ創造力の欠如が指摘されている。加えてこの国の環境汚染と砂漠化の進行はただ事ではない。

 しかも過熱する経済成長によって世界中のエネルギー資源の確保に狂奔していることや、続発する「有毒製品」や北京五輪に絡んでチベット問題の全世界的非難となっている点など、ディレンマ・トリレンマが露呈している。

 チャイナ その巨大な光と影 (参照)
  http://joumon-juku.jp/mori&hito/072.html


いびつなコリア経済

 韓国では、この国のGDPの20%強を占めるサムスン・グループの突出という異常性を指摘する。この国の企業で目立つのはサムスンとヒュンダイ(現代)くらいである。

 もし今クローズアップされている、サムスン会長の不正資金疑惑問題の去就次第では、サそのイメージ悪化や経営体制への影響だけに止まらず、この国の経済に多大のダメージを与えかねない危うさがある。

 この国の経済は、他国で稼いで日本に貢ぐというスタイルが定着している。これはコリアの製品の中に日本の技術が抜きがたく内蔵されていることを示している。

 日本を訪れた(親日家と言われる)李明博新大統領は、「日韓未来志向」を強調するのだが、日本でのテレビ出演に当たって、コリアンの心情を「(過去に)殴った者は忘れても、殴られた者は忘れない」と表現する。

 そこには過去日本がこの国に行ってきた善意の行為が一切影をひそめていることに気付けば、まだまだ手放しでは喜べない。


インドの限界

 さてインドだが、チャイナに次ぐ人口のこの国は、カーストという抜きがたい格差・階層社会によって、その富の偏在はチャイナを超えるものが現実なりつつあるのだ。

 以前紹介した「IITの衝撃」のように、
  http://joumon-juku.jp/jiji_syouron/54.html

 この国にエリートの実力は、英語圏というメリットも加わって端倪すべからざるものがあるが、この国の特徴はソフト産業に特化されている。

 なおこの国は「印僑」と呼ばれるように、商業面での実力が突出しており、例外的に製鉄業のミタル、自動車製造業のタタ自動車が注目されているが、製造技術と言うよりも、主として巧みなM&Aによって急成長を遂げたものである。


多様性ニッポンの強み

 第7章では、「世界を席巻する文化と経済」としており、理由として、「失われた産業が少ない」「産業の巾と拡がり」などを理由としている。

 併せて、先般来本メルマガで触れてきた、日本のポップカルチャーの実力とその根底にある日本人の美意識、タブーのない日本文化を取り上げているのだが、これこそ日本の持つ多様性の成果であろう。

 たとえば、「ポケモン」の市場規模は、実に3兆円あるという事実、キャラクターとして、すでにミッキーマウスなどの追随を許さない「キティーちゃん」など、日本人はもっと外に目を向け、自国の実力に自信を深めるべきことを強調している。


くたばれ悲観論!

 最後の章では「くたばれ悲観論」、あとがきでは「溢れんばかり創造性に恵まれた民族」を取り上げている。

 いつもマスコミが「負の要素」として取り上げる、少子化それに700兆円という財政赤字、GDPの低迷などについても、的確な反証材料を挙げて、「恐るるに足らず!」と喝破しているのだ。

 樂天主義者の中村には願ってもない1冊だが、もし日本経済の先行き悲観論を拭いきれない方にとっても、ぜひ「目からウロコ」の1冊であって欲しいものである。

感銘の一冊

愚者の知恵 トルストイ「イワンの馬鹿」という生き方 2009年01月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

町田 宗鳳著  講談社α新書  880円(税込)

  この本を佐伯宏美さんという方から戴いた。実は筆者に町田先生を紹介して下さったのも佐伯さんで、その際にも頂戴した『文明の衝突を生きる』と町田先生の概略は、本欄でも紹介させて貰った。
  http://joumon-juku.com/books/2007_4.html

 またこの本の出版に当たっても、佐伯さんが大きく関わったことは、本書のあとがきで知ることになった。そのあたりを町田先生はこのように書いていらっしゃている。

 (前略)この本を書くきっかけになったのは、広島市在住の佐伯宏美さんとの何気ない会話でした。彼女はひたすら「イワンの馬鹿」のように家族のために尽くす、日本の家庭ならどこにでもおられるような主婦ですが、人に不思議なインスピレーションを与えてくれる女性です。今まで物語風の本を書いたことのないわたしにとって、彼女との出会いは神の恵みだったと深く感謝しています。(後略)

 佐伯さんご夫妻の生き様は筆者にとっても、お会いするだけで一陣の涼風の趣で、いつも自然と心が和んでくる思いに満たされる。

 さて、ここで紹介される『イワンの馬鹿』の他、民話の形で提示される幾つかの物語(寓話)は、絶対的平和を希求したトルストイにふさわしく、戦前に断固徴兵拒否を貫いた平和主義者、北御門二郎の翻訳に依っている。

 裕福な家に生まれながら、汚くてつらい仕事を決して厭わず、愚直で働き者で、健康なイワンには、軍人として栄光の道を歩む長男のセミヨン、商人として才覚を現した次男タラス、それに聾唖者の妹マラーニアがいる。しかも兄たちは、妹の面倒もつらい畑仕事も全部イワンに押しつけて顧みない。

 それぞれ才知に長けた兄たちに悪魔が取り憑いて、成功に持ち上げた揚げ句、今度はどん底に落とすのだが、馬鹿正直なイワンにはその魔法が通じず、結局イワンの「神様と一緒に!」という言葉でみんな消し去られる。トルストイはこのイワンの生き様に、本当の信仰のあり方を見いだしたのである。

 そして著者は、トルストイがイワンに見いだした「愛と満足の生活」の中に、キリスト教だけではなく「老荘思想」への傾倒をも見いだしている。

 また本書では、現実に我々を取り巻く社会の中にイワンの生き方を当てはめて、小細工や小賢しい言動のむなしさを指摘してくれるのだが、ひるがえって周辺を見渡したとき、たとえば「額に汗しないで儲けを考える」風潮とか、感謝を忘れて愚痴ばかりの生活とか、思い当ったり反省したりすることのあまりの多さに嘆息するばかりである。

 そのほかに、仲のよい謹厳実直な男と(イワンに似た)愚直な男の、家庭生活と巡礼の旅での出来事の話とか、生涯よい靴を造り続ける男の話、欲張って広い土地を求め、結局命を失う男の話などが、著者の解釈と教訓を交えてながら、真面目に愚直に働き、人のために尽くす(愛のために働き、愛の中に生きる)者の中に本当の幸せが宿ることを教えてくれるのだ。
 
 ここで少し本題から逸れるが、筆者なりに「チエ」について考えてみたい。なお英語に対する浅薄な知識から誤訳や思い違いなどがあればご指摘願いたい。

 まず(今まで)筆者にとっての「チエ」とは、
1. まず知識(Knowledge)を無差別にデータ(data)として集積する。
               ↓
2. データの中から、目的に沿った同方向・同系列のものを集めて、情報(Information)にする。
               ↓
3. 情報に自分自身の考察や発想を加えて醸成させたものが(自らの)「知恵」(Intelligence, Intellct)となる。

 というものであって、そこへの到達を目指してきた経緯がある。

 ところが本書を読んで私なりに感じたことは、一体筆者が求めてきた「チエ」と、ここでの“愚者の知恵”との乖離は一体何なのか、という思いである。
 結局自分なりに導き出したのは、「チエ」には、知恵/智恵/智慧の3種類があるのではないかということである。

 私にとってイワンのチエとは、今まで私が求め続けてきた、理詰めな「頭脳」からのアプローチの結果としての「知恵」など、とてもおよびもつかない「智恵」であって、本来私たちの心の中に隠されてきたものではないかという発見であった。

 いわばイワン達のそれは、(筆者なりに当てはめた)智恵(Wisdom)であって、決して理詰めなアプローチで行き着けるものではないのだ。

 では「智慧」とはなにか? これこそカミそしてホトケの広大無辺な慈悲の心であって、決して求めて得られるようなものではなく、イワンのような無垢の愚者が、その一生を終えるとき、自然にとたどり着く境地ではないだろうか。

 ただ一つ言えることは、(筆者の独断と偏見だが)この『イワンの馬鹿』に見られる心根を最も多く蔵している民族は、天然の風土・資源に恵まれ、戦(いくさ)も階層もない時代を1万年以上に亘って過ごしてきた、縄文に発する日本の民ではないか。

 たとえば「日本の常識 世界の非常識」という言葉がある。これば脳天気な日本人を揶揄するものだが、真実は「日本の生き様がいかに常識的であって、世界的な発想や生き様がいかに非常識なものか」ということにもなる。

 また現在(いま)の日本の有り様を、堕落したと嘆く向きがいかにも多いが、筆者は敢えて、(善悪上下を網羅して)「いま日本ほど多様な価値観が息づいている時代はないのだ」と、楽天的な思いを込めて──いささか場違いで書評からかけ離れているが──本書の読後評としたい。

感銘の一冊

進化しすぎた脳 (ブル-バックス) 2008年12月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

池谷 裕二著  講談社ブルーバックス  1050円(税込)

 この欄では06年8月に、著者とコピーライター糸井重里の対談集『海馬』を紹介したが、本書は中高生との対談という形式で、脳の(特に認知機能の)仕組みを平易に説いている大脳生理学入門書である。帯書きに「しびれるくらいに面白い」とあるが、まさに看板に偽りはない。勿論専門的すぎて付いていけない部分はあるものの、ついつい引き込まれて読み進めることになった。

 この本からは私たちは、今まで知らなかった、知らないまま誤解していた大脳の仕組みと、そこから生まれる記憶の不確かさを、「不確かだから素晴らしい」というパラドックスの中で、いつしか受け入れてしまうことになる。

 また同時に、見ることの出来ない脳の内部が、ここまでわかっているのかと言う驚きと同じくらい、(著者が)「まだほんの入り口にさしかかったところだ」と言う二律背反にも遭遇することになる。

 本書の構成は、「人間は脳の力を使いこなせていない」「人間は脳の解釈から逃れられない」「人間はあいまいな記憶しかもてない」「人間は進化のプロセスを進化させる」という4回の講座が中心で、その後に著者の研究室(東大・薬学系研究科/薬品作用額教室)の大学院生との対話を中心とした「僕たちは何故脳科学研究するのか」が加わる構成となっている。目的が中高生対象だし、質疑応答を含めた会話形式だから理解しやすくて有難い。各章で「目からウロコ」の体験を幾つもすることになるが、それをここで、的確に伝えられないことがいかにも歯がゆくもどかしい。以下特に印象を受けた点だけを紹介したい。

 第1章では、他の臓器は概して、それぞれ1つの仕事をこなすだけなのに、脳ではいくつもの仕事を行っていること、その作用は決してコンピュータのように正確ではなく、曖昧性あるいは柔軟性といえる作用の集積であることを教えてくれる。また視覚から得られる環境は、もともとそこにあったものではなく、人の脳でつくられたものだと言うことを教えてくれる。

 そして人は、(幸か不幸か)進歩しすぎた脳を持っているのだという。ただ身体は脳に命令で制御させているようだが、逆に身体の持つ機能によって制約を受ける存在でもあること教えてくれるのだ。

 また自分のどこまでが自分であることかを追求していくのだが、おそらく脳以外のすべてをサイボーグみたいに置き換えたとしても、やはり自分であることの不思議さも教えてくれる。これは前号福岡伸一の、「ごくわずかな期間にすべての細胞が更新されながら、「依然として自分である」という事実と合わせ、人体特に脳の不思議さに打ちのめされる思いである。

 第2章では、「いったい心となにか?そしてどこにあるのか」というテーマに迫る。著者によれば心はけっして心臓など多の臓器にあるのではなく、やはり脳にあるというのだが、さて脳の何処でどのように「心」が生まれ作用するのだろうか。著者によると、脳の活動は脳神経の発する電気作用と、タンパク質・アミノ酸それにイオンの移動とフィードバックという、至極即物的な作用で生まれ、特定の神経細胞が放出する脳内物質、たとえばドーバミンとか、エル・アドレナリンなどの微妙な働きで「喜怒哀楽」が生まれ、その作用が表情にも反映されるのだ。

 人特有の感情は、人が「言語を持った」ことから生まれたのだと著者はいう。言語のよって人は「抽象」という概念を会得するのだが、それによって多彩で複雑な感情が発生したのだ。

 第3章では、脳の1000億、大脳だけで140億もある脳細胞(ニューロン)が、各種の神経伝達物質を受容体に伝え且つフィードバックさせるシナプスのメカニズムを紹介し、その一つ一つの仕事は至極あいまいで伝えたり伝えなかったりしながらトータル的には適切な認識をもたらす不思議さも教えてくれる。

 第4章では、いま問題になっているアルツハイマー病の原因と治療薬開発状況に迫る。問題は、人間を実験台にすることは出来ないので、主としてマウスを使っての実験という制約がある。

 実はアルツハイマー病患者の脳の表面に老人斑が出来るのだが、そこに細胞を破壊する因子があることがわかっていた。それ以外にも遺伝によるケースなど、かなりの事がわかってきた。著者は薬学専攻で、このアルツハイマー病の解決、薬品の開発に従事しており、治療薬の開発も進んでいるのだが、こうしたたゆまぬ研究にも拘わらず、人は脳のごく一部しかわかっていないということを、脳学者の立場としてもどかしさ半分、しかも「そう簡単にわかってたまるか」という愛情半分でいることを素直に告白している。

 また著者は、いま注目されている分子生物学者の、部分部分から全体像を求めるという還元主義手法を、「分解したらわかったといえるのか」と批判した上で、脳細胞はいわゆる「複雑系」、勝手気ままに動いているようだが、意識と無意識をつなぎ、身体と脳をめまぐるしく行き来しながら、結果として脳全体の秩序を組織化し進化させているのだとし、総括として「ヒトの脳はなんのためにここまで発達したかというと、<柔軟性を生むため>の一言に尽きる」と結論している。

 第5章、大学院研究室の学生たちとの対談では、より高度な脳談義の応酬がみられる。読んだときのお楽しみのために、ここでの紹介は割愛したい。本編を通じて脳の不思議さを実感できるが、さて人が、「自分の脳で自分たちの脳のことを考えるということの不思議さ」を、今更ながら思い知らされるばかりである。
   
 ただ読書感を始め、伝えたいことが上手く出来ないことへのいらだたしさがひとしおで、本書評を書いた後のむなしさを憶えるばかりである。

感銘の一冊

生物と無生物のあいだ 2008年11月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

福岡 伸一著  講談社現代新書  777円

 著者は著名な分子生物学者である。当然内容も専門分野に限定されるわけだが、こうした学術関連書籍にも拘わらず、40万部を超えるベストセラーとなったのはなぜか。一読すぐにその理由が判明した。

 名文なのである。西洋の学者に比べて文章力の面で大いに劣った日本人学者という先入観が、見事に打ち破られた訳だが、なにしろ難解で(実際には有機質なのだが、)無機質なテーマの深部に我々を引き込んで放さない。各所導入部の風景描写から実在の登場人物の心理描写を加えて、仕事内容の分析と、置かれた立場の分析や日米の研究環境の違いなども、さりげなく挿入しながら「生物と無生物の間」という本題に入っていく手法は見事と言うほかない。

 ここで取り上げられるのは、ウイルス/DNA/アミノ酸→タンパク質→消化酵素の細胞膜浸透作戦/遺伝子操作によるキメラ(1つの個体に2つの形質を備えた怪物)  などへの飽くなきアプローチの軌跡なのだが、著者の作業を始め、それぞれ大きな功績のあった人物の「人となり」やその背景に隠されたエピソードを鏤(ちりば)めながら、難解な仕組みには巧みな比喩・修辞(レトリック)を駆使して読者をぐいぐいと引きずり込んでいく。

もっともあまりに精緻な身体内部の仕組みに、著者の──たとえば「砂上の城郭」「ジグソーパズル」など──著者の比類なき比喩・修辞の妙を持ってしても、精妙な細胞や酵素などの働きを描写する上で、部外者の理解の範囲を超える部分はあるが、それは大目に見なければならないだろう。ついでだが、各章のタイトルの中で、たとえば『チャンスは、準備された心に降り立つ』『タンパク質のかすかな口づけ』『時間という名の解(ほど)けない折り紙』など、あまりに詩的であり、哲学的ではないか。

 著者はまた日米の大学研究室の大きな違いを教えてくれる。日本の持つ閉鎖性・特異性の一貫として、一つは、(千円札にもなり)我々日本人にとって医学的英雄であった野口英世の功績だが、我々が目隠しされている部分として、彼が「梅毒・狂犬病・トラコーマ・黄熱病」の病原菌を発見という輝かしい功績だけが(今でも)一人歩きしているが、当時ウイルス測定が不可能であったことも併せ、現在そのほとんどが否定されている事実がある。加えて(実際には)遊蕩癖と浪費癖で、人格的に信用がなかったらしい。ところが日本においてはいまだにその実像を隠したまま英雄野口英也が胸を張って一人歩きしている事実がある。

 さて成功と不成功の分かれ目は偶然とか運不運という、いわば「神のいたずら」がつきまとうようだ。DNAの発見で一躍有名になった、ワトソン・クリック両博士だが、実際にはその陰で、入り口一歩手前まで近づいた学者オズワルド・エイブリーや、知らぬ間にその功績を下敷きにされたまま死んでいったロザリンド・フランクリンなどを、愛情のこもった筆致で私たちに知らしてくれる。以前本欄で紹介した『ダーウィンに消された男(アーノルド・C・ブラックマン著)』における純真なアルフレッド・ウオレスに思いをいたした次第である。そこには「運がよかったか悪かったか」というギャンブルじみた運命がほの見える。ワトソン・クリックの偉業は、そうした先駆者の研究の上に成立するのだが、結局(いささか場違いな言葉だが、)「一将功なりて 万卒枯る」ことになるようだ。

 特に最近の電子顕微鏡やスーパー・コンピュータの出現以前とそれ以後では、研究環境に雲泥の差が生じることになる。このことはそれ以前の労苦の面と、今後の飛躍的な研究成果の両面で受け止める必要性を筆者は言外に指し示してくれるようだ。

 ルドルフ・シェーンハイマーが実験したのは、追跡用放射線処理した重窒素の同位元素(アイソトープ)に置き換えたアミノ酸の行方を追うというものである。それらは速やかにあらゆる細胞に行き渡るばかりか、分子レベルでの置き換わりまでがなされること、それにその消滅や入れ替わりも又めまぐるしいほどのスピードだという事実である。このことは、特にアミノ酸→タンパク質は、食事によって吸収された後、ものすごい勢いで体細胞に取り込まれ、また消え去っていくという代謝を行っていたのだ。

 言い換えると、私たちの身体は、日ならずして(骨に至るまで)全く新しい細胞にすり替わるという激しい代謝作用によって、「絶え間なく壊される(そしてまた造られる)秩序=動的平衡」で成り立ってとことになる。では脳細胞に至るまで全く新しい細胞に代わってしまった私たちは、どのようにして記憶の連続性を保っていけるのだろうか。生命を取り囲むナゾはかくも深い。

 著者が示す「生命」の定義は、「(DNAが行う)自己複製という行為」だという、一見即物的な結論だが、彼が倦むことなく微細で精妙な「生命の世界」へのアプローチを続けられたのは、決して彼が非情で冷徹な無神論的心情の持ち主だったからではない。エピローグで彼が少年時代に、チョウのサナギや、トカゲのタマゴに注いだ愛の眼が、彼が自然に生物学の世界の住人へと誘(いざな)われていった後になっても、ずっと生き続けていることがわかる。

 彼は、「生命に、生命のない(無生命)のアミノ酸・タンパク質・酵素、その秩序ある集合体としてのDNAが関わっている」という確たる信念を抱きながら、これからも終わりなきミクロ探検の旅を続けていくことだろう。

 多分この本は、科学に無関係な文筆家を目指す人にとっても、素晴らしい指標を指し示してくれるだろう。とにかく幅広い分野の人にとって、必読の書として強く推薦したい。

感銘の一冊