| 野鳥観察の楽しみvol.1 | 2007年10月 |
新名 俊夫 著
タニシ企画印刷 発行
本書の舞台となっている広島県東広島市は、広島市から広島大学移転・近隣に広島空港の開港と、県の大型開発は東広島を要にすえて進行されつつあるのではないかと思えるほどの発展ぶりです。それだけに、最も懸念されるのが自然破壊・自然環境の悪化。しかし、減少傾向にあるとはいえまだまだ自然豊かなこの地域の田んぼやため池には、多くの野鳥が飛来し、そこを住処として暮らしている鳥たちもたくさんいます。 新名さんは、そんな野の鳥たちをカメラのファインダーを通して粘り強く追い続けてこられ、足掛け5年間、当社タニシ企画印刷のサイトに毎月写真と文章と寄稿してくださいました。それをまとめたのが、本書「野鳥観察の楽しみvol.1」です。
本書には、野鳥たちのカラー写真と撮影時の苦労話や鳥たちの特徴・習性・人間との関わりについて触れた文章がおさめられています。現場主義の視点で書かれた文章は、素人には野生の鳥たちに関するトリビアの宝庫としてうつるでしょう。また、鳥に詳しい方にとっても「納得」の一冊となるはずです。家族でバードウォッチングでもしてみようかと考えられている方にとっては格好の手引きとなることでしょう。
当社のサイトで、新名さんの連載は現在も継続中。vol.1を発行したばかりの今言うのも気の早い話かもしれませんが、「野鳥観察の楽しみvol.2」の刊行をお手伝いさせていただける日が楽しみです。
(哉)
| ガイアの復讐 | 2007年09月 |
現 地球温暖化についてあまりに多くの人が語ってきたが、凡百の論者の言葉より、この人ジェームス・ラヴロックの言葉だから、グサリと胸に突き刺さるものがある。
「地球は1つの生命体である」というあまりに有名な彼の、衝撃的な「ガイア理論」は、1979年に『地球生命圏』として発表されるや、当時多くの専門家・学者からは非難と侮蔑の声、あるいは無視するという手厳しい態度で迎えられながら、一方魂の世界に回帰しようとするニューエイジ・ニューサイエンティストからは熱狂的に迎えられた経緯がある。
地球すなわち「ガイア」という生命圏には、空中酸素量とか海水の塩分、それに気温など、われわれの身体に置き換えると体温や血液の濃度、血圧・脈拍・酸:アルカリの比率などなど、生命を維持するための「ホメオスタシス(恒常性維持機能)」(サーモスタットに似た、正と負のフィードバックシステムとか、何気なく歩行したり、ただ立っているようでも自然にバランスを取るっている微妙なメカ二ズムとして「サイヴァネティックス(自己調整機能)」というシステムが備わっているのだという。
特に還元主義者と呼ばれる、全体像をいったん解体して、細部から探求のメスを入れ、それを再び全体に組み立てるという手法を採る学者たちや、特にダーウィンの後継者たちは、こぞってナンセンスの声を上げた。それほどラヴロックのガイア理論は衝撃的で、いままで科学通念を打ち破るものであった。
彼の「地球圏という生命体」なる突飛な?理論に対して一斉に反発したネオ・ダーゥイニストたちが、討論の相手に送ったのが「利己的な遺伝子」で有名な行動生物学者、リチャード・ドーキンスである。
ラヴロックは、彼との討論の中で、いつのまにか相反するドーキンスの(見事な話術の術中に嵌って)説に肯定する自分を見つけて愕然とし、その後一層の理論武装に取り組むことになる。
たとえば「利己的な遺伝子」によって進化したと唱える、彼らネオ・ダーゥイニストたちが、「動物の排尿」がガイア理論の利他的なシステムにどう関係するのか」と揶揄するのだが、彼ラヴロックは、「もし尿素を大切な水分やエネルギーと一緒に排泄するという無駄をせず、呼吸によって窒素として排出したとしたら、植物は一切育たなかっただろう」と反論する。
考えてみれば、多くの森に住む動物たちの排泄物もそうだし、遡上したサケなどもクマのエサになり、その排泄物や死骸もまた「利他的な遺伝子」によって森に還元するという行為を行っていることになるのだと言えるだろう。
彼はすぐれたセンサーなど精密機器の発明・製作技術者であり、現実行動派であって、膨大なデータを駆使して理論の裏付けを行う科学者でもあり、ガイア理論は緻密な理論上の裏付けを持ってきたところから、彼の仮説は、最近次第に世界的通念として定着する動きが顕著になってきている。
たとえば、かつて概念と捉えられていた「ガイア理論」は、その後彼自身コンピュータを駆使して、「デイジー(ひな菊)ワールド」というヴァーチャル・モデルをつくって、植物が太陽熱に対応する温度調整能力を証明したり、各分野の専門家の協力も得たりして、着々と強固な理論武装を遂げ、次第に世界的に認知されることになったのだが、彼のあまりに広範な理論の広がりに、多くの科学者は学際を越えることが出来ず、対応できないこともあって、グローバルな科学的コンセンサスを得るまでには至らなかった憾みがある。
昨今異常気象による天災が続発し、環境汚染が進行する中、その要因として温暖化問題が急激に論議され、防止策として京都議定書策定の遵守や発展途上国も包含した見直し論も浮上するなど、各国の思惑と利害関係が絡み合って、いたずらに時間だけを浪費している感があるところに、この1冊は痛烈な一撃を与えることになった。
例えばラヴロックは聖女マザー・テレサの発言(1988)「貧しい人々や、病める人々のために尽くすことが私たちの務めなのに、どうした地球のことを気にかけていられるでしょう。それは神のなさることです」という発言に対して、
「実を言えば、神への信仰も、現状維持への信頼も、持続可能な開発という方針すら、われわれの真のよりどころにはなってくれない。もしわれわれが地球を大切にしなければ、地球は自分の身を自分で守るために、人間を暖かく受け入れるのを間違いなくやめるだろう。信仰心に篤い人々は、地球という故郷を見つめなおし、神が創造したこの聖地を人間が汚してしまったと考えるべきだ。 (後略)」
と問い返している。
またラヴロックは、「温暖化は、ガイアの発熱である」と表現して、いまや増えすぎた人類による地球虐待の傷は、ガイアの自然治癒力を大きく上待っており、このままでは間違いなく地球は回復力を失って、5500万年前の到底人の住めない高温期に突入すると警告する。
彼はすでに化石燃料の使用は極限に達しており、あらたなエネルギー源に大きく舵を取るべきだと指摘した上で、少しでもガイアの延命を図るためにエネルギー源として、なにが適切でなにが不適切かを列記している。
ここでの詳細は避けるが、ラヴロック自身、もっとも不適切な代替エネルギー源の代表として(かなりの紙数を割いて)それは「風力発電」だと断じ、逆に大いに増やすべきものとして「原子力発電」を挙げている。原子力発電とはいささか奇異に感じに捉えられ勝ちな処方箋だが、かれは前著『地球生命圏』および『ガイアの時代』において、すでに原子力の発電利用に賛意を表して、当時多くの支持者を失った経緯がある。
京都議定書の遵守義務だが、日本は1990年に遡って、当時の二酸化炭素排出量の-6%という厳しいもので、現在当時より8~10%もオーバーしているところから、現在の数字より16%以上も削減という。不可能に近い数字になっている。
ご存じのように世界で最も省エネ化に成功した日本にとっては、とてつもなく大きな目標だが、それに近づける最大の方法は、「原発」の増設しかない。最近相次いで「プルサーマル計画」の実施が報じられているが、非常に喜ばしいことである。
天然ウランには燃えるウラン235がわずか0.7%しか存在せず、そのままでは核分裂を起こさないウラン238は、99.3%を占める。そこで燃えるウラン235を3%に高め濃縮して始めて「核分裂連鎖反応」を起こす。そこで得た高温の蒸気でタービンを回して電力を起こすのが「原子力発電所」である。
ところがこの濃縮された核燃料1gからはその1/1000gしか分裂を起こない。このままでは厖大な資源の無駄遣いになる。そこで原発で使用済みのウラン238にプルトニウムを再処理工場で混ぜ合わせたもので、そうした新しい燃料を使用しようというプランを「プルサーマル計画」と呼んでおり、こうしたプルサーマル工場は、すでに海外ではフランス・ベルギー・ドイツなどですでに100カ所以上」使用されている。
今までは使用済み核燃料をフランスに送って再加工されていたが、ようやく青森の六ヶ所村に再処理工場を建設することになった。再処理されたものがMOX(Mixed Oxide)燃料である。
日本中の設備がプルサーマル対応になれば、石油や天然ガスの消費が大いに節約され、温暖化防止にも大いに貢献できることになる。
唯一の原爆被害国である日本には、「原発」に対する強い拒否反応がある。しかし「核」の平和利用という観点に立ち、しかも温暖化防止という大きな課題を見据えた上で、建設的な論議を重ねる必要が肝要だろう。
『ガイアの復讐』は、ラヴロックの、まことに明快で説得力に富む一冊であり、もはや取り返しのつかない人の愚行に対する警告の書であり、反省の意志も行動も示さないヒトに対するガイアの手酷いしっぺ返しを示唆する予言の書でもある。
筆者は『森と人の地球史(第3章 ホモ・イノヴェーティス論)』の中で、最近「地球にやさしい~」というキャッチフレーズを、しばしば耳にする。これは人が飽くことなくエネルギーを浪費することで、汚染物質を空中や海中に撒き散らしていることの反省の意を込めての発言のようだが、まるで地球が自分の持ち物とでも言うようなスタンスはいかがなものか。
気の遠くなるような悠久の時間を費やして眠りについた化石燃料たちを、あわただしく目覚めさしている人の行為こそ、それと気付かぬままに、かつて地球を覆い尽くしていた、生命発生以前の原始的環境への回帰していることに繋がっている。
45億年という寿命のガイアにとって、人がやさしく接することも、あるいは無制限に汚染物質を撒き散らすことも、そのために人が絶滅しようがすまいが、「痛くも痒くもない」ことなのである。
と書いた。ヒトが自ら招いた環境汚染が元で死に絶えたとしても、おそらく1000年いや100年余りもしたら、何事もなかったように元通りなガイアに立ち返るのではないか。
年齢すでに80代半ばという高齢な彼の本は、特に世界の主導的国々の首脳部に、もっともっと広く読まれてほしいものである。
<既読のジェームス・ラヴロックの著籍>
◎ 地球生命圏 スワミ・ブレム・ブラブッダ訳 工作舎
◎ ガイアの時代 〃 〃
| 鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール | 2007年08月 |
現実に起こる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原因』があり、その原因は、あなたの心の中にあるのです。
つまり、あなたの心を映し出した鏡だと、思ってもらうといいと思います。(本文から)
著者野口嘉則は、1963年広島生まれ。広島大学経済学部卒。大学卒業後リクルートに入社。その後独立してメンタルマネジメントの講師となる。99年に心理コンサルティング事務所を開設。2003年に(有)コーチング・マネジメントを設立。数々の企業研修(EQ向上研修)の中で紹介した例話を元に本書を出版したものである。研修当時からこれを読んだ9割の人が泣いたといい、発行まもなくベストセラーになった。物語は実話であるが登場人物の氏名・職業などは多少変えて設定したとされている。
41歳の主婦が小学校5年生の息子が軽いいじめにあっているのを苦にしているところから話は始まる。息子はいじめではないと言い張っているが心配でたまらない。夫の先輩で経営コンサルタントで心理学にも造詣の深いという矢口(著者のこと)に相談する。そこで最初に言われたことは「誰か身近な人を責めていませんか」ということだった。一番身近といえば夫である。夫には感謝はしているが尊敬はしていないと感じた。矢口氏は更に「お父さんに対してはどうですか」と聞いてきた。更に「許せないという気持ちはありませんか」という。親として感謝はしているが好きになれなかった。
高校生の頃から他人行儀な付き合いしかしてなかったことに気づいた。次は「お父様を許せない気持ちを存分に紙に書いてください」「父に感謝できることを書いてください」「父に謝りたいことを書いてください」「形だけでもいいからお父様に感謝の言葉と謝る言葉を形だけでもいいから伝えてください」。言われたとおり父に電話して形どおりの言葉を伝えた。ここで父の反応はお意外なものだった。嗚咽して言葉にならなかったのである。自分に対する父の気持ちが、自分の息子に対する気持ちと同じではないかと気づいた。矢口氏から「優太君に有り難うを100回言ってください」といわれた。その気持ちが通じたのか息子のいじめも解決したようである。これにはいろんな考えもあるであろう。物語は終わったが何かがある。
解説で著者は「私たちの人生の現実は、私たちの心の中を映し出す鏡である」という法則が「鏡の法則」であるという。そして許すということの重要性を説く。まず自分を許し、①許せない人をリストアップする。②自分の感情を吐き出す。③行為の動機を探る。④感謝できることを書き出す。⑤言葉の力を使う。⑥誤りたいことを書き出す。⑦学んだことを書き出す。⑧「許しました」と宣言する。これで結果が出ても出なくてもよいのです。
「人生で起こるどんな問題も何か大切なことを気づかせてくれるために起こります。そしてあなたに解決できない問題は決して起きません。あなたに起きている問題は、あなたに解決する力があり、そしてその解決を通じて大切なことを学べるから起こるのです」というのが著者の結論である。いじめによる自殺の問題が大きく取り上げられている今日、この考えが何かを解決するよすがになればと思うものである。
| 帝国海軍が日本を破滅させた(上) Incompetent Japanese Imperial Navy | 2007年07月 |
不思議な本である。表題からある程度同感できると思って読んでるうちに、「同感、同感」という思いがあったのが、次第に「何で」という気になってくる。下巻になると「まだ懲りないのか」という感を深くする。著者は1927年(昭和2年)福岡生まれ、陸軍士官学校61期生(最後の入校者)、戦後大分経済専門学校卒。三井鉱山(株)、三井石油化学工業(株)に勤務、1987年退職後、戦史研究に基づく執筆活動に入る。
一貫して「陸軍悪玉、海軍善玉」史観を批判し日本敗戦の真相を追究してきた。主要著書に『帝国海軍の誤算と欺瞞(1995星雲社)』、『帝国海軍「失敗」の研究(2000芙蓉書房)』、『太平洋に消えた戦機(2003光文社)』、があり、本書はこれらに続く「帝国海軍研究」の決定版といえよう。
そもそもの基本的原因は大日本帝国憲法にある。統帥権(軍の最高指揮命令権)の独立である。これは立法・行政・司法に並立する(あるいは超越する)第4の権力である。(もう一つ問題点があった。憲法に内閣総理大臣の規定がなく、国務大臣の一人でしかなく、大臣をまとめるだけで抑えることはできなかった。意見が合わないと閣内不統一ということで内閣総辞職に追い込まれた)。
しかし、日清戦争では政・軍の調整を元老(伊藤博文・山県有朋・大山巌・井上馨・松形正義)が行い、軍も平時は陸海並列対等であったが、戦時大本営条例では参謀総長(陸)が全軍を統帥し軍令部長を指導することができた。日清戦争を何とか勝利したが三国干渉で臥薪嘗胆している中で、海軍は陸軍の下に立つことを好まず陸海並立対等を唱えた。一時は沙汰止みになったが海相山本権兵衛の強力な意向でついに成立した。
これが戦争の統一指導を阻み、海軍の担当分野への陸軍の介入を拒否した原因になっている。日露戦争が実は辛勝であったのに現象面での快勝を理由に次の仮想敵をアメリカにして戦備増強を図って、軍縮条約に反対し国家予算の多くを獲得した。このため国民的英雄東郷元帥を取り込んだのは許せない。それが戦略思想面では「艦隊決戦」「通商破壊軽視」となって表れ、更に「艦隊保全」「情報軽視」につながったと考えられる。
大東亜戦争では、当初考えられていた「速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに更に積極的措置により蒋政権の屈服を促進し独尹と提携してまず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む」とあり太平洋地域は持久正面であった。これを山本五十六は、ハワイ奇襲による開戦に切り替え、表面的な勝利は得たが山本の期待した戦意の喪失とは逆に燃え上がらせてしまった。
また、戦力転換点(彼我の戦力と兵站支援力のバランスが逆転する距離)を勝手に越えてその後始末を陸軍に要求したり(代表例がガダルカナル)、世界の海軍の常識である通商破壊戦を全く考えず相手の輸送船は航行自由、我の輸送船はほとんど沈められるという結果をどう考えればいいのだろうか。
開戦時の戦力で戦うという考え方から戦力の補充という点に考えが向いていないのも問題である。特に、パイロットは世界一の技能集団であったのに次第に消耗し、適切な補充施策がないまま戦力は一気に低下している。戦果確認も、確認機を置いた当初と異なり各自の報告のみの積み上げとなれば戦果は当然過大となる。
これを客観的に分析することなく突入した搭乗員の報告を尊重するという情緒的な処理で確認し、しかもそれを自分でも信じてしまった。しかも、これに乗っかった陸軍の少壮参謀がいる。自分たちが現地で見たものよりも海軍の意向に乗じようとして、終末作戦指導をした者たちである。瀬島、服部、辻など自分の責任を感じることなく戦後を生き延びたことは到底許しがたい。
というふうに、著者は海軍を指弾しその説得力は抜群である。ただこれで陸軍は善玉にはならない。特に政治的に動いて世界の世論に与えた影響は無視できない。しかし、先の戦争を考えてみたい方にとっては一度ご覧になったほうがよい書ではないかと思う。
| 大地の咆哮 元上海総領事が見た中国 | 2007年06月 |
上海総領事館の職員が、チャイナ公安のハニートラップに引っかかって、無念の自殺をして果てたという、ショッキングなニュースが日本中を駆けめぐった。
これに対して日本政府はどこまで強硬に抗議をしたかは別として、この国の通例として、「知らぬ存ぜぬ」の一辺倒で、忘れやすい日本人の記憶が薄れようとした時、当時の上司であった総領事杉本信行氏の本著が上梓され、あらためてこの国チャイナの内情が赤裸々にされた。
実はこの書は、氏が末期ガンで死の床にありながら、渾身の力をふるって書き残した、いわば遺書であり、理不尽なチャイナ告発の書だといえよう。氏は悪名高き「チャイナスクール」の一員だが、彼だけか、それとも少数派の一人かは別として、われわれの平板的な認識を一変させる迫力、現地に密着した地道なODA活動や、強硬な主張を行った、タフネゴシエーターとして側面も見せてくれる。
ただ予想していたハニートラップの実情は、残念ながら出てこないのだが、それを補って余りある迫力のあるチャイナの実状告発と、「正しい付き合い方」について、ともすれば居丈高になりやすい日本の現状を、やんわりとだが抑えてくれている。
たとえば、「靖国」に対するチャイナの言い分にも触れながら、といって、逆にチャイナの圧力に負けて参拝中止をすれば、国のメンツを持たない国だと上げ済まれるので、絶対に中止してはならないと説く。
ただ同時に根気強、日本の戦後平和に過ごしてきた状況とか、私案としてだが、靖国が「日本民俗独特の宗教」であることを明確した上で、他の普遍的な宗教とは全く違う、日本人のみが自動的に氏子(うじこ)になるという「排他的な自然崇拝的な宗教である」ことを、世界のメディアに明らかにしていくことを提案している。このあたり安倍さんにもだが、特に谷垣さんに読んで欲しい。
本著では、チャイナの問題点として、「環境汚染と公害・水資源の枯渇とその汚染・森林破壊と砂漠化」を取り上げ、今後ODAの打ち切りや削減を言う前に、そうした課題の解決にシフトすることの重要さを強調している。
加えて興味を持たされるのは、国交が途絶えているバチカンとの国交回復で、それが実現すれば、普及を通じて辺地の窮状を世界に発信して、この国の実状を(ただ非難するのではなく、世界の援助と、この国の上層部に明らかにしていくことが効果的だろうとしている。
命を賭しての感銘の1冊、未読の方はぜひ購読を勧めたい。
| 海馬―脳は疲れない | 2007年05月 |
2000年にこの初版本が出版されたとき、池谷裕二はまだ30歳という若さで、薬学の立場で脳の研究に取り組む気鋭(東大の薬学部助手という)の学者である。糸井重里については紹介する必要のないくらい著名なコピーライターだが、糸井の当意即妙な発言によって、うまく池谷の考えや表現を引き出されえるという形で、「脳」という不思議で難しい分野を、われわれにわかり易く説明してくれる。まさに絶妙のコンビネーションが難解なテーマを分かり易く楽しい読み物にしている。
「海馬」という脳の一器官が、記憶を司る場所だということを始めて知ったのだが、脳細胞は減る一方で増えることがないといわれてきたのに、この海馬の細胞(神経)だけは、使うことで増えるということも真剣な驚きだった。同神経回路(シナプス)は、思考を重ねる毎に増える上、「決して疲れない」のだそうな。
この「海馬」という器官は、大脳皮質の内側(脳の中心)にショックから大切に守られている、小指くらいの大きさで、タツノオトシゴの形をしているところから名付けられたもので、先に扁桃体というクルミ状の器官とセットになった左右1対で構成されている。
この「海馬」の仕事は、毎日側頭葉から送り込まれる情報を取捨選択し、必要なものを記憶として側頭葉に送り返す事だそうだ。
脳細胞が死ぬ一方だという理由は、いつまでも昔のことを覚えていると、新しい記憶との混同を避けるためで、実際にわれわれは、脳細胞の98%は使っていないのだから脳細胞が死んだと言っても何の問題はないという、嬉しいような寂しいような事実も教えてくれる。
また記憶力だが、問題はただ記憶することだけではなく、それを思い出すことの方が大切であって、われわれは記憶したものを脳のいろんな箇所に分けて保存しており、必要に応じてそれらを手際よく纏めて書いたりしゃべったりすることなのである。
各章ごとに取り纏めとしての要約があって、しかも非常にわかりやすいのが特徴で、われわれ年寄りにもうれしい部分が沢山ある。たとえば第1章「一流はおしゃべり」というもので、お喋りし過ぎていつも反省しきりだった塾長への助け舟でもある。
本書のお陰で、「眠ることは脳の整理である」とか、「記憶にも沢山の種類があり、記憶を高める方法がある」など、今まで知らなかったことを実に沢山教えられた。その中で特にうれしかったのは、「歳を取っても脳は成長する」というくだりと、「30歳の誕生日」が人生の縮図で、その時に考えたことでその後の人生が決まるようなものだ」というところである。
ちなみに塾長の場合(誕生日云々は別として)この時期に、ハイブリッドアメリカ鶏が輸入されたことであり、このハイブリッド理論がイン・プリントされ、縄文塾に結びついたのである。
また歳を取ったから物忘れがひどくなると言うのも、興味のあることや特に気になることなどはしっかり記憶するところから見ても、ウソだということが分かる。自分事で恐縮だが、塾長の場合も、昔から見てはるかに物覚えが良くなったのだが、これも「柔軟性と好奇心」をモットーにして、興味のある本を読み、話を聞いてきたせいだとわかった。
皆さんもぜひこの本を読んで、自ら実証して欲しいものだ。このような「タメになる本」が500円あまりで読めることは、幸福以外にない。なお、もっとくわしく「記憶力のメカニズム」と、その実践法に触れたい方は、同池谷氏の記憶力を強くするの併読をお勧めする。
| よみがえる緑のシルクロード | 2007年04月 |
縄文塾にもご縁の深い著者から贈呈いただいた一冊だが、これがジュニア(中高生)対象の文庫とは、今の子供たちはあまりに恵まれすぎているようだ。書き方こそ子供向けに丁寧に書かれているが、実に濃い内容の好著である。
コメ化石のDNA鑑定による専門家である著者が、なぜ今砂漠の真っ直中かにあるかつてのシルクロードの終着駅」で、コメには縁の薄い、新彊ウイグル地区にある「小河墓遺跡」を中心にした視察メンバーの一員に選ばれたかだが、1997年に当時静岡大学(現総合地球環境研究所教授)助教授だった氏は、かつてのシルクロードの要衝、ウズベキスタン近郊の遺跡調査の機会を得た際に、約1500年前のこの遺跡から多量の(イネの)モミが発見されたという事情が伏線としてあったからである。 (『DNA考古学』参照)
この「小河墓(しょうこうぼ)遺跡」は、新彊ウイグル自治区の中で、という北に天山山脈、南に崑崙(ろん)山脈とチベット高原に挟まれた広大なタクラマカン砂漠にある、約4000年の墓場の遺跡である。
この小河墓遺跡視察では、コメこそ発見できなかったものの、コムギ・ウシに関わる副葬品、それに胡柳と呼ばれるポプラによる大きな墓標が数多く発見された。砂漠という環境に助けられた、生けるがごときミイラの顔立ちは、西域の人の特徴を備えており、おそらく現在の新彊ウイグル地区の先祖なのだろう。
ちなみにこの地の住民は70%がウイグル人(トルコあるいはペルシャの出自だろうといわれる)、その60%はイスラム教徒で、西洋人的なはっきりした目鼻立ちで、青い目を持った人も多い。
著者の疑問は、前著『DNA考古学』からずっと継続されたものなのだが、こうした遺跡・遺物など併せ、「果たして当時の人は、砂漠だらけのシルクロードを交易の道としたのか?」「こうした砂漠化には、気象の変化だけでなく、農業(特に農耕)がその一端を担っていたのか?」という疑問である。
著者は慎重に言葉を選びながらも、農業が荷担した可能性を取り上げ、当時はまだ緑の多い地帯であったとしているのだが、結局農業による過度の灌漑によって、天山山脈から流れる地下水脈を枯渇させ、もともと雨量の少ないこの地を砂漠化させてきた事を検証し、今後こうした環境を中心とした史学に力を注いで、積極的に研究していけば、砂漠のシルクロードは、必ずや緑のシルクロードになるだろうと結んでいる。
考えようでは、目先しか見ない大人よりも、純粋なジュニア層に大きな期待を示した1冊と言うことが出来るだろう。
| ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門 | 2007年03月 |
この本は、私のPC師匠のSさんが、自称「電脳乱雑空間」の余りの無秩序さに呆れて、かつてこの本で見事変身したという実績から、進呈して下さったものである。ごく最近でも知人に顕著な効果があったという謳い文句だったが、読後あろうことか、早速我が会社に、空き段ボールをごっそり頼んだくらいだから、どうしてどうして、実際に説得力満点の1冊である。
勿論「片付け下手の散らかし上手」では人後に落ちず、しかも「整頓は弥生の習性」と嘯き、「綺麗すぎると人が近寄らない」などとほざいて憚らなかったのだが、その実内心、これではその内に例の「ゴミ屋敷になるんでは」という強迫観念に近い思いもあったので、不眠を逆手にとって一気に読破した。
「風水整理術入門」とあるように、著者は風水を活用した建物浄化作業「スペース・クリアリング」という分野のパイオニアとして活躍し、本書は世界14カ国で翻訳され80万部というベストセラーになっているが、内容は常識的な風水書ではないし、難解な風水定位盤の代わりに、ごくわかりやすい独特の定位盤を用いて、誰でも簡単に建物や住居のあり方を示してくれる。
本書は、第1部で、ガラクタとは何かという理解から始まり、第2部では、ガラクタの見分け方、そして第3部でガラクタの処分法を伝授してくれるのだが、巧みな筆致で、ガラクタ・コレクターの弱点をグイグイと突いてくる。
たとえば第1部では、ガラクタを溜め囲まれることは人生の停滞だとして、精神だけでなく身体そのものも不要なもの(贅肉・脂肪・便秘)を溜め込んだ人が多いと指摘する。またなぜガラクタを溜め込むかという理由についても、大いに納得の出来る回答を用意してくれている。
第2部では、各部屋でのガラクタ占拠率を集計し、それを部屋数で割ると、平均ガラクタ占拠率が出るが、その数字を知れば、整理しなくてはおれなくなること請け合いである。
またガラクタの分類でも、明確な仕分けから、モノが滞る理由、特に「紙」の洪水に対する対処法を明示してくれる。いつも悩むのが、「またいつか必要になる」「この前捨てたばかりに~」などという理屈など、木っ端みじんに打ち砕いてくれる。
第3部では、いかにガラクタを整理するか、身辺がすっきりしたら、いかにハッピーになるかを知らせてくれる。その一方で、いわゆる「潔癖性」の人による、味も素っ気もない、寒々とした整頓は否定している。
加えるに日本人は、「勿体ない」という感情が強いこともあるが、結局死蔵していることの方が、勿体ないことだと悟る必要があるそうだ。
結びで著者は、ガラクタを整理することで、「身体を、心を、感情を、そして魂を綺麗にしなさいと説いている。こうした点が普通の「整頓術」の本と違うところだが、残念ながら著者の指摘の一つ一つが、ストンと腑に落ちる。こうなったら潔くその軍門に下るとして、カミさんにもこの本を大急ぎで読まさなければ~。
| 祖国とは国語 | 2007年02月 |
松浦 育郎(寄稿)
大ベストセラー「国家の品格」の著者が、それに先立つ2000年から2003年かけて書かれたエッセイを文庫化されたものである。本書 は「国語教育絶対論」「いじわるにも程がある」「満州再訪記」の3篇から成っている。
「国語教育絶対論」は、明治大学教授で「声に出した読みたい日本語」の著者齋藤孝に「ああ、この人に文部科学大臣になってもらいたい」 といわせた教育論である。著者はまず、日本の現状を危機と見る。外交上も経済上もであるが、教育の乱れがその本質ではないかと説く。ゆと り教育路線が定着してから、学力は着実に低下し続けている。ゆとり教育が解決を目指した落ちこぼれ、いじめ、不登校、学級崩壊なども一向 に減る兆しを見せない。次に述べる所論には全く同感としか言いようがない。漠然と感じていたことを顕在化させてくれた。
1.国語はすべての知的活動の基礎である。
情報伝達のため最重要なのは読む、書く、話す、聞くであるという。これができていないと思考がままならない。語彙を多くするため、漢字 を多く知らねばならない。小学生の頃の、記憶力が最高で、退屈な暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さず叩き込まなくてはなら ない。強制で一向に構わないという。このためには読書が最良の手段である。読書は教養の土台であり、教養は大局観の土台である。大局観は 長期視野と国家戦略の基本である。これが失われていることを嘆く。
2.国語は論理的思考を育てる
日本の大学生がアメリカの大学生に比べて論理的思考に弱いことについて、国語による論理的思考の習得を説く。書くことや討論を通じて物 事を主張させることの重要性を言う。筋道を立てて相手を説得させることが論理の始まりであるという。
3.国語は情緒を培う
人生のいろんな体験を通じて培われる情緒が人間を作る。直接体験だけではなく、読書を通じた経験が更に幅を広げる。日本には情緒に満ち た著作が古今を通じて多い。これらから学ぶことが必要である。特に年齢に応じた読書は重要である。
4.祖国とは国語である
本著の表題であるこの言葉は、フランスのシオランという人のものである。他民族の国では共通の言葉がアイデンティティーであり、祖国、 祖国愛であるという。
5.これからの国語
最近有名になっている「小学校における教科間の重要度は、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、後は十以下」。ルビつきでよい 、文語の語調のよさも大切である。 今分からなくても、語調として覚えておけば、いつか分かるときがくるのである。
その他、英語第二公用語無用論、犯罪的な教科書、まずは我慢力などの教育論が続く。
「いじわるにも程がある」
家族の間で発せられる「発見ノート」にまつわる話や、父新田次郎と母藤原ていの思い出、 畏友山本夏彦との交友などが軽妙な語り口で書 かれており、楽しく読める。
「満州再訪記」
著者の出生地である満州瀋陽を家族で訪問したときのドキュメントである。満州の成り立ち、当時の日本の状況などにソ連侵攻から逃避行の 記憶、父母のことなどをを混ぜ合わせて楽しくまた切実に記述してある。その逃避行を書いた母藤原ていさんの「流れる星は生きている」(中公文庫)を併せて読まれることをお勧めする。
| 国家の品格 | 2007年01月 |
著者は小説家新田次郎と藤原ていという、優れた文科系両親に持つ(理数系の)数学者だが、その血筋は争えず軽妙でしかも情緒溢れるエッ セーでも有名であり、本書も又わかりやすい筆致ながら、適切な表現でかつての日本が持っていた、しかし今失われてしまった、世界に冠たる 資質そして思想を的確に私たちに指し示してくれる。
100万部を超える大ベストセラーになったのも、むべなるかな!
著者はその経験を通じて、「論理」だけでは世界は破綻すると警告し、戦後欧米型の論理優先型社会への変貌が、日本をおかしくしてきたと 指摘する。数学から敷衍して、(たとえば風が吹いたら桶屋が儲かる式の)「長い論理」は危ういのだと謂う。この典型が(国際人になるため に)「小学生から英語を教える」という発想がそれである。
これが真実なら英米人はみんな国際人になるはずだと切って捨てる。
いま大きな問題になっている子供たちの精神的荒廃に、殺人は悪いことだと教えたり、学校にカウンセラーを置くよりも、強者が弱者をいじ めたり、大勢で少数者を襲ったりすることは、「卑怯なことだからしてはいけない」そして「ダメなものは絶対ダメだ」と教えなさいと説く。 「殺人」については、戦争で人を殺したり、凶悪人を死刑にしたり、警官が正当防衛でピストルを撃ったり、「殺人」の正当性はいくらでもあ るのに、「殺人はいけない」という論理は通用しないのだという。
そうした規範こそ「武士道」だと著者はいう。日本の武士道には「もののあわれ」という「弱者をいたわる思想」が、そして美しい情緒が内 蔵されているからである。
美しい情緒は、日本という美しい国柄(風土)が生んだもので、ここではただ咲いた桜が美しいだけではなく、そのはかない命だから散り際まで 美しいのである。
著者は、「自由と平等」とか、「民主主義は善」という発想を、偽善であり幻想でしかなく、むしろ平等よりも「惻隠の情(相手の気持ちを 推し量る、思いやる)」を持つべきだと強調する。また強者が弱いものに勝つに決まっているのに、自由競争がいいわけはないではないかと指 摘する。
実は弱者が強くなったのはヴェトナム戦争以降だが、著者は1990年頃から、アメリカで生まれ、世界中に蔓延している「悪疫」に、「ポ リティカル・コレクト」、実際は「弱者こそ正義」だという考え方があるという。弱者とは社会的=(黒人などの)マイノリティや身体的=身障 者・婦女子・老人・子供などである。こうした考え方からは真の幸福は生まれることはないという。
著者は又、「美しいところにしか天才は生まれない」として、もし万葉集ごろから、ノーベル文学賞があれば、日本では30を超える受賞者 がいただろうとして、アイルランドやイングランドに多くの天才が生まれたという事例を挙げながら、日本は、いわゆる「普通の国」を目指す ことなく、「異常な国」であり続けなさいと説く。
そして最後に戦後日本が失い続けてきた「国家の品格」を取り戻すために、幾つかの条件を挙げているが、それは読んでのお楽しみにしてお きたい。



