| インテリジェンス 武器なき戦争 | 2007年12月 |
ここで言うインテリジェンスとは、世で言う「スパイ」と同義と思っていいだろう。
手嶋 龍一はNHKの海外特派員として活躍、特にワシントン勤務中に東西冷戦の終結を迎える。
のちにその時代の問題を書いた、『たそがれゆく日米同盟』『外交敗戦』などのノンフィクション作品が認められて、ハーバード大学国際問題研究所に迎えられる。その後ドイツのボン支局長、再びワシントン支局長を経てNHKを退職、ノンフィクション・インテリジェンス小説家として脚光を浴び今日に至る。
一方佐藤 優は、ノンキャリアながら外務省切っての情報分析プロフェッショナル、特に屈指のロシア通として活躍する。ところが2002年、背任と偽計算業務問題の容疑で起訴され、現在同省を休暇中だが、この逮捕劇を「国策捜査」と断じて、『国家の罠」を上梓、一躍ベストセラーに躍り出、その後外務省のラスプーチンと呼ばれて、出版に講演に対談に多忙な日々を送っている。
この異色の二人が、インテリジェンスの神髄を語るのだから、息も継がせぬ迫力感で一気に読ますのは流石である。いわば実力伯仲の格闘家が、その持てる攻撃と防御の技を駆使して、お互いに一歩も引かぬ攻防を繰り返す様に圧倒される思いだ。
我々素人は、スパイとかインテリジェンスというと、すべて同じもののように思いこんでいるが、佐藤ラスプーチンによると、戦前のスパイ養成目的の中野学校の「秘密戦」という分類では、
1.積極的「諜報」=ポジティブ・インテリジェンス
2.「防諜」=カウンター・インテリジェンス
3.「宣伝」
4.「謀略」
の4つに分類されるのだという。佐藤ラスプーチンは、日本のカウンター・インテリジェンスはかなり高度なのだが、その他こうしたインテリジェンスに沿った仕組みや、系統だった組織、統率する機関がなく、しかもそれぞれ縦割りの弊害、必要とする上層部にスムースに届かず、しかも日本には教育機関がないため、適材が育っていないと指摘する。
特にポジティブ・インテリジェンスにしても、映画で見るようなスパイ活動でなく、必要とする事項は、新聞などに掲載される記事からだけでも、かなり多くの収穫を得られるのだと指摘する。それと当該国の重要なポジションにいる人たちと、いかに親密になれるかということが重要で、しかも彼らの発言から、いかに「言外の意味」をくみ取る能力があるかが重要なのだという。
そのためには、金額は別として、自由になる機密費が必要だというのだが、さてみみっちい日本のマスコミやそれに踊らされる国民が、それを是とするかどうか、例えば今回安倍内閣が熱望する日本版NCS構想にしても、もっとも配慮すべき問題であろう。
ワシントンとロシア(モスクワ)と、真反対に位置しながら、それぞれその存在を早くから認め合ってきたことが、この対談の各所で伺われ、お互い共通した判断を示すことに驚かされる。
とは言えすべてが納得ではなく、手嶋が佐藤の判断ミスを指摘する場面もあって、息を呑む思いがするが、佐藤はその挑戦を正面から受けて一歩も引かない。
最後に両者は、日本版NCS構想に触れるが、両者ともそうした機構構築以前に、少なくとも200名くらいの専用スタッフの充実と教育を提言する。機構が先行すれば、主導権を巡って警察庁・防衛庁、それに外務省などの綱引きが行われ、関連各省庁は、情報の提供を渋るという「縦割り構図」が避けられないと警告している。
確かにその弊害を指摘する声も多いが、特に優秀なインテリジェンス・オフィサーの選定が急務であり、佐藤ラスプーチンは、最適の人事トップ・オフィサーととして手嶋を推挙している。さて安倍首相が、この本を読んで感銘を受けていればいいのだが。
それにしても、この佐藤優そして手島龍一というポジティブ・インテリジェンス・オフィサーとして得がたい2人の人材を、日本という国がそして安倍首相が、果たして生かして使いきれるか、そこに日本とアメリカの揺るぎない連携と、北方四島問題を含む、対ロシア交渉の鍵が隠されていると思うのだがどうだろうか。
| 島国根性大陸根性半島根性 | 2007年11月 |
日・中・韓三国の比較文化の若手研究者である著者の、3国で出版した42冊目に当たる比較文化論である。韓国系3世で日本語文学を専攻した著者は、在日期間10年以上を経過している。歯に衣着せぬ表現で、本国チャイナでは、2冊の著書が出版拒否にあっている。
我々日本人は、往々にして西洋との比較を行ってきたこともあり、同三国の比較文化論は極めて貧弱である。氏は日本人特有の性情であり、社会構造だと思われ勝ちな「甘え(の構造)」(土井健郎)「縦割り社会」(中下千枝)だが、前者はコリア、後者はチャイナで顕著であると指摘する。
まず著者は、「なぜもこの三国がすれ違いを繰り返すのか」について、「非同一文化圏」であるという認識を持たなければならないと説く。それはまず日本が採集から農耕に進んだ湿潤の国であるのに、この両国は狩猟から遊牧に進んだ文化圏なのだと謂う。
我々が、遊牧民の文化として拒否してきた「宦官・纏足・抱擁という挨拶」などは、「湿潤の国にとって、いずれもふさわしい手段ではなかったから」という新しい見解を表示して驚かせる。
著者は地政学的見地から、大陸のチャイナと島国の日本との中間がコリアの位置づけだと言うことを、この国民性の面から見ても当てはまるという。例えば両国の人たちが日本に来て一様に驚くのは、川の水が綺麗だということで、濁流のチャイナと中間的なコリアをそこに見付けている。すなわち日本とチャイナを対極に置き、その中間がコリアだとする。
昔から今に至るまで、チャイナはいわゆる「中華思想」から一歩も抜けきれなかったが、コリアは小中華を自負する事大主義に取り憑かれ、日本はいち早く聖徳太子の時代に「脱チャイナ」を宣言している。
我々は「日本人は愛国心がない」と言って嘆くが、実際にはチャイナの人たちは「生まれ変わったら~」という設問に、中国人になりたくないと答えた者が(1万人あまりのアンケートで)64%もいたということが話題になった。おそらく日本人は100%近くが、また日本人に生まれたいと答えるだろうとことから見ても、愛国心は日本人が高いのだと教えてくれる。勿論コリアンはその中間と言うことになる。
たとえば「和の国・闘の国・情の国」とか、チャイニーズはなぜ痰を吐くか?とか、自然に対するそれぞれの違いとか、我々の知らない両国の姿も垣間見せてくれる。その一方で、両国を驚かせた日本の神々について、古事記に出る「屎(ふん・くそ)尿(にょう)の神」の存在で、日本では排泄物にまで神を見るという異常さに、農耕文化と遊牧文化の違いを強調する。彼らにとって糞尿は、悪口の具でしかないのだ。
最後にショートSFストーリーで、宇宙人が日・中・韓の人たちをある星に移住させる話で締めくくっている。始めはリーダーを選ぶのに全く収拾がつかない中で、妥協して(中間である)コリアンを選出するのだが、数十年経って相互の混血が進んで、次第に融和することになる。
この一種の寓話は、三国の強調には長い年月と相互の交流が必要だということ、そしてそれを実現するために、忍耐強く相互交流を図る必要があることを示唆している。
また著者は、この三国共通のシンボル・マークとして、韓国の有名な文化人李御寧(イ・オ・リョン)氏との対談から、すでに効用を失った漢方薬的「漢字圏・儒教文化圏」に代わって、「梅花文化圏」という認識を提起している。
我々日本人は、この若い親日家の優れた比較文化論を、真剣に読み解く必要がありそうだ。
| 日本を動かしてきた歴史 談合主義の功罪―「世界標準」という外圧にどう立ち向かうか | 2007年10月 |
防衛庁の談合事件から橋梁・汚水処理施設・国交省の水門施設官製談合、それに福島・和歌山・宮崎各県知事による談合3兄弟が一段落したと思ったら、マスコミの報道の過熱もなんのその、またまた名古屋地下鉄建設に最大手ゼネコンの談合疑惑が大きく浮上し、しかも高速道路建設問題にまで飛び火したようだ。
マスコミも国の関係筋も、ただ「談合は悪」と決めつける前に、「なぜかくも根強く談合が起きるのか」という根源から、見つめ直す努力を行わなければ、この問題は簡単に解決するものではないし、対応次第では。将来の禍根を残す重大事であることを同著は教えてくれる。
著者は「談合は古事記の時代から存在し、また卑弥呼も談合で選出された女王だった」のだという。八百万の神々が集まって、「天の岩戸」に隠れた天照大神をどのようにして出て貰うかを相談(談合)しているし、倭国が乱れに乱れた際、男の王では駄目だと言って女王に卑弥呼を選ぶのだ。
日本人はそうした相談事を議論(ディベート)と錯覚し、「論議を尽くした」と思いこんでいるが、これは厳しい論議・論戦を戦わす世界的風潮からはあまりに異質で、いい加減なものだといえるだろう。
(理屈で考えても)水と油である自民党と社民党が、連立政権を組む奇っ怪さ、そのために主義主張をねじ曲げても平然としている国柄の中で、「談合は悪」を云々する矛盾に気づかず、休刊日や購読料を談合で決め、他社を排除する記者クラブなど、いわば談合の産物を当然だとしているマスコミに、談合を語る資格はない。
著者はこうした日本的慣習にメスを入れ、世界に開かれた日本になるためには、もう「和を持って尊しとなす」から決別しなければならない」と説く。
たとえば、著者は「談合」体質のモデルとして、外国のスポーツ競技に見られない「物言い」とか「死に体」という判定など相撲の世界を挙げる。それでもこうした「日本の常識 世界の非常識」という社会構造下で、日本経済は世界で頂点に達することが出来た。ところがトップを目指して牽引車の役を果たしてきた官僚が、最先頭を走る中で、目標を見失ってしまっているのが現状である。
かつて世界最高のテクノクラートと呼ばれた日本の高級官僚は、今や日本の成長の足を引っ張る有害な存在に堕落したのである。「天下り」という「談合再就職システム」や「省あって国なし」という縦割りセクショナリズムからの脱却がなければ今後日本が世界中の厄介者になり果てることを著者は危惧する。
著者は「滅亡日本を防ぐ2つの手だて」として、まず談合の撲滅、それに官僚の罷免権を政府が持ち、確実に実行することだ、という。問題は談合の撲滅だが、最初は官僚の「天下り」の撤廃から入ればよいし、絶対に責任を取らない官僚を、過去に遡って罷免はおろか罪に問うというという、断固たる姿勢を示すことが喫緊の急務であろう。
付記:出来れば、筆者HP<キャッスルゲイト>より、下記拙稿『時事小論』の中の“談合は何故なくならないか?” (1~4)プラス番外編も、併せてお読み下さい。違う側面で「談合」に迫っています。
| 野鳥観察の楽しみvol.1 | 2007年10月 |
新名 俊夫 著
タニシ企画印刷 発行
本書の舞台となっている広島県東広島市は、広島市から広島大学移転・近隣に広島空港の開港と、県の大型開発は東広島を要にすえて進行されつつあるのではないかと思えるほどの発展ぶりです。それだけに、最も懸念されるのが自然破壊・自然環境の悪化。しかし、減少傾向にあるとはいえまだまだ自然豊かなこの地域の田んぼやため池には、多くの野鳥が飛来し、そこを住処として暮らしている鳥たちもたくさんいます。 新名さんは、そんな野の鳥たちをカメラのファインダーを通して粘り強く追い続けてこられ、足掛け5年間、当社タニシ企画印刷のサイトに毎月写真と文章と寄稿してくださいました。それをまとめたのが、本書「野鳥観察の楽しみvol.1」です。
本書には、野鳥たちのカラー写真と撮影時の苦労話や鳥たちの特徴・習性・人間との関わりについて触れた文章がおさめられています。現場主義の視点で書かれた文章は、素人には野生の鳥たちに関するトリビアの宝庫としてうつるでしょう。また、鳥に詳しい方にとっても「納得」の一冊となるはずです。家族でバードウォッチングでもしてみようかと考えられている方にとっては格好の手引きとなることでしょう。
当社のサイトで、新名さんの連載は現在も継続中。vol.1を発行したばかりの今言うのも気の早い話かもしれませんが、「野鳥観察の楽しみvol.2」の刊行をお手伝いさせていただける日が楽しみです。
(哉)
| ガイアの復讐 | 2007年09月 |
現 地球温暖化についてあまりに多くの人が語ってきたが、凡百の論者の言葉より、この人ジェームス・ラヴロックの言葉だから、グサリと胸に突き刺さるものがある。
「地球は1つの生命体である」というあまりに有名な彼の、衝撃的な「ガイア理論」は、1979年に『地球生命圏』として発表されるや、当時多くの専門家・学者からは非難と侮蔑の声、あるいは無視するという手厳しい態度で迎えられながら、一方魂の世界に回帰しようとするニューエイジ・ニューサイエンティストからは熱狂的に迎えられた経緯がある。
地球すなわち「ガイア」という生命圏には、空中酸素量とか海水の塩分、それに気温など、われわれの身体に置き換えると体温や血液の濃度、血圧・脈拍・酸:アルカリの比率などなど、生命を維持するための「ホメオスタシス(恒常性維持機能)」(サーモスタットに似た、正と負のフィードバックシステムとか、何気なく歩行したり、ただ立っているようでも自然にバランスを取るっている微妙なメカ二ズムとして「サイヴァネティックス(自己調整機能)」というシステムが備わっているのだという。
特に還元主義者と呼ばれる、全体像をいったん解体して、細部から探求のメスを入れ、それを再び全体に組み立てるという手法を採る学者たちや、特にダーウィンの後継者たちは、こぞってナンセンスの声を上げた。それほどラヴロックのガイア理論は衝撃的で、いままで科学通念を打ち破るものであった。
彼の「地球圏という生命体」なる突飛な?理論に対して一斉に反発したネオ・ダーゥイニストたちが、討論の相手に送ったのが「利己的な遺伝子」で有名な行動生物学者、リチャード・ドーキンスである。
ラヴロックは、彼との討論の中で、いつのまにか相反するドーキンスの(見事な話術の術中に嵌って)説に肯定する自分を見つけて愕然とし、その後一層の理論武装に取り組むことになる。
たとえば「利己的な遺伝子」によって進化したと唱える、彼らネオ・ダーゥイニストたちが、「動物の排尿」がガイア理論の利他的なシステムにどう関係するのか」と揶揄するのだが、彼ラヴロックは、「もし尿素を大切な水分やエネルギーと一緒に排泄するという無駄をせず、呼吸によって窒素として排出したとしたら、植物は一切育たなかっただろう」と反論する。
考えてみれば、多くの森に住む動物たちの排泄物もそうだし、遡上したサケなどもクマのエサになり、その排泄物や死骸もまた「利他的な遺伝子」によって森に還元するという行為を行っていることになるのだと言えるだろう。
彼はすぐれたセンサーなど精密機器の発明・製作技術者であり、現実行動派であって、膨大なデータを駆使して理論の裏付けを行う科学者でもあり、ガイア理論は緻密な理論上の裏付けを持ってきたところから、彼の仮説は、最近次第に世界的通念として定着する動きが顕著になってきている。
たとえば、かつて概念と捉えられていた「ガイア理論」は、その後彼自身コンピュータを駆使して、「デイジー(ひな菊)ワールド」というヴァーチャル・モデルをつくって、植物が太陽熱に対応する温度調整能力を証明したり、各分野の専門家の協力も得たりして、着々と強固な理論武装を遂げ、次第に世界的に認知されることになったのだが、彼のあまりに広範な理論の広がりに、多くの科学者は学際を越えることが出来ず、対応できないこともあって、グローバルな科学的コンセンサスを得るまでには至らなかった憾みがある。
昨今異常気象による天災が続発し、環境汚染が進行する中、その要因として温暖化問題が急激に論議され、防止策として京都議定書策定の遵守や発展途上国も包含した見直し論も浮上するなど、各国の思惑と利害関係が絡み合って、いたずらに時間だけを浪費している感があるところに、この1冊は痛烈な一撃を与えることになった。
例えばラヴロックは聖女マザー・テレサの発言(1988)「貧しい人々や、病める人々のために尽くすことが私たちの務めなのに、どうした地球のことを気にかけていられるでしょう。それは神のなさることです」という発言に対して、
「実を言えば、神への信仰も、現状維持への信頼も、持続可能な開発という方針すら、われわれの真のよりどころにはなってくれない。もしわれわれが地球を大切にしなければ、地球は自分の身を自分で守るために、人間を暖かく受け入れるのを間違いなくやめるだろう。信仰心に篤い人々は、地球という故郷を見つめなおし、神が創造したこの聖地を人間が汚してしまったと考えるべきだ。 (後略)」
と問い返している。
またラヴロックは、「温暖化は、ガイアの発熱である」と表現して、いまや増えすぎた人類による地球虐待の傷は、ガイアの自然治癒力を大きく上待っており、このままでは間違いなく地球は回復力を失って、5500万年前の到底人の住めない高温期に突入すると警告する。
彼はすでに化石燃料の使用は極限に達しており、あらたなエネルギー源に大きく舵を取るべきだと指摘した上で、少しでもガイアの延命を図るためにエネルギー源として、なにが適切でなにが不適切かを列記している。
ここでの詳細は避けるが、ラヴロック自身、もっとも不適切な代替エネルギー源の代表として(かなりの紙数を割いて)それは「風力発電」だと断じ、逆に大いに増やすべきものとして「原子力発電」を挙げている。原子力発電とはいささか奇異に感じに捉えられ勝ちな処方箋だが、かれは前著『地球生命圏』および『ガイアの時代』において、すでに原子力の発電利用に賛意を表して、当時多くの支持者を失った経緯がある。
京都議定書の遵守義務だが、日本は1990年に遡って、当時の二酸化炭素排出量の-6%という厳しいもので、現在当時より8~10%もオーバーしているところから、現在の数字より16%以上も削減という。不可能に近い数字になっている。
ご存じのように世界で最も省エネ化に成功した日本にとっては、とてつもなく大きな目標だが、それに近づける最大の方法は、「原発」の増設しかない。最近相次いで「プルサーマル計画」の実施が報じられているが、非常に喜ばしいことである。
天然ウランには燃えるウラン235がわずか0.7%しか存在せず、そのままでは核分裂を起こさないウラン238は、99.3%を占める。そこで燃えるウラン235を3%に高め濃縮して始めて「核分裂連鎖反応」を起こす。そこで得た高温の蒸気でタービンを回して電力を起こすのが「原子力発電所」である。
ところがこの濃縮された核燃料1gからはその1/1000gしか分裂を起こない。このままでは厖大な資源の無駄遣いになる。そこで原発で使用済みのウラン238にプルトニウムを再処理工場で混ぜ合わせたもので、そうした新しい燃料を使用しようというプランを「プルサーマル計画」と呼んでおり、こうしたプルサーマル工場は、すでに海外ではフランス・ベルギー・ドイツなどですでに100カ所以上」使用されている。
今までは使用済み核燃料をフランスに送って再加工されていたが、ようやく青森の六ヶ所村に再処理工場を建設することになった。再処理されたものがMOX(Mixed Oxide)燃料である。
日本中の設備がプルサーマル対応になれば、石油や天然ガスの消費が大いに節約され、温暖化防止にも大いに貢献できることになる。
唯一の原爆被害国である日本には、「原発」に対する強い拒否反応がある。しかし「核」の平和利用という観点に立ち、しかも温暖化防止という大きな課題を見据えた上で、建設的な論議を重ねる必要が肝要だろう。
『ガイアの復讐』は、ラヴロックの、まことに明快で説得力に富む一冊であり、もはや取り返しのつかない人の愚行に対する警告の書であり、反省の意志も行動も示さないヒトに対するガイアの手酷いしっぺ返しを示唆する予言の書でもある。
筆者は『森と人の地球史(第3章 ホモ・イノヴェーティス論)』の中で、最近「地球にやさしい~」というキャッチフレーズを、しばしば耳にする。これは人が飽くことなくエネルギーを浪費することで、汚染物質を空中や海中に撒き散らしていることの反省の意を込めての発言のようだが、まるで地球が自分の持ち物とでも言うようなスタンスはいかがなものか。
気の遠くなるような悠久の時間を費やして眠りについた化石燃料たちを、あわただしく目覚めさしている人の行為こそ、それと気付かぬままに、かつて地球を覆い尽くしていた、生命発生以前の原始的環境への回帰していることに繋がっている。
45億年という寿命のガイアにとって、人がやさしく接することも、あるいは無制限に汚染物質を撒き散らすことも、そのために人が絶滅しようがすまいが、「痛くも痒くもない」ことなのである。
と書いた。ヒトが自ら招いた環境汚染が元で死に絶えたとしても、おそらく1000年いや100年余りもしたら、何事もなかったように元通りなガイアに立ち返るのではないか。
年齢すでに80代半ばという高齢な彼の本は、特に世界の主導的国々の首脳部に、もっともっと広く読まれてほしいものである。
<既読のジェームス・ラヴロックの著籍>
◎ 地球生命圏 スワミ・ブレム・ブラブッダ訳 工作舎
◎ ガイアの時代 〃 〃
| 鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール | 2007年08月 |
現実に起こる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原因』があり、その原因は、あなたの心の中にあるのです。
つまり、あなたの心を映し出した鏡だと、思ってもらうといいと思います。(本文から)
著者野口嘉則は、1963年広島生まれ。広島大学経済学部卒。大学卒業後リクルートに入社。その後独立してメンタルマネジメントの講師となる。99年に心理コンサルティング事務所を開設。2003年に(有)コーチング・マネジメントを設立。数々の企業研修(EQ向上研修)の中で紹介した例話を元に本書を出版したものである。研修当時からこれを読んだ9割の人が泣いたといい、発行まもなくベストセラーになった。物語は実話であるが登場人物の氏名・職業などは多少変えて設定したとされている。
41歳の主婦が小学校5年生の息子が軽いいじめにあっているのを苦にしているところから話は始まる。息子はいじめではないと言い張っているが心配でたまらない。夫の先輩で経営コンサルタントで心理学にも造詣の深いという矢口(著者のこと)に相談する。そこで最初に言われたことは「誰か身近な人を責めていませんか」ということだった。一番身近といえば夫である。夫には感謝はしているが尊敬はしていないと感じた。矢口氏は更に「お父さんに対してはどうですか」と聞いてきた。更に「許せないという気持ちはありませんか」という。親として感謝はしているが好きになれなかった。
高校生の頃から他人行儀な付き合いしかしてなかったことに気づいた。次は「お父様を許せない気持ちを存分に紙に書いてください」「父に感謝できることを書いてください」「父に謝りたいことを書いてください」「形だけでもいいからお父様に感謝の言葉と謝る言葉を形だけでもいいから伝えてください」。言われたとおり父に電話して形どおりの言葉を伝えた。ここで父の反応はお意外なものだった。嗚咽して言葉にならなかったのである。自分に対する父の気持ちが、自分の息子に対する気持ちと同じではないかと気づいた。矢口氏から「優太君に有り難うを100回言ってください」といわれた。その気持ちが通じたのか息子のいじめも解決したようである。これにはいろんな考えもあるであろう。物語は終わったが何かがある。
解説で著者は「私たちの人生の現実は、私たちの心の中を映し出す鏡である」という法則が「鏡の法則」であるという。そして許すということの重要性を説く。まず自分を許し、①許せない人をリストアップする。②自分の感情を吐き出す。③行為の動機を探る。④感謝できることを書き出す。⑤言葉の力を使う。⑥誤りたいことを書き出す。⑦学んだことを書き出す。⑧「許しました」と宣言する。これで結果が出ても出なくてもよいのです。
「人生で起こるどんな問題も何か大切なことを気づかせてくれるために起こります。そしてあなたに解決できない問題は決して起きません。あなたに起きている問題は、あなたに解決する力があり、そしてその解決を通じて大切なことを学べるから起こるのです」というのが著者の結論である。いじめによる自殺の問題が大きく取り上げられている今日、この考えが何かを解決するよすがになればと思うものである。
| 帝国海軍が日本を破滅させた(上) Incompetent Japanese Imperial Navy | 2007年07月 |
不思議な本である。表題からある程度同感できると思って読んでるうちに、「同感、同感」という思いがあったのが、次第に「何で」という気になってくる。下巻になると「まだ懲りないのか」という感を深くする。著者は1927年(昭和2年)福岡生まれ、陸軍士官学校61期生(最後の入校者)、戦後大分経済専門学校卒。三井鉱山(株)、三井石油化学工業(株)に勤務、1987年退職後、戦史研究に基づく執筆活動に入る。
一貫して「陸軍悪玉、海軍善玉」史観を批判し日本敗戦の真相を追究してきた。主要著書に『帝国海軍の誤算と欺瞞(1995星雲社)』、『帝国海軍「失敗」の研究(2000芙蓉書房)』、『太平洋に消えた戦機(2003光文社)』、があり、本書はこれらに続く「帝国海軍研究」の決定版といえよう。
そもそもの基本的原因は大日本帝国憲法にある。統帥権(軍の最高指揮命令権)の独立である。これは立法・行政・司法に並立する(あるいは超越する)第4の権力である。(もう一つ問題点があった。憲法に内閣総理大臣の規定がなく、国務大臣の一人でしかなく、大臣をまとめるだけで抑えることはできなかった。意見が合わないと閣内不統一ということで内閣総辞職に追い込まれた)。
しかし、日清戦争では政・軍の調整を元老(伊藤博文・山県有朋・大山巌・井上馨・松形正義)が行い、軍も平時は陸海並列対等であったが、戦時大本営条例では参謀総長(陸)が全軍を統帥し軍令部長を指導することができた。日清戦争を何とか勝利したが三国干渉で臥薪嘗胆している中で、海軍は陸軍の下に立つことを好まず陸海並立対等を唱えた。一時は沙汰止みになったが海相山本権兵衛の強力な意向でついに成立した。
これが戦争の統一指導を阻み、海軍の担当分野への陸軍の介入を拒否した原因になっている。日露戦争が実は辛勝であったのに現象面での快勝を理由に次の仮想敵をアメリカにして戦備増強を図って、軍縮条約に反対し国家予算の多くを獲得した。このため国民的英雄東郷元帥を取り込んだのは許せない。それが戦略思想面では「艦隊決戦」「通商破壊軽視」となって表れ、更に「艦隊保全」「情報軽視」につながったと考えられる。
大東亜戦争では、当初考えられていた「速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに更に積極的措置により蒋政権の屈服を促進し独尹と提携してまず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む」とあり太平洋地域は持久正面であった。これを山本五十六は、ハワイ奇襲による開戦に切り替え、表面的な勝利は得たが山本の期待した戦意の喪失とは逆に燃え上がらせてしまった。
また、戦力転換点(彼我の戦力と兵站支援力のバランスが逆転する距離)を勝手に越えてその後始末を陸軍に要求したり(代表例がガダルカナル)、世界の海軍の常識である通商破壊戦を全く考えず相手の輸送船は航行自由、我の輸送船はほとんど沈められるという結果をどう考えればいいのだろうか。
開戦時の戦力で戦うという考え方から戦力の補充という点に考えが向いていないのも問題である。特に、パイロットは世界一の技能集団であったのに次第に消耗し、適切な補充施策がないまま戦力は一気に低下している。戦果確認も、確認機を置いた当初と異なり各自の報告のみの積み上げとなれば戦果は当然過大となる。
これを客観的に分析することなく突入した搭乗員の報告を尊重するという情緒的な処理で確認し、しかもそれを自分でも信じてしまった。しかも、これに乗っかった陸軍の少壮参謀がいる。自分たちが現地で見たものよりも海軍の意向に乗じようとして、終末作戦指導をした者たちである。瀬島、服部、辻など自分の責任を感じることなく戦後を生き延びたことは到底許しがたい。
というふうに、著者は海軍を指弾しその説得力は抜群である。ただこれで陸軍は善玉にはならない。特に政治的に動いて世界の世論に与えた影響は無視できない。しかし、先の戦争を考えてみたい方にとっては一度ご覧になったほうがよい書ではないかと思う。
| 大地の咆哮 元上海総領事が見た中国 | 2007年06月 |
上海総領事館の職員が、チャイナ公安のハニートラップに引っかかって、無念の自殺をして果てたという、ショッキングなニュースが日本中を駆けめぐった。
これに対して日本政府はどこまで強硬に抗議をしたかは別として、この国の通例として、「知らぬ存ぜぬ」の一辺倒で、忘れやすい日本人の記憶が薄れようとした時、当時の上司であった総領事杉本信行氏の本著が上梓され、あらためてこの国チャイナの内情が赤裸々にされた。
実はこの書は、氏が末期ガンで死の床にありながら、渾身の力をふるって書き残した、いわば遺書であり、理不尽なチャイナ告発の書だといえよう。氏は悪名高き「チャイナスクール」の一員だが、彼だけか、それとも少数派の一人かは別として、われわれの平板的な認識を一変させる迫力、現地に密着した地道なODA活動や、強硬な主張を行った、タフネゴシエーターとして側面も見せてくれる。
ただ予想していたハニートラップの実情は、残念ながら出てこないのだが、それを補って余りある迫力のあるチャイナの実状告発と、「正しい付き合い方」について、ともすれば居丈高になりやすい日本の現状を、やんわりとだが抑えてくれている。
たとえば、「靖国」に対するチャイナの言い分にも触れながら、といって、逆にチャイナの圧力に負けて参拝中止をすれば、国のメンツを持たない国だと上げ済まれるので、絶対に中止してはならないと説く。
ただ同時に根気強、日本の戦後平和に過ごしてきた状況とか、私案としてだが、靖国が「日本民俗独特の宗教」であることを明確した上で、他の普遍的な宗教とは全く違う、日本人のみが自動的に氏子(うじこ)になるという「排他的な自然崇拝的な宗教である」ことを、世界のメディアに明らかにしていくことを提案している。このあたり安倍さんにもだが、特に谷垣さんに読んで欲しい。
本著では、チャイナの問題点として、「環境汚染と公害・水資源の枯渇とその汚染・森林破壊と砂漠化」を取り上げ、今後ODAの打ち切りや削減を言う前に、そうした課題の解決にシフトすることの重要さを強調している。
加えて興味を持たされるのは、国交が途絶えているバチカンとの国交回復で、それが実現すれば、普及を通じて辺地の窮状を世界に発信して、この国の実状を(ただ非難するのではなく、世界の援助と、この国の上層部に明らかにしていくことが効果的だろうとしている。
命を賭しての感銘の1冊、未読の方はぜひ購読を勧めたい。
| 海馬―脳は疲れない | 2007年05月 |
2000年にこの初版本が出版されたとき、池谷裕二はまだ30歳という若さで、薬学の立場で脳の研究に取り組む気鋭(東大の薬学部助手という)の学者である。糸井重里については紹介する必要のないくらい著名なコピーライターだが、糸井の当意即妙な発言によって、うまく池谷の考えや表現を引き出されえるという形で、「脳」という不思議で難しい分野を、われわれにわかり易く説明してくれる。まさに絶妙のコンビネーションが難解なテーマを分かり易く楽しい読み物にしている。
「海馬」という脳の一器官が、記憶を司る場所だということを始めて知ったのだが、脳細胞は減る一方で増えることがないといわれてきたのに、この海馬の細胞(神経)だけは、使うことで増えるということも真剣な驚きだった。同神経回路(シナプス)は、思考を重ねる毎に増える上、「決して疲れない」のだそうな。
この「海馬」という器官は、大脳皮質の内側(脳の中心)にショックから大切に守られている、小指くらいの大きさで、タツノオトシゴの形をしているところから名付けられたもので、先に扁桃体というクルミ状の器官とセットになった左右1対で構成されている。
この「海馬」の仕事は、毎日側頭葉から送り込まれる情報を取捨選択し、必要なものを記憶として側頭葉に送り返す事だそうだ。
脳細胞が死ぬ一方だという理由は、いつまでも昔のことを覚えていると、新しい記憶との混同を避けるためで、実際にわれわれは、脳細胞の98%は使っていないのだから脳細胞が死んだと言っても何の問題はないという、嬉しいような寂しいような事実も教えてくれる。
また記憶力だが、問題はただ記憶することだけではなく、それを思い出すことの方が大切であって、われわれは記憶したものを脳のいろんな箇所に分けて保存しており、必要に応じてそれらを手際よく纏めて書いたりしゃべったりすることなのである。
各章ごとに取り纏めとしての要約があって、しかも非常にわかりやすいのが特徴で、われわれ年寄りにもうれしい部分が沢山ある。たとえば第1章「一流はおしゃべり」というもので、お喋りし過ぎていつも反省しきりだった塾長への助け舟でもある。
本書のお陰で、「眠ることは脳の整理である」とか、「記憶にも沢山の種類があり、記憶を高める方法がある」など、今まで知らなかったことを実に沢山教えられた。その中で特にうれしかったのは、「歳を取っても脳は成長する」というくだりと、「30歳の誕生日」が人生の縮図で、その時に考えたことでその後の人生が決まるようなものだ」というところである。
ちなみに塾長の場合(誕生日云々は別として)この時期に、ハイブリッドアメリカ鶏が輸入されたことであり、このハイブリッド理論がイン・プリントされ、縄文塾に結びついたのである。
また歳を取ったから物忘れがひどくなると言うのも、興味のあることや特に気になることなどはしっかり記憶するところから見ても、ウソだということが分かる。自分事で恐縮だが、塾長の場合も、昔から見てはるかに物覚えが良くなったのだが、これも「柔軟性と好奇心」をモットーにして、興味のある本を読み、話を聞いてきたせいだとわかった。
皆さんもぜひこの本を読んで、自ら実証して欲しいものだ。このような「タメになる本」が500円あまりで読めることは、幸福以外にない。なお、もっとくわしく「記憶力のメカニズム」と、その実践法に触れたい方は、同池谷氏の記憶力を強くするの併読をお勧めする。
| よみがえる緑のシルクロード | 2007年04月 |
縄文塾にもご縁の深い著者から贈呈いただいた一冊だが、これがジュニア(中高生)対象の文庫とは、今の子供たちはあまりに恵まれすぎているようだ。書き方こそ子供向けに丁寧に書かれているが、実に濃い内容の好著である。
コメ化石のDNA鑑定による専門家である著者が、なぜ今砂漠の真っ直中かにあるかつてのシルクロードの終着駅」で、コメには縁の薄い、新彊ウイグル地区にある「小河墓遺跡」を中心にした視察メンバーの一員に選ばれたかだが、1997年に当時静岡大学(現総合地球環境研究所教授)助教授だった氏は、かつてのシルクロードの要衝、ウズベキスタン近郊の遺跡調査の機会を得た際に、約1500年前のこの遺跡から多量の(イネの)モミが発見されたという事情が伏線としてあったからである。 (『DNA考古学』参照)
この「小河墓(しょうこうぼ)遺跡」は、新彊ウイグル自治区の中で、という北に天山山脈、南に崑崙(ろん)山脈とチベット高原に挟まれた広大なタクラマカン砂漠にある、約4000年の墓場の遺跡である。
この小河墓遺跡視察では、コメこそ発見できなかったものの、コムギ・ウシに関わる副葬品、それに胡柳と呼ばれるポプラによる大きな墓標が数多く発見された。砂漠という環境に助けられた、生けるがごときミイラの顔立ちは、西域の人の特徴を備えており、おそらく現在の新彊ウイグル地区の先祖なのだろう。
ちなみにこの地の住民は70%がウイグル人(トルコあるいはペルシャの出自だろうといわれる)、その60%はイスラム教徒で、西洋人的なはっきりした目鼻立ちで、青い目を持った人も多い。
著者の疑問は、前著『DNA考古学』からずっと継続されたものなのだが、こうした遺跡・遺物など併せ、「果たして当時の人は、砂漠だらけのシルクロードを交易の道としたのか?」「こうした砂漠化には、気象の変化だけでなく、農業(特に農耕)がその一端を担っていたのか?」という疑問である。
著者は慎重に言葉を選びながらも、農業が荷担した可能性を取り上げ、当時はまだ緑の多い地帯であったとしているのだが、結局農業による過度の灌漑によって、天山山脈から流れる地下水脈を枯渇させ、もともと雨量の少ないこの地を砂漠化させてきた事を検証し、今後こうした環境を中心とした史学に力を注いで、積極的に研究していけば、砂漠のシルクロードは、必ずや緑のシルクロードになるだろうと結んでいる。
考えようでは、目先しか見ない大人よりも、純粋なジュニア層に大きな期待を示した1冊と言うことが出来るだろう。



