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今月の写真 2007年06月

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ジョウカイボン 
庭に飛んで来た。

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今月の言葉(6月) 2007年06月

「梅雨前線異常あり」??

――地球温暖化の視点 

 六月といえば、梅雨の季節。地球温暖化にともなう梅雨前線の動向が気になる。カラ梅雨か長雨か―。何らかの因果関係があるのでは…、との指摘もある。が、しかし、広島地方気象台の防災資料室の話では、断定的なことは、避けている。
 ちなみに私の日記の過去五年間の六月中のお天気メモを見ると、平成十四年では、雨の日は三日。十五年では九日。十六年では八日。十七年は三日。昨年の十八年は十一日が雨の日。降雨量の多少はもちろんある。広島地方気象台防災資料では、梅雨時期の六月、七月の二ヵ月の降雨量は次のようになっている。

     平成十四年    二九七・五㍉ 
     同  十五年    六六八・〇㍉ 
     同  十六年    二八一・〇㍉
     同  十七年  四〇八七・五㍉
     同  十八年  六〇〇六・五㍉

 同資料室の話では、月によって降雨量にばらつきがあり、一概に増えているとは言い難いという。
 しかし、気象状況は不安定な傾向である。
 梅雨とは、六月上旬から七月中旬にかけて日本と中国の揚子江流域で見られる一ヵ月以上にわたる長雨の時期。オホーツク海高気圧の冷たい湿った風と小笠原高気圧の暖かい湿った風が向き合って生れる停滞前線が、その正体。前半の雨は、『しとしと』、後半は『荒梅雨』(現代俳句歳時記)と表わし、豪雨に見舞われる。
 以前、気象大異変を特集したNHKテレビで、スーパーコンピューターによる百年後の「地球シュミレーション」をしていた。それによると、地球の気温が四・二度上昇した時、東京の正月は紅葉の季節となり、四月には初夏の気候、海開きは五月…。夏の季節が二ヵ月早くなるだろうとの予測。三年前のフランスの熱波現象、モンゴル草原の砂漠化もその予兆か。
 「病めゆく地球」の『実像』にショックを受けた。改めて地球規模の温暖化対策と環境問題を、一人一人…。国境を越えて真剣に取り組むべきである。京都議定書に批准していない大国、アメリカはもとより、中国を含めた開発途上国も、利害関係を抜きにして―。
 環境こそが何よりの平和論であろう。
 さあ、地球の皆さん、梅雨前線の動向は、地球規模の視点で思考しましょうよ。

 

(風彦)

今月の言葉

雑感(6月) 2007年06月

代表取締役 田河内秀子

 今年に入って、ホームページを新しくしたせいか自費出版の受注や問い合わせが多くなっています。
 その中で多いのは、既に亡くなった身内、お父様やお母様が残された日記や書簡をまとめたいという要望です。相談しにこられる方も五十才代から八十才代の年代で、そろそろ身の回りを整理するのに、捨てるに捨てられないし、そのままおいておいても子や孫も困るだろうし、それよりも何よりも、父や母のことをきちんと形に残しておかないと心残りなのだという方たちです。
 ある方は戦争で亡くなった弟さんの書簡を本にされました。あとがきの中に『私も八十六歳になり、足腰も弱り、どこにも車椅子でしか行く事ができなくなりました。この本は○○○の供養のため作りました。あの戦争で二十一歳の若さで亡くなった弟に最後にしてやれることです。』とあります。
 又、ある方は昨年お亡くなりになられたお母様の事を本にされました。『母は折りに触れて自分の思いや旅行記をノートに書き留めておりました。全く稚拙な文章ですが、一語一句がいとおしく思え、思い切ってこの度本にまとめることにしました。母に縁のある人々に見ていただければ嬉しく思います。』とあります。本が出来上がった時には、本当に喜んでいただきました。こういう仕事に携わって本当に良かったと思える瞬間です。
 実は私にしても二十五年前に七歳で亡くなった娘が残した絵やノートを、どうしても捨てられずダンボールにまとめ押入れの上段に収めこんでいます。しかし、自分もそろそろ還暦が近づきなにもかも整理しなくてはいけない年代になりました。いつか一冊の本にまとめておいて、国会図書館に一冊、家族に一冊、自分の棺おけに一冊いれるというようにすれば、本当に心残りなくもろもろのすべてを処分できるので、いつかそうしたいなと思っています。
 弊社で作った本は、必ず国会図書館に一冊収めます。又、自費出版ネットワークにも載せていきます。書店に並べるということはあまりお勧めしていません。
 心残りを整理し、国会図書館と家族に残していく、そんな本つくりのお手伝いをこれからも続けて参りたいと思っております。

雑感

身近な野鳥 「大型シギのチュウシャクシギ」 2007年06月

野鳥観察の楽しみ(五十九)

東広島の野鳥と自然に親しむ会
環境カウンセラー(環境省登録)
新 名 俊 夫
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写真はチュウシャクシギ(‘07.5.4,安芸津)〔Nikon D100, AF-S Nikkor ED 600mm×1.4,F4D, 1/350秒-f/6.3,トリミング〕

  大形シギが18羽も群れて飛ぶ。ホイホイッ、ピイピイピイピイッと言っているように聞こえる。狭い湾になった河口をくるくると回って、近くの磯に降り立った。チュウシャクシギだ(写真)。ここ安芸津町は2007年2月から東広島市になった。

 チュウシャクシギは冬、遠くアフリカ大陸からインド、ニューギニア、オーストラリアまで移動し、夏はシベリア大陸からアラスカまで渡ると言う。日本には旅鳥として沿岸部を通過する。内陸の旧東広島市内では観察例がない。

 チュウシャクシギは大形なシギで、大きな嘴が下に湾曲している。全体的に薄い茶褐色で、頭が濃い茶色。頭部中央を縦に薄いクリーム色の線(頭央線)がある。主に蟹を食べているようで、足や爪部分を口でもいで胴部分を食べる。

 今年5月はチュウシャクシギとよく逢った。3日に柳井で、4日に安芸津、6日に地御前海岸や八幡川河口で、どこへいっても群れを観ることができた。この時、安芸津で撮影した映像がNHKの I Love ビデオで放映された。

(2007年6月2日記)

野鳥観察の楽しみ

ハイブリッド文化の精華「漢字とカナ」の融合-3 2007年06月

縄文が日本を救う! (52)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 聴覚と視覚から見た日本語

 角田忠信『日本人の脳』は、聴覚を通じて右脳と左脳というそれぞれ違った脳の働きを探ることで、世界中の人たちとは全く異なった日本人の独特な性情について、興味ある考察を行っている。氏は本来耳鼻科の学究だが、その研究過程で日本人は音の処理を、西欧人を始め、他の民族とは全く異なる音声処理を行っていることに気付く。

 たとえば、虫の声・せせらぎ・潮騒(しおざい)・雨音などを、ほとんどの民族が右脳で雑音として処理するものを、日本人は左脳でそれぞれの音や声として処理しているというのだ。しかもこの能力は、6歳くらいまで日本で過ごした人は、外人であっても取得する反面、日本人でも6歳くらいまで外国で過ごした者には、雑音としか聞き取れないのだという。

 角田は、そうした違いを生むのは、日本人の話す言葉に大きく影響されることを突き止める。日本語は全ての子音の後に必ず母音を伴う言語である。たとえば印欧語族など、子音と母音が明確に分離した言語の場合、子音は左脳、母音は右脳で処理されるところ、日本語では全て左脳で処理されるという。この差が虫の声やせせらぎ・雨音などを聞き分けの差になっていると角田は謂う。

 日本語に多い「擬態語・擬音語」は、自然の音や、音を持たない動作などを独特の音として表現するものだが、たとえば日本人は、西洋音楽は右脳で捉えるものの、それぞれ擬音として表現している琴・三味線・笛の音など邦楽は、すべて左脳で捉えていると指摘している。こうした日本に近い言葉と感性は、わずかにポリネシアの人たちくらいに見られるというのだが、角田はそれを「日本語がもっとも自然に近い発音を持つ言語だからだ」と定義する。

 約3000年前日本の地に、大陸より弥生の民が金属器と水田稲作を携えて渡来した。縄文の民は、彼ら弥生人に支配されたと言われてきたが、ならば我々は外来の言葉を話さなければ為らないはずだ。このことは、ポルトガル・スペインに征服された中南米の民が、ポルトガル・スペインの言葉を話すことを見れば明白である。

 ところが我々の先祖は、古来よりの言語を継続して使い続けてきた。この事実は、逆に弥生の民がいつしか縄文の民に吸収され同化していったことを示している。そして時代に即応して変化を続けながらも、今に至っても他国とは全く異質な、自然に同化した言語を使い続けていることがはっきりしてきた。

 ご存じのように、右脳は感性を左脳は理性を支配すると言われている。そして人は、言葉の中で、必要に応じて右脳と左脳を使い分けているのだという。角田が謂う日本人とそれ以外の民族との差異はかくも大きい。たとえば「日本人は外国語習得を最も不得意とする民族である」と言われている理由も、その原因はここにあったと見ることが出来よう。

 さて、角田の脳へのアプローチは「聴覚」であるが、一方ハイブリッド日本文字へのアプローチは当然「視覚」からということになる。日本文字の内漢字はイメージとして右脳で処理され、かな(カナ)やローマ字や外国語の場合は左脳で処理される。

 もし日本の文字がすべて仮名=かな・カナ、あるいはローマ字になった場合は、一度すべて左脳に送られた後必要な部分は再び右脳に送られてイメージとして認識されることになる。同音異語の多い日本語の場合、何度か脳内で反芻された後ようやく正しい認識となって意味が読み取れることになる。

 この「漢字と仮名」と「仮名かローマ字」という2つのケースの認識スピードを比較だが、かつて東京電気大学とNTTのグループが比較実験によって得た実証によると、この両者の間には大きな差が生じたという結論を出している。その理由として、「漢字は後頭部の視覚野で反応し、かなお(カナ)は話し言葉を聞いて理解する左脳の後言語野で認識される。漢字の場合は音声化段階を省略する分、認識が早く、仮名よりも3倍も早く認識できる」と謂う。

 印欧語族圏の人たちに比べて日本人の読書率が高いことは、こうした理由があるからかもしれない。加えて日本語優位性を挙げるならば、
1. 知能開発機能
(漢字を覚えることで知能が向上する)
2. 識字率向上機能
(仮名から始めて、すこしずつ漢字を覚えることが可能)
3. 少ない発音機能
(同音異語が多すぎる欠点はあれ、覚えやすい長所がある)
4. 造語機能
(明治維新時、無数の二字熟語を創ったように、簡単に新しい言葉を創ることが可能である。


    仮名書き論者・ローマ字論者の泣き所

 かつて、日本でも仮名論者・ローマ字論者が大手を振って横行していた時期があった。果たして彼らは、彼らの主張する仮名書きや、ローマ字書きの手紙の交換などしていたのだろうか。果たして仮名書き・ローマ字書き文章の判読が、現行の(表意+表音という)ハイブリッド文字の3倍程度で収まるだろうか。

 前述柳瀬尚紀『日本語は天才である』は、揶揄を込めて次のような文を載せている。

  <ローマ字>
──korekore,takagagagagagakuwomaunomohohoemasiisi-njanaino
──kore kore,takaga gaga gagakuwomaunomo hohoemasii si-n ja nai no

  <カタカナ>
──コレコレ、タカガガガガガクヲマウノモホホエマシイシーンジャナイノ

  <平仮名> 
──これこれ、たかがががががくをまうのもほほえましいしーんじゃないの

  <漢字+仮名文字>
──これこれ、たかが蛾が雅楽を舞うのも微笑ましいシーンじゃないの

勿論これは極端な例だとしても、漢字をイメージとして捉える日本の文字形態が、いかに判読しやすいかを示している。しかもまず、仮名50音図を習得することで、最低限の読み書きが可能であること、しかも少しずつ漢字を習得することで、高度な認識を深めることさえ出来るようになるのだ。

 たとえば西欧言語圏において、学術用語の多くはラテン語に依存している。これはかつての文明の中心であったローマの言語を共通語にしてきた名残だが、通常の人には取り憑きにくい現象を生んでいる。

 ところが日本語では、意味を漢字で表現するところから、さして知識のない者にでも理解できるし、外来語をそのままの発音で表現できるというメリットもバカに出来ない。たとえば、エイズあるいはHTVでも通用するし、「後天的免疫不全症候群」としても、中学生程度の知識で理解できるのだ。

 

縄文が日本を救う!

大地の咆哮 元上海総領事が見た中国 2007年06月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
杉本 信行 著  PHP研究所  1,785円

 上海総領事館の職員が、チャイナ公安のハニートラップに引っかかって、無念の自殺をして果てたという、ショッキングなニュースが日本中を駆けめぐった。

 これに対して日本政府はどこまで強硬に抗議をしたかは別として、この国の通例として、「知らぬ存ぜぬ」の一辺倒で、忘れやすい日本人の記憶が薄れようとした時、当時の上司であった総領事杉本信行氏の本著が上梓され、あらためてこの国チャイナの内情が赤裸々にされた。

 実はこの書は、氏が末期ガンで死の床にありながら、渾身の力をふるって書き残した、いわば遺書であり、理不尽なチャイナ告発の書だといえよう。氏は悪名高き「チャイナスクール」の一員だが、彼だけか、それとも少数派の一人かは別として、われわれの平板的な認識を一変させる迫力、現地に密着した地道なODA活動や、強硬な主張を行った、タフネゴシエーターとして側面も見せてくれる。

 ただ予想していたハニートラップの実情は、残念ながら出てこないのだが、それを補って余りある迫力のあるチャイナの実状告発と、「正しい付き合い方」について、ともすれば居丈高になりやすい日本の現状を、やんわりとだが抑えてくれている。

 たとえば、「靖国」に対するチャイナの言い分にも触れながら、といって、逆にチャイナの圧力に負けて参拝中止をすれば、国のメンツを持たない国だと上げ済まれるので、絶対に中止してはならないと説く。

ただ同時に根気強、日本の戦後平和に過ごしてきた状況とか、私案としてだが、靖国が「日本民俗独特の宗教」であることを明確した上で、他の普遍的な宗教とは全く違う、日本人のみが自動的に氏子(うじこ)になるという「排他的な自然崇拝的な宗教である」ことを、世界のメディアに明らかにしていくことを提案している。このあたり安倍さんにもだが、特に谷垣さんに読んで欲しい。
 
 本著では、チャイナの問題点として、「環境汚染と公害・水資源の枯渇とその汚染・森林破壊と砂漠化」を取り上げ、今後ODAの打ち切りや削減を言う前に、そうした課題の解決にシフトすることの重要さを強調している。

 加えて興味を持たされるのは、国交が途絶えているバチカンとの国交回復で、それが実現すれば、普及を通じて辺地の窮状を世界に発信して、この国の実状を(ただ非難するのではなく、世界の援助と、この国の上層部に明らかにしていくことが効果的だろうとしている。

 命を賭しての感銘の1冊、未読の方はぜひ購読を勧めたい。

感銘の一冊

図書準備室 2007年06月

田中慎弥 著
新潮社 発行

 本書には中篇が2作収められている。
 表題にもなっている『図書準備室』は、三十歳を過ぎてもなお今まで一度も働いたことのない青年が、自分の心境を語るという形の小説。法事で会った伯母に、自分がなぜ働こうとしないのかを話し始めるのだが、主人公の話す内容は意外な方向に進んでいく。
 もう一つの『冷たい水の羊』は、同級生たちから過酷ないじめを受けている中学生の少年の心の動きを表現した作品。後半は、いじめられている少年だけではなく、いじめている側の少年・いじめを傍観している者の立場にも立ち、複数の視点からそれぞれの心理を描写している。いじめのシーンの描写は具体的で、そこだけとばして読んでしまいたくなるほど強烈だが、この具体的な描写によって主人公の少年の独特に醒めた心理が、より強調される。
 本書を読んで、一般的に「弱者」と決め付けられてしまう立場の人間にも言い分があり、それは表層的な解釈では捉えきれないほど膨大な心的エネルギーを持っているのだと、あらためて考えさせられた。 

(哉)

今月の気になる本

主人公は僕だった 2007年06月

【監督】マーク・フォースター
【主演】ウィル・フェレル、エマ・トンプソン、ダスティン・ホフマン

 映画の主人公には時々何者かの‘声’が聞こえる。「それを作れば彼はやってくる」という声を聞いて野球場を作った主人公のように。この映画の主人公ハロルドに聞こえてきた声は、彼を主人公にした小説の作者のものだった。その声は悲劇的な結末を暗示。職場と自宅を往復するだけの毎日を送っていたハロルドはハッピーエンドを求めて行動し始める。文学部の教授の助けを借りながら遂に作者と対面した彼が渡された草稿のラストは?
 最期の予告が聞こえなくても、人は皆いつか死んでしまう。その事実を受け入れて初めて人は意思を持って生きていくことを始めるのかもしれない。愛すること、許すこと、そして誰かのために手を差し伸べ心を開くこと…いつかは無くなる自分の命のために大切だと思うことが出来るように、そっと耳を澄まして声を探してみる。たぶんそれは神のものではない。もっと近しい声、もしかしたら自分自身の、声。

(nao)

キネマ見ましょか

[不定期連載] ひろしまくっちゃね隊―12 カツ丼 2007年06月

朝から気分が乗らない、

嫌なことが続く、

そんな日は酒でも飲んでストレス発散したいところだ。

しかし仕事があるから昼間からは酒は飲めない。

でもテンションは上げたい、

そんな時は

カツ丼

しかないでしょう。

カツと飯を口の中にグシグシ押し込めば元気になること間違いない。

という訳でカツ丼を食いに行く。

場所は観音本町一丁目、川添にあるレンガタイルの三回建ての一階にある喫茶店。

喫茶店でカツ丼と笑うなかれ、ここのカツ丼はありなんですよ、あり。

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純粋に美味いのだ。

下手な蕎麦屋や丼ぶりもの屋みたいに揚げ置きを卵とじで温めるだけでない、

きちんと揚げたてカリッとして

噛むと肉汁がジュワっと口に広がる。

当たり前のことだがきちんと出来てる。

厚みも1.5㌢くらいで、衣のカリッと感が生きてる。

バランスがいいのだ。

普通は野菜は玉葱だけだが、この店は青葱とエノキも入っている。

何だかそれもいい感じなのだ。

葱の風味とエノキの食感がありなのだ。

熱々を口いつぱいにほうばり、グシグシ喉に押し込めば、これが快感に変わりテンションも、

どがーん

と上がってくるってもんだ。

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切り分けられカツに沿って喰うほどに、喜びのパラメータが上昇するのがわかる。

カツ丼の食い方も人それぞれ美学があるが、僕としては丼ぶりを抱えて一気に、そしてカツの切れ目に合わせて美しく?食べるのが好きだ。

仕上げは最後のカツの一切れに残った飯と汁をかき集め、愛おしみながらゆっくり味わうのだ。

久しぶりのカツ丼でテンションが上がったので、きっと午後は頑張れるはずだ。

まあ、ダメなら夜に飲みに行けば、いいだけの話しだ。

広島くっちゃね隊

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