« 2007年08月 | 2007年09月 | 2007年10月 »

今月の写真 2007年09月

  0708013%E3%83%9E%E3%83%A1%E3%82%B3%E3%82%AC%E3%83%8D%20194ts.jpg
マメコガネ
猛暑の中、雌(下)はヤマノイモの葉を食べながら。(07.08.13墓所で撮影)

フォトギャラリー

今月の言葉(9月) 2007年09月

われ未だ木鶏たりえず

――三十五代横綱・双葉山定次 

 この言葉を知っている人は、もうほとんどいないだろう。かくいう私は、少年時代に父親に教えられたし、のちに書物で読んだ記憶がある。双葉山といえば、戦前、大相撲では不世出の名横綱。不敗を誇り、七十連勝を目前に安芸海に破れ、当時角界のみならず、センセーショナルな社会事件であった。
 昭和十四年春場所四日目、安芸海の外掛けに崩れ落ちた一番だった。当時、小学二年の私にもラジオ実況放送の熱狂的な叫び、私の周辺の大人も子供も欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した興奮ぶりは、今でも遠い記憶のなかに残っている。安芸海は、前頭三枚目、新進気鋭の力士。広島出身だけに広島の相撲ファンは、安芸海への身びいきは当然だった。現在の六場所制とちがい、二場所制。春場所は一月。相撲への関心は、国をあげての人気。まさに伝統ある『国技』であり、『文化』であった。
 冒頭の言葉は、双葉山が親交のあった安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏宛て電文。
 安岡正篤氏は、東洋政治哲学者、人間学の権威で、昭和天皇の終戦の詔(玉音放送)の草案に加筆、戦後の歴代宰相の師でもあり、平成の年号の発案者としても知られる。
 当時、安岡氏は、欧州旅行中の船の中で双葉山からの無線電信を受けたという。
「ワレイマダモッケイタリエズ フタバヤマ」
 双葉山は、常日ごろ、安岡正篤から中国の故事「木鶏」の話を聞き、相撲は単なる勝ち負けではなく、心を鍛錬、天にいたる道であると自ら人格形成に励んでいた。が、安芸海に不覚をとったことから、まだ修行のたりないことを自戒したという。
 ところで「木鶏」とは、荘子の達生に出てくる話。簡略すると中国の王が、闘鶏を養う名人に強い闘鶏を求めた故事によるもので、強さを表に出さない最強の闘鶏のことである。
 さて、九月は大相撲秋場所がはじまる。が、横綱・朝青竜は、例の巡業拒否、モンゴル帰国事件の処分で、今場所、九州場所と謹慎、減俸処分問題でいまだに論議があとを絶たない。嘆かわしい話である。
 わが国の相撲は古代より神への奉納の儀式から発展。日本文化の「国技」である。横綱の綱は、神と人間を結ぶ絆。綱を締める力士は、最高の名誉ある地位。今回の問題は、相撲協会を含め「国技の品格」「横綱の品格」が問われることだ。

(風彦)

今月の言葉

雑感(9月) 2007年09月

代表取締役 田河内秀子

  先日テレビで「蝉しぐれ」を見た。二〇〇五年秋の日本映画。藤沢周平の長編時代劇小説の映画化で、市川染五郎が主役「文四郎」、木村佳乃が結ばれぬ恋の相手幼馴染の「ふく」。久々に心に染みるいい映画だった。いかにも日本らしい風景の中での抑制の効いた台詞、市川染五郎の歌舞伎役者らしいしっかりした立ち居振舞い、木村佳乃の立ち姿の美しさ。品の良さ、品格のある人物とはこういう事だと腑に落ちた。
 最近「品格」という言葉をよく耳にする。古くは藤原正彦氏の「国家の品格」、テレビドラマの「ハケンの品格」、坂東眞理子氏の「女性の品格」。
 「品格」を「漢字林」で調べると、「品」は口が3つでとりどりの個性をもつものの意。「格」は至る、正すの意。万物に宿っているとりどりの個性が正しい姿であることを言うのだろうか? 国語学者ではないので、はっきりとはわからない。
 かつてはあったのに今の日本には欠けていると、多くの人たちが思っているから、この言葉が市民権を得ているのだろう。
 現代のように言いたいことを言い、やりたいことをやり、自分の思うとおりに生きるのもそれはそれでひとつの生き方だが、その前提に人さまのことを思いやることの大切さをわかった上でやらないと、ただのわがままとしか見てもらえない。顰蹙を買うだけだ。下品ともいう。
 禅寺の玄関には「脚下照顧」という言葉がかけてあるそうだ。履物がきちんと脱げているかが修行の第一歩であり、人の事を考え、後のことを考えて行動する基本が履物を揃えることだそうだ。これがきちんとどこでも出来るようになれば他の事はおのずと出来るようになる。実に簡単なことだ。これだけで子供が良い子に育つならやらない手はない。品格ある人間になる為の第一歩として、大人も毎日の生活の中に取り入れたいものだ。

雑感

身近な野鳥 「渡り始めたコチドリ」 2007年09月

野鳥観察の楽しみ(六十)

東広島の野鳥と自然に親しむ会
環境カウンセラー(環境省登録)
新 名 俊 夫
040406%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%89%E3%83%AA%E6%88%90%E9%B3%A507%EF%BD%94%EF%BD%93.jpg 0708015%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%89%E3%83%AA%E5%B9%BC%E9%B3%A5%20096t%EF%BD%93.jpg

 
写真は上、コチドリ成鳥(‘04.4.6,八本松町原)〔Nikon D100, AF,VR,Nikkor ED80-400mm, 1/800秒-f/6.3,トリミング〕。下、コチドリ幼鳥(‘07.8.6,八本松町原)〔Nikon D100, AF,VR,Nikkor ED80-400mm, 1/500秒-f/8,+0.7EVトリミング〕。

  今年の夏は猛暑が続いている。しかし、暦の上では8月8日が立秋。こんなに暑くても旅鳥は渡りを始めるのだろうかと心配だった。ところがこの日、西条町の田んぼの溝で、クサシギを1羽見つけた。そして、それは3日後に姿を消した。

 お盆の14日にはコチドリ6羽をクサシギのいた近くで見つけた。成鳥が1羽、幼鳥が5羽。16日までこの1団を確認したが、18日にはいなかった。が、同じ水田にタカブシギを1羽確認。鳥たちは確実に渡りを始めている。

  コチドリはムクドリよりやや小さく、体形はやや扁平にみえ、幅が広い。頭や背中が褐色で田んぼの色にとけ込み見つけにくい。目の回りの金色(アイリングと言う)がはっきりしていて、他のチドリ類と区別し易い。

 しかし、幼鳥はアイリングがはっきりせず、胸の帯が切れているものもいて、シロチドリと似ている。しかし、額部分も褐色、足は黄色をしているので区別できる。コチドリは集団でいるにも係わらず、採餌中、他の個体が近づき過ぎるとピッピッと言って追い払う。

 

(2007年8月20日記)

野鳥観察の楽しみ

文明法則史学800年周期説と日本(2) 2007年09月

縄文が日本を救う! (55)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 前号でDNAの持つ4つの塩基に対比して、幼・青・壮・老を挙げた。ここらをもう少し深く見てみよう。

 幼・青・壮・老や四季という4つの数字概念の根源は、「易学」の陰陽説に見ることが出来る。まず「陽陽・陽陰・陰陽・陰陰」という四象であり、四方位(東西南北)=四聖獣(青竜・朱雀・白虎・玄亀)、および四季(青春・朱夏・白秋・玄冬)である。

 西洋的一神教世界では、陽と陰とは相否定する関係となるが、東洋的・多神教的精神世界では、むしろ相互補完的存在となる。たとえば東西交代説にしても、東の循環型・交代型思想に対して、テーゼに対するアンチテーゼという、二元論に立脚した直線的指向である。たとえばそれは、スパイラル軌道を取りながら、終局に向かって突き進むという、終末思想が彼らを支配するのだ。

 昨今『ダヴィンチ・コード』とか、反キリスト誕生とか、黙示録それに悪魔などを題材にした映画の多さを見れば、彼らの精神構造が那辺を凝視しているか、明確に見て取れるだろう。彼らにとって、たとえばそれが終末に限りなく近づいているとしても、決してキリスト教以外の世界を容認することは出来ないのだ。これはユダヤ教にしろ、イスラム教にしろ同根だと謂わねばならない。

 たとえば、このユダヤ・キリスト・イスラムという一神教の世界では、中庸とか妥協という一種曖昧な発想を嫌悪し且つ排除するのだが、ここに、かつては地方宗教であったこれらの一神教が、いつしかグローバルに拡散した結果、おのずと到着せざるを得なかった
矛盾や自己撞着に喘いでいるのが、今の姿だと言えるだろう。

 安田喜憲『蛇と十字架』は、西洋史観が近代科学の枠組みから脱却できず行き詰まりを示している状況を指摘して、世界中で顕在化してきた「文明の衝突」や、行き場のない精神の袋小路の突破口として、次のように「アニミズム・ルネッサンス」を提唱する。


 私たちは今、あらゆる宗教の出発点であるアニミズムの大切さを思い起こす時なのではないだろうか。われわれを取りまく動物や植物、あるいは山や川にいたるまで魂がある。それらを尊敬し畏敬の念を持ってつきあっていく。そこに自然とともに共存する思想の原点がある。
アニミズムはヨーロッパのキリスト教世界では手垢によごれた誤解に満ちた言葉である。(中略)
 自然と人間が共存可能な、そしてあらゆる民族とあらゆる宗教が共存可能な世界の実現に向けて、日本人が縄文時代以来一万年以上にわたって持ち続けてきたアニミズムの精神の果たす役割は、今後ますます見直されるに違いない。

 また比較宗教学者町田宗鳳は、広範且つ柔軟な宗教的知識を縦横に駆使して語る、新著『人類は「宗教」に勝てるか』の中で、


このへんで「権力的な集中的統率力」をもつ文明の形態を転換しないことには、人類社会の行き詰まりは目に見えている。そこには近代文明の軸足となっている一神教的コスモロジーから多神教的コスモロジーへの移行がどうしても不可欠となる。


のだと謂う。

 さて本題に戻って村山史学による、西の文明から東の文明への交代期が現在(いま)だとして、「ではその東において、新しい時代の文明を担うのはどこか?」という大きな命題に行き当たる。確かに、今まで東方盟主の役割は、すべてチャイナが担ってきた。ではこの度の交代期にも、チャイナがその役割を果たすのかというと、どうもそうすんなりとはいきそうにないのが現状である。

 残念ながら今の日本では、こうした視点に立つ指導者はゼロに等しい。といって日本とチャイナ以外に、盟主という役割を担える国は見あたらない。といって「今の共産党独裁というチャイナにその資格有りや」と言えば、頭をかしげざるを得ない現状が見てとれる。

 とすると、誰でも納得で来る公平な視点で、否応なく巡ってくるであろう東の時代に、「盟主として、日本あるいはチャイナのいずれがふさわしいか」という採点をするしかないであろう。

 そこでまず比較という論点で見てみよう。ここでは長くなるので、電子書籍・論文集HP 『キャッスルゲイト』の、時事小論より<比較という視座・論座の欠けた日本人> (1~3)
 http://joumontn.com/jiji_syouron/13.html

を参照願いたい。ここには幾つも両国の有り様を比較・列記している。現状を見る限り、今のチャイナには、盟主国に不可欠な、「おおらかさ・度量・慈愛」の欠如に加えて、「文化・文明・各術・科学」などに対して、すべて独裁的一党政治が優先し、敬意を払うという気持ちのかけらもない事に気付くだろう。

 もっとも日本という国柄が、果たして世界の盟主としてふさわしいかとなると、現時点ではすんなり肯定出来ない点も多く、幾つも疑問点が挙げられる。ただ今後転換・交代期における混乱が収まった時点で、前述の比較という視座、消去法という論点で語るならば、消極的ながら日本を置いて有資格者はいないであろう。いずれにしろ自らの置かれた立場を深く認識し、積極的にその任にふさわしい実力を身につけていく必要がある。

 金文学は、新著『日中比較優劣論』の中で、「日・中・韓という東アジアの国は内紛(内訌)を超克つして行くべきだと強調する。違う国同士でありながら、内紛(内訌)という指摘の裏に、日本一国でこの重責を担うことの困難さを踏まえ、ちょうど西欧のECのごとく、その協調を説いているかのようである。氏はその困難性を認めながらも、日本の忍耐強い自己主張を説いている。

 もし日本がこの村山文明史学を信じ、自らその地位にふさわしい言動を行っていけば、必ずやその実力が大きくクローズアップされるだろうことを心から信じたい。

  もし日本がこの村山文明史学を信じ、自らその地位にふさわしい言動を行っていけば、必ずやその実力が大きくクローズアップされるだろうことを心から信じたい。

 なお、その成果を体感できる時間を持たないのが心残りであり残念でもある。

縄文が日本を救う!

ガイアの復讐 2007年09月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
ジェームズ ラブロック 著   秋元 勇巳 訳      中央公論新社  1,680円

 現 地球温暖化についてあまりに多くの人が語ってきたが、凡百の論者の言葉より、この人ジェームス・ラヴロックの言葉だから、グサリと胸に突き刺さるものがある。

 「地球は1つの生命体である」というあまりに有名な彼の、衝撃的な「ガイア理論」は、1979年に『地球生命圏』として発表されるや、当時多くの専門家・学者からは非難と侮蔑の声、あるいは無視するという手厳しい態度で迎えられながら、一方魂の世界に回帰しようとするニューエイジ・ニューサイエンティストからは熱狂的に迎えられた経緯がある。

 地球すなわち「ガイア」という生命圏には、空中酸素量とか海水の塩分、それに気温など、われわれの身体に置き換えると体温や血液の濃度、血圧・脈拍・酸:アルカリの比率などなど、生命を維持するための「ホメオスタシス(恒常性維持機能)」(サーモスタットに似た、正と負のフィードバックシステムとか、何気なく歩行したり、ただ立っているようでも自然にバランスを取るっている微妙なメカ二ズムとして「サイヴァネティックス(自己調整機能)」というシステムが備わっているのだという。

 特に還元主義者と呼ばれる、全体像をいったん解体して、細部から探求のメスを入れ、それを再び全体に組み立てるという手法を採る学者たちや、特にダーウィンの後継者たちは、こぞってナンセンスの声を上げた。それほどラヴロックのガイア理論は衝撃的で、いままで科学通念を打ち破るものであった。

 彼の「地球圏という生命体」なる突飛な?理論に対して一斉に反発したネオ・ダーゥイニストたちが、討論の相手に送ったのが「利己的な遺伝子」で有名な行動生物学者、リチャード・ドーキンスである。

 ラヴロックは、彼との討論の中で、いつのまにか相反するドーキンスの(見事な話術の術中に嵌って)説に肯定する自分を見つけて愕然とし、その後一層の理論武装に取り組むことになる。

 たとえば「利己的な遺伝子」によって進化したと唱える、彼らネオ・ダーゥイニストたちが、「動物の排尿」がガイア理論の利他的なシステムにどう関係するのか」と揶揄するのだが、彼ラヴロックは、「もし尿素を大切な水分やエネルギーと一緒に排泄するという無駄をせず、呼吸によって窒素として排出したとしたら、植物は一切育たなかっただろう」と反論する。

 考えてみれば、多くの森に住む動物たちの排泄物もそうだし、遡上したサケなどもクマのエサになり、その排泄物や死骸もまた「利他的な遺伝子」によって森に還元するという行為を行っていることになるのだと言えるだろう。

 彼はすぐれたセンサーなど精密機器の発明・製作技術者であり、現実行動派であって、膨大なデータを駆使して理論の裏付けを行う科学者でもあり、ガイア理論は緻密な理論上の裏付けを持ってきたところから、彼の仮説は、最近次第に世界的通念として定着する動きが顕著になってきている。

 たとえば、かつて概念と捉えられていた「ガイア理論」は、その後彼自身コンピュータを駆使して、「デイジー(ひな菊)ワールド」というヴァーチャル・モデルをつくって、植物が太陽熱に対応する温度調整能力を証明したり、各分野の専門家の協力も得たりして、着々と強固な理論武装を遂げ、次第に世界的に認知されることになったのだが、彼のあまりに広範な理論の広がりに、多くの科学者は学際を越えることが出来ず、対応できないこともあって、グローバルな科学的コンセンサスを得るまでには至らなかった憾みがある。

 昨今異常気象による天災が続発し、環境汚染が進行する中、その要因として温暖化問題が急激に論議され、防止策として京都議定書策定の遵守や発展途上国も包含した見直し論も浮上するなど、各国の思惑と利害関係が絡み合って、いたずらに時間だけを浪費している感があるところに、この1冊は痛烈な一撃を与えることになった。

 例えばラヴロックは聖女マザー・テレサの発言(1988)「貧しい人々や、病める人々のために尽くすことが私たちの務めなのに、どうした地球のことを気にかけていられるでしょう。それは神のなさることです」という発言に対して、

 「実を言えば、神への信仰も、現状維持への信頼も、持続可能な開発という方針すら、われわれの真のよりどころにはなってくれない。もしわれわれが地球を大切にしなければ、地球は自分の身を自分で守るために、人間を暖かく受け入れるのを間違いなくやめるだろう。信仰心に篤い人々は、地球という故郷を見つめなおし、神が創造したこの聖地を人間が汚してしまったと考えるべきだ。  (後略)」

と問い返している。

 またラヴロックは、「温暖化は、ガイアの発熱である」と表現して、いまや増えすぎた人類による地球虐待の傷は、ガイアの自然治癒力を大きく上待っており、このままでは間違いなく地球は回復力を失って、5500万年前の到底人の住めない高温期に突入すると警告する。

 彼はすでに化石燃料の使用は極限に達しており、あらたなエネルギー源に大きく舵を取るべきだと指摘した上で、少しでもガイアの延命を図るためにエネルギー源として、なにが適切でなにが不適切かを列記している。

 ここでの詳細は避けるが、ラヴロック自身、もっとも不適切な代替エネルギー源の代表として(かなりの紙数を割いて)それは「風力発電」だと断じ、逆に大いに増やすべきものとして「原子力発電」を挙げている。原子力発電とはいささか奇異に感じに捉えられ勝ちな処方箋だが、かれは前著『地球生命圏』および『ガイアの時代』において、すでに原子力の発電利用に賛意を表して、当時多くの支持者を失った経緯がある。

 京都議定書の遵守義務だが、日本は1990年に遡って、当時の二酸化炭素排出量の-6%という厳しいもので、現在当時より8~10%もオーバーしているところから、現在の数字より16%以上も削減という。不可能に近い数字になっている。

 ご存じのように世界で最も省エネ化に成功した日本にとっては、とてつもなく大きな目標だが、それに近づける最大の方法は、「原発」の増設しかない。最近相次いで「プルサーマル計画」の実施が報じられているが、非常に喜ばしいことである。

 天然ウランには燃えるウラン235がわずか0.7%しか存在せず、そのままでは核分裂を起こさないウラン238は、99.3%を占める。そこで燃えるウラン235を3%に高め濃縮して始めて「核分裂連鎖反応」を起こす。そこで得た高温の蒸気でタービンを回して電力を起こすのが「原子力発電所」である。

 ところがこの濃縮された核燃料1gからはその1/1000gしか分裂を起こない。このままでは厖大な資源の無駄遣いになる。そこで原発で使用済みのウラン238にプルトニウムを再処理工場で混ぜ合わせたもので、そうした新しい燃料を使用しようというプランを「プルサーマル計画」と呼んでおり、こうしたプルサーマル工場は、すでに海外ではフランス・ベルギー・ドイツなどですでに100カ所以上」使用されている。

 今までは使用済み核燃料をフランスに送って再加工されていたが、ようやく青森の六ヶ所村に再処理工場を建設することになった。再処理されたものがMOX(Mixed Oxide)燃料である。
日本中の設備がプルサーマル対応になれば、石油や天然ガスの消費が大いに節約され、温暖化防止にも大いに貢献できることになる。

 唯一の原爆被害国である日本には、「原発」に対する強い拒否反応がある。しかし「核」の平和利用という観点に立ち、しかも温暖化防止という大きな課題を見据えた上で、建設的な論議を重ねる必要が肝要だろう。

 『ガイアの復讐』は、ラヴロックの、まことに明快で説得力に富む一冊であり、もはや取り返しのつかない人の愚行に対する警告の書であり、反省の意志も行動も示さないヒトに対するガイアの手酷いしっぺ返しを示唆する予言の書でもある。

 筆者は『森と人の地球史(第3章 ホモ・イノヴェーティス論)』の中で、最近「地球にやさしい~」というキャッチフレーズを、しばしば耳にする。これは人が飽くことなくエネルギーを浪費することで、汚染物質を空中や海中に撒き散らしていることの反省の意を込めての発言のようだが、まるで地球が自分の持ち物とでも言うようなスタンスはいかがなものか。

 気の遠くなるような悠久の時間を費やして眠りについた化石燃料たちを、あわただしく目覚めさしている人の行為こそ、それと気付かぬままに、かつて地球を覆い尽くしていた、生命発生以前の原始的環境への回帰していることに繋がっている。

 45億年という寿命のガイアにとって、人がやさしく接することも、あるいは無制限に汚染物質を撒き散らすことも、そのために人が絶滅しようがすまいが、「痛くも痒くもない」ことなのである。

 と書いた。ヒトが自ら招いた環境汚染が元で死に絶えたとしても、おそらく1000年いや100年余りもしたら、何事もなかったように元通りなガイアに立ち返るのではないか。

 年齢すでに80代半ばという高齢な彼の本は、特に世界の主導的国々の首脳部に、もっともっと広く読まれてほしいものである。

        <既読のジェームス・ラヴロックの著籍>
 ◎ 地球生命圏  スワミ・ブレム・ブラブッダ訳    工作舎
 ◎ ガイアの時代        〃               〃

 

 

感銘の一冊

オトナの片思い 2007年09月

石田衣良、他 著
角川春樹事務所 発行

 タイトルが良い。本書は短編を集めたアンソロジーですが、この「オトナの片思い」という題名が、本書の中で最もよく出来た作品じゃないかと思います。学校の先生が見たら、即座に、〔大人の片思いと子供の片思いの違いを200字以内で述べよ〕という設問が浮かんでくるかもしれません。
 書店に平積みしてある本書を手にとった人は、表紙をじっと見つめながら考えるにちがいありません。『あの時の私の片思いは…』思わず携帯を取り出して、彼の電話番号を表示させてみようとするけれども、残念、ない。それは、あの日あの時、覚悟を決めて消去のボタンを押してしまったのだから。
 日本の人口は127,767,994人(国勢調査 平成17年10月1日)、世界の人口は2007年7月現在の推計で66億人。地球上で、これだけの人が、この瞬間にも、だれかに片思いをしてそれが満たされず切ない思いをしている(赤ちゃんだって、欲しいときにおっぱいがないことだってあるでしょ)、地球ってなんていとおしい星なんでしょう。そんなせつない星「地球」だからこそ生れた本だと思います。 

(哉)

今月の気になる本

天然コケッコー 2007年09月

【監督】山下 敦弘
【主演】夏帆、岡田 将生、佐藤 浩一

  こんにちは。筆者のnaoです。実は私の勤務先は学校です。そのため映画やテレビで学校の場面を見る時に細かいところに目が向きます。作り物っぽいと思うものもあれば、こういうやり方もあるなと役に立つこともあります。
 この映画は小・中学校合わせて生徒が7人の超小規模校の中学生が主人公です。市内の学校にいると想像も出来ない環境ですが、学校の造りや生徒の言動がさりげなく自然で気持ちよく見ることができました。
 中学生の頃は今思えば何でもないことが大事件でした。喜ぶことにも傷つくことにも敏感で、胸の振り子は毎日大きく揺れていました。時が経っても変わらないそんな10代の気持ちも、"今どきの若者"の姿も誇張することなく描いてある作品です。見ながら何度も思いました。こんな学校で働いてみたい!

(nao)

キネマ見ましょか

[不定期連載] ひろしまくっちゃね隊―14 カツ丼 2007年09月

最近、15年ぶりにトンカツ、しかもカツ丼にはまりかけてる。

先日も南観音で食べたのだがイマイチだった。

リベンジをかねて、美味いカツ丼を求めて友人の職場へ乗り込み拉致ってアルパークへ向かった。

アルパークの東館の南側にその店はある。

学生時代から通い数えて、はや14年になるのだが一度もカツ丼を食べた事がないのだ。

個人的な感想だが広島で1番好きなトンカツ屋さんだ(注意・1番美味いではない)、しかし一度も無いのだ。

店内に入り、友人の意向は軽く無視してカウンターへ座る。

……、

   あれ~?、

        ………、

あ、そうだった。

一年ぶりに来店して思い出したがこの店にはカツ丼は無いのだ。

カツ重なのだ。

これでは当初の目的に反するので特選ロースカツを頼む。

しかし、なんと、特選ロースカツは売切れていた。

カツ重を頼んだ。

これはこれで初めてだししかたない。

一口カツを頼もうとする友人に写真を撮るためにシレッと普通のロースカツを奨める。

もちろんロースカツはめちゃめちゃ美味いんだけどね。

しばらくして友人には熱々のロースカツ、僕にはカツ重が来た。

 

0709%E3%82%AB%E3%83%8401.jpg
0709%E3%82%AB%E3%83%8402.jpg

カツ重にも豚汁と漬物が付いていて安心した。

初めてのロースカツ重、その見た目は素晴らしく美しかった(注・携帯の画像に美しさは求めないように)

 

0709%E3%82%AB%E3%83%8403.jpg

中央付近に乗った半熟らしき目玉状態の玉子は満月の様に心を揺らす。

先ずは玉子は崩さない様にカツを一切れさらう、な、なんと厚みが厚い。

これまた好むと外れるが口に熱々を入れる。

あれ~?美味いではないか。

すかさず付近の米を咥内に押し込む。

うーん軽く火傷を感じながらも美味いんでしかたないな。

続いて、玉子を崩す。

0709%E3%82%AB%E3%83%8404.jpg

 

うーんすげえ興奮するのは何故だろう、とろみのある黄身がカツをぬらりと包んでいく。

熱々のをまた口にほうり込むとまた粘膜に纏わり付きながら次の快感が押し寄せる。

先ほどは濃いめに感じたダシの味も黄身と混ざり、肉汁が加わるとヤバいくらい美味いわ、これ。

確かに丼と違って抱え込む重みと温もりには欠けるがこれはこれで旨い。

豚汁を啜りながら、また飯をほうばれば幸せは変わらない事に気付く。

いつもは芥子たっぷり付けて食べるロースカツも、確かにいいがカツ丼、いやカツ重も美味いんだな。

友人とクチクチになった腹をさすりながら店を出ながら思う。

これだけ長い事来ていながら、まだ串カツも食べた事ないんだよな~。

次回はどうしようかな?

広島くっちゃね隊

« 2007年08月 | 2007年09月 | 2007年10月 »