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今月の写真 2008年01月

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キチョウ
昨年はいつまでも暑く、キチョウが飛び交っていた。(07.10.25東広島市高屋町)

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今月の言葉(1月) 2008年01月

福寿草の如く

――風彦 

 新しい年の初めの格言は「一年の計は元旦にあり」。むかしからの『定番』である。
 その年、一年の計画、準備は一月一日の朝整えておくべきである。何事にも計画、準備が大事である、という教訓。家庭、学校でも説き、聞かされた。
 ことわざ辞典によると「一日の計は、あしたにあり、一年の計は春にあり、一生の計は、勤むるにあり、一家の計は、身にあり」(月令広義)にある。解釈するまでもあるまい。読めば理解できるはなし。とくに注釈するならば、あしたは、明日ではなく、朝。
 時代の流れでこの言葉を暗誦する人もいないだろう。季節感の『旬』もなくなり、家族も『核家族』化した世の中。そんななかで、「福寿草」の鉢植えをみつけた。
 黄色い花、蕾をつけた福寿草は、おたがいに寄り添うようにしているではないか。
 むかしは、山野に自生していたが、日本では秩父の山地にみるぐらいだそうだ。
 植物図鑑で調べてわかったが、福寿草は、キンポウゲ科の多年草でアジア北部に分布、日本の山地にも自生。縁起のよい名称として花の少ない時期に咲くのが珍重され、正月用の花として栽培されている。地上茎は二十センチ、葉は羽状複葉。早春、葉に先立って黄色の美花を開く。元日草ともいう。
 私が魅せられたのは、黄色い花、蕾がまるで家族のように寄り添っていることだった。
 核家族化のすすむなか、正月になると生れ故郷に戻り、仲むつまじく一時を過ごす「家族愛」を感じるからである。
 私は年賀状に南天の小枝をペンにして駄句を添えて書く。(南天は、難を転じて福とする縁起がある)
 ―寄り添いて命はぐくむ福寿草―
 私とおなじ福寿草に思いを寄せる俳人がいた。歳時記をひもとき、思わず膝をうった。
 ―福寿草家族の如くかたまれり―福田蓼汀
 まさしく合点だ、と。
 森澄雄の―福寿草なれば豊かや静心―もよいが、保坂仲秋の句も気に入った。
 ―地に低く幸せありと福寿草―
 花には花それぞれの生き方がある。桜は桜、梅は梅…。福寿草の、あの黄色が心に残る。
 「色彩心理学入門」(大山正 著 中公新書)や「まんがでわかる色のおもしろさ」(サイエンス・アイ新書)によると黄色は、『夢』・『幸福』・『希望』を表現するそうだ。ちなみに福寿草の花言葉は「幸福」・「思い出」―。
 新しい年のスタートにあたり、この一年が「幸福」であるように願いたい。

(風彦)

今月の言葉

雑感(1月) 2008年01月

代表取締役 田河内秀子

 あけましておめでとうございます。
九連休の長いお正月休みをゆっくり過ごされた方、休まずお仕事をされた方、さまざまでしょうね。ご家族が集まってにぎやかなお正月ができたでしょか?
 私の子どもの頃のお正月の過ごし方は、本家や分家という言い方の残っていた時代でしたので、いなかの本家に親戚中の大人も子どもも集まってお餅つきをし、久しぶりに会ったいとこ達とカルタなどして遊んだものでした。暖かい日の当たる縁側が遊び場でした。
 年に二回冬休みと夏休みに大勢のいとこ達と久しぶりに遊ぶのは本当に楽しみでした。
 今はその大きなかやぶきのいなかの家も普通の家に建て代わり、いとこ達と会う事はめったになくなりましたが・・・。
 そして結婚すると、今度は自分や夫の実家に子ども連れで集まり、にぎやかにお正月を迎えたものです。それも母親が元気でお節料理を準備していた頃は当たり前のように思っていたお正月の過ごし方が、母親がお節料理を作れなくなり、市販のお重が並び、子ども達も独立しそれぞれのお正月を過ごすようになると、だんだんとお正月だからと特別に集まるという意識が薄らいできました。今どきは元日からデパートもスーパーも開いていて。数の子や黒豆も年がら年中店頭にあるのですから。
 今考えると、お正月だけ食べられるお餅とお節料理本当に有り難いものです。食を中心に家族が集まってきたのだとも思えます。現在はそんな道具立てがないのですから、知恵を絞って家族が集まる場面を作らないと、お正月が子ども達にとって懐かしい思い出になって残るということはなくなるのではと思いました。
 さて、我が家のお正月はと言えば、どうなったでしょうか?

雑感

身近な野鳥 「内陸部にハマシギ」 2008年01月

野鳥観察の楽しみ(六十四)

東広島の野鳥と自然に親しむ会
環境カウンセラー(環境省登録)
新 名 俊 夫
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写真はハマシギ(‘07.10.19,18時38分,八本松町)〔Nikon D100, Nikkor ED600mm×1.4, F/5.6S,1/125秒-f/6.3,トリミング〕。

内陸部にハマシギが訪れることは珍しい。シギ・チドリの観察者K氏によると、この11年間で今回が3度目だそうだ。その上、もしかしてサルハマシギかも知れないとの連絡を受け、急いで駆けつけた。

見ると、ハマシギ2羽が今期3度目になるウズラシギ2羽と一緒に、先を争うように、一心に餌を啄ばんでいる。ウズラシギと同様に忙しく歩き回り、頭を絶えず動かしているので、なかなか写真に納まらない。

ハマシギの冬羽は上面が灰褐色に見え、下面は白い。胸は白く、薄い灰褐色の縦斑がある。目の上の白い眉斑がめだつ。黒くてやや長い嘴は少し下方に曲がったように見える。足が黒いので、黄色の足のイソシギと区別できる。

この秋はジシギをはじめシギ・チドリの種類も数も少ない。夏は猛暑が続き、いつまでも残暑が厳しく、秋の訪れが遅かった。これも地球温暖化と関係しているらしい。このたびのハマシギやウズラシギの訪問が気象変動と関係していないことを祈っている。

 

 

 

(2007年10月20日記)

野鳥観察の楽しみ

「ジョーモニズム」とはなにか 2008年01月

縄文が日本を救う! (58)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

 いままで縄文に関わる思いを、たとえば『乱世の縄文』『縄文が日本を救う!』というように、すべて「縄文」という大きな括りで表現してきた。これはあまりにあいまいな表現であり、逆に考えれば「縄文」にとって重荷であったとも謂える。

 今まですでに私の諸文を読まれた方は、おそらく至極明確に、あるいは漠然としながらも、意とするところを汲み取って下さってきたものと思うが、時事あるいは政局に関する発言などから、矛盾を感じさせたり、また誤解を与えたりした可能性も否定できない。

 加え新しい読者も対象にして、あらたに私の思想の根底にある「縄文観」を指し示すために、「ジョーモニズム」という造語によって定義付けすることで、より深い理解を頂くための一助としたい。では「ジョーモニズム」とは一体何か。ごく簡略に述べてみたい。

1. 日本という風土が生んだ思想・生命観、それに性状

 アジアモンスーン地帯という湿潤な気象に、峻険な山脈が連なって南北に細長く延び、外部から攻めるにも、逆に外部に侵攻するには遠く、なんとか諸文化の吸収は可能という絶妙な立地であって、四季を持つ気候、大きくて幾つもの天災にさらされ、1万4000年の長きに亘って採集と漁猟を生業として平和に過ごしてきたことから、生まれた穏やかながら芯の強い、独特の思想や生命観を保持して、稀有の文化を今に継続さて来た。すなわち日本の風土は、狩猟という生活様式を主体とすることを拒んだことから、世界的に稀有な採集文化を確立した民族だった。

2.森が育んだ「縄文の匠の技」

 豊かな森の恵みは、早くから縄文の民を定住させ、大きな余裕を、余暇生んだ。縄文の民は、余暇に手仕事を発達させていくが、その最大の成果が「土器の文化」である。世界に例を見ない素晴らしい土器こそ、森にはする縄文の「モノづくり=匠の技」だといえるだろう。

 縄文の匠の技は、その後弥生との邂逅で益々洗煉され、大陸の文化と接する度に、「師の国を超える技」にしていった。西洋のモノづくりが戦争によって陶冶されたのに反して、日本においては、縄文以来の平和に根指したモノづくりに特徴がある。

 日本は幾度も存亡の危機に見舞われていた。曰く明治維新・大東亜戦争の敗戦、それにバブルの崩壊…、その都度いかにしてそうした危機を乗り越えて、不死鳥のごとく甦ってきたのか?それはすべてによってであることを心に銘記すべきである。

3.モノに霊性を、生命を見た!

 日本のモノは、決して物質ではない。そこには精神的な要素を包含した命あるモノがある。たとえば同じ「商」にしても、かつて縄文時代より連綿と、「霊を持った物=マナ」という意識がある。「霊を持ったモノ」を贈り、貰った者がそれに匹敵するモノをお返しするという崇高な習慣が、他に類のない「進物文化」となって連綿と続いているのだ。

 こうした特異な歴史の中で生まれた「ジョーモニズム」のバックボーンは、穏やかな多神教であり、敵すらも死すれば神として祀るほど、常に相手をおもんばかる「性善説」なのである。

 <参考文献:『縄文からアイヌへ』町田宗鳳(せりか書房)

4.弥生との邂逅と融合
    ──ハイブリッド日本人を誕生

 世紀前8世紀、チャイナより弥生の民がボートピープルとして渡来した。彼らは主として採集から進化した農耕(水田稲作)と漁撈の民だったので、容易に混血を果たし、遅まきの「農業革命」を経験し、わずかの期間に最果ての青森の地まで稲作を普及させる。

 縄文=創造の資質と、弥生=継続・改良の資質のドッキングによって生まれたのがハイブリッド日本人ということになる。

 我々が弥生から継承したのは、その根底に日本という風土に根付いた「コメ文化」である。それはいつしか社会全般の底辺に拡大され、何時しか「縦割り・横並び・談合・経験優先・農業暦に基づくディジタル発想であり、個より集団であり、出る釘は打ち、他者は排除する」という、陋習を形成していくのである。これをヤヨイズムと呼ぶことにした。

 こうした「コメ文化=ムラ意識」は、平時では大きな力を発揮するが、賞味期限・耐用年数が過ぎると次第に硬直化し、内部から崩壊していくが、(それと気付かぬまま)守旧派が旧来の陋習に固執し、結局外圧によって解体されるという経緯を辿ってきた。
                 (次回につづく)

 

縄文が日本を救う!

主語を抹殺した男/評伝三上章 2008年01月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
金谷 武洋著  講談社  1,785円

 本著の帯紙には、表紙側に大きく、
『日本語に主語はいらない』とあり、小さく「日本語文法を/英語の呪縛から解き放った/天才日本語学者/初の本格評伝」とある。

 またその裏側には、
 日本語は非論理的な言語ではない。文法が英語と違うだけだ。日本語の文法構造を初めて合理的に解明した三上文法。その先駆性ゆえに長らく不遇を託っていた『街の語学者』の生涯を、カナダ在住の日本が学者が敬愛を込めて描く。

 と書かれている。考えようでは、これで全て言い尽くしている感がある。以下この帯書きを脳裏に入れて読んでほしい。

 著者は東大教養学部でフランス文学を学び、国際ロータリークラブの奨学生としてカナダ・ケベック市のラヴァル大学に留学するが、数多くの外国語クラスを渡り歩く内に、次第にランス文学よりも「言語学」の魅力に取り憑かれていく。

 その内に日本語の講座を受け持つことになるのだが、そこで(印欧語族と呼ばれる)フランス語や英語などと、日本語の間に横たわる大きな氷山に遭遇して頭を抱える。なにしろ理論武装として欠かせない日本国語教育の指針や指導要綱などがまるで通用しないのだ。

 外国語と日本語を、相互置き換えるという場合、当然直訳ではなく意訳するという作業が必要になる。著者が最初に突き当たった壁は、たとえば「ジュ・テーム」 とか「アイ・ラヴ・ユー」という言葉を日本語に置き換えようとすると、「私はあなたを愛します」としたら、文章なら悪文そのものになるし、第一日本人が愛を囁くとき、誰もそんな野暮くさい言葉など決して使わないではないか。

 多くの事例を通じて、まさに氷山に突き進むタイタニック号乗組員の心境で困り抜いていた著者に、日本の友人から送ってくれたのが、三上章の、『現代語法序説』と、『象は鼻が長い』という変わった題名の本であった。ここで著者は、初めて「日本語には主語はいらない」という画期的な理論に出会って、その疑問は一挙に氷解し、目からウロコを何枚も落とした彼は、たちまち三上章理論と、それを書いた三上章個人に傾倒することになる。

 その後モントリオール大学に移った著者は、修士論文にこの「日本語主語不要説」を選ぶことになるが、その時の指導教授から、「(主語不要という)日本語の構文は、西洋の(ギリシャ語・ローマ語など)古典語に似ている」と指摘され、日本の国語文法学者が指標としてきた現在の英語・仏語などの文法概念が、決して普遍性を持たないことを知る。こうした経緯を経て、ますます三上章に傾倒していった著者は、どうしても彼の生涯を追ってみようと決意することになった。その成果が本著である。
 
 三上章は、1903年高田郡(現在の安芸高田市)甲立村で生まれで、没年は1971年、すでに死後36年が経過している。三上は和算研究の数学者であった叔父三上義夫の薦めに従い、京都三高の理科甲類からの建築学科に進む。ちなみに三高時代の同級生に今西錦司、1級下に桑原武夫がおり、その後も長く交流を続けていた。

 北海道出身でしかもカナダ在住の著者から、図らずも広島県出身の偉大な学者の存在を知らされることになった次第だが、ただ三上章が広島に住んだ期間はごく短く、広島市の修道中学で数学の教鞭を取ったも、ごくわずかの期間に過ぎない。

 東大卒業後は幾つか屈折を経たあと数学教師の道を歩み、その後は一貫して数学教師を続けながら、天職とも言うべき日本語文法の道を進んだ変わり種で、生涯「街の語法研究家」という立場で過ごした。その間幾多発表した論文も、結局偏狭な日本の国語学会において認められることはなく、さりとて反論もされず黙殺・無視され続けるいう不遇な生涯を送くることになる。

 著者が2003年から3回に亘って帰国し調査した「三上章の生涯」は、この一冊に圧縮され集約されているが、「評論」と謳ってはいるものの、さすがに言語学者、三上に対する敬愛の念が書かせた優れたノンフィクション作品の趣があり、近づきにくい文法という題材を扱いながら、平易な表現で一気に読ませてくれる。

 三上は一生結婚しなかったが、彼の研究は妹茂子の献身的な存在の支えがなければ決して成功しなかっただろう。それほど妹茂子の存在は大きかった。 著者は執筆に当たって、茂子の驚異的な記憶力と文献の保存などに大いに助けられたとして、本書を三上茂子に捧げている。
 
 また著者は、三上の生き様を幾人かの有名人と重ね合わせているのだが、その一人が国学の先駆者、僧契沖であり、もう一人はロンドン留学で神経を病んだ夏目漱石である。

 晩年67歳の時請われて勇躍ハーヴァード大学に行くのだが、なぜか妹茂子が同行していない。もともと病弱の上、一切家事の出来ない晩年の三上にとって、慣れない外国での生活、到着時からすでに悲惨なものであった。結局心身共に疲れ果てた三上は、わずか2週間の滞在で自ら「敗北宣言」して帰国する。彼が亡くなるわずか1年前のことである。

 著者によると、世界の日本語熱はすこぶる高く、(2002年の段階で)海外127ヶ国・地域での学習者は、実に235万6745人に上るという。これにテレビやインターネットでの学習者を加えると、それこそ膨大な人数に上るのだが、そうした人たちに対する日本語教材として、いまだに適切とは言えない教材と教師に多く依存しているという問題がある。

 本著は三上章の優れた評伝であると同時に、「学閥や古い理論に凝り固まって新しい才能の台頭を許さぬ、日本の既成学界に対する痛烈な批判」と、「ここらで硬直した文法呪縛を解き放ち、三上文法に依拠した『主語不要日本語文法』普及が急務」であることを、われわれに、また日本語指導に行き詰まっている教師たちに指し示してくれる。 



 <付 記>

 三上章と叔父義夫とは、それぞれ海外で認められ、死後国内でも評価され、その著書がロングセールを続けるという因縁的共通点を持っている。考えようでは(文字通り)「以て瞑すべし」とも言えるが、ただ叔父三上義夫の「そろばん碑」は広島市に建立されたものの、三上章の顕彰碑はまだない。

 ちなみに著者が住むモントリオール市は、1998年に広島市と姉妹都市縁組を締結しているが、その際通訳として立ち会った縁もあるところから、最近始まったメール交換の中で、著者より中村に、「三上章顕彰碑の実現に一臂の助力」の依頼があったことをお伝えしたい。    

 

感銘の一冊

ワインバーグの文章読本 自然石構築法 2008年01月

ジェラルド・M・ワインバーグ 著
伊豆原弓 訳 株式会社翔泳社発行

 人の話を聞いたり、様々な物を見たりして浮かんだアイデアを自然に転がっている「石」に見立て、文章を書くということを自然石を使って「石垣」を組むことに例えて語る文章作成の指南書。少しばかり皮肉っぽい文章がおもしろいです。
 自分の書きたいものだけを書きなさいという本書の主張は、どちらかというと会社の中で作成する固い文書にはなじまないかもしれませんが、方法論としては使えるでしょう。手元にいつもメモできるツールを用意して、見つけた「石」を書きとめ、こんな「石垣」にしようという目的(構想)に添った「石」を選んで「積み」あげていく。とりあえず使えそうにない石は、いつか使うときのためにストックしておきなさいとのこと。この「石」には色々な種類があり、「時間」という石もあると著者は言います。細切れの時間をいかに有効に使って石垣を組んでいくかという問題です。
 ポイントは、石を集めること。自分の気持ちに合った石を見い出し、組んだ石垣は、自然と個性的になると、著者は言います。私もさっそくペンとメモ帳を携帯するようになりました。

(哉)

今月の気になる本

転々-てんてん- 2008年01月

【監督】三木 聡
【主演】オダギリ ジョー、三浦 友和

 中年と青年の二人の男性が街を散歩。それだけでもどこか不思議なのに、その二人は借金の取立て屋とそのターゲット、しかも取立て屋は奥さんを殺した、なんて云っている。変わったことばかり起こる道行きの末、二人が落ち着いた先は他人同士で作られた「家族」でした。
 この映画を見て「家族」の定義は実は難しい、と思いました。両親に捨てられて何年も泣く事を忘れていた青年は、架空の家族との団欒を楽しみ、別れに涙を流します。彼にとって本当の家族はどちらなのだろう。CMに登場するどう見ても血の繋がりのなさそうな家族のように、割引がきくのが家族なのでしょうか。携帯料金だけでなく悲しみとか憎しみとか。映画の二人のように散歩をすれば、重苦しくなく「家族」について考えることが出来るかもしれません。(nao)

(nao)

キネマ見ましょか

[不定期連載] ひろしまくっちゃね隊―18 穴子丼 2008年01月

珍しく市内中心部での仕事があり、気付けば2時過ぎになった。
遅い昼ご飯を食べに八丁堀を歩く。

うどんかラーメンにしようか、それともカレー?
なんて悩みながら歩くと、精肉と洋食の『ますい』の前に出た。
普段ならこのまま『ますい』に入るところだ。

が、なぜか記憶の風が吹き、8年ぶりに『ますい』の隣にある定食屋に入った。


汚れた手書きのメニューの貼り紙だらけの店内。

うーん、やっぱり余り変わってない。


女の子と来るのはちょっと気が引ける味のある店だが、僕には実に落ち着く店内だ。

2時なのでさすがに客は少ないが、カウンターには相変わらず魚料理が並ぶ。
秋刀魚の塩焼き、ハマチの照り焼き、鮭や鯖など焼き魚もあれば南蛮漬け、煮魚、フライ。
さらに頼めば刺身などが定食として自由に選べるのだ。

初めて来た時を思い出し、恐る恐る穴子丼がまだできるか聞いてみる。

以前と変わらぬ気軽さ店主は 穴子丼できるよ、と言って作り始める。
そう、穴子好きの僕は、店の前に張り出されたメニューに書かれた穴子に惹かれてこの店に入ったのだ。

待ってる間、久しぶりに店内を眺める。
夜は居酒屋兼任になるので、海鮮の一品料理のメニューが並んでいる。
そして焼酎の瓶もところ狭しと並んでいる。

いつか夜に来ようと思ってきてないな~。

 

と思ってるうちに汁物が出る。

 ハマグリとワカメの吸い物かな?


「もうすぐ焼けるけんね~、漬け物も好きなだけ食べんちゃい」 

店主の言葉に甘え、白菜の漬け物を遠慮なくバリバリ食う。


そして、

さらに美味そうな匂いと共に穴子丼も登場。

  

うーん、たんまり乗っちゃってマジ嬉しいです。

 

丼ぶりを抱えて掻き込みたい衝動を抑えて、先ずは穴子を一切れ食べる。


うん、旨い。


タレの付け焼きではなく、カリッと焼いてからタレを絡めたみたい。
これはこれで焼き魚らしさに溢れ、サクサク、ふわふわ感が出ていい感じです。
タレは少し甘めだが日本酒が効いてアッサリ感があう感じ。

たまらず嬉しくなり、丼ぶりを抱えて一気に掻き込む。
咥内いっぱい、喉から胃袋にグイグイ押し込む。


うーん、快感。 
 

やっぱり美味いわ、丼ぶりはこれが堪りません。

穴子好きなんで、煮穴子、天ぷらも好きだし、上品なタレ焼きも好きだが
これはこれで穴子らしさを楽しめるし、値段の割りには旨いし、ボリューム満点だ。

久しぶりに来たけど、満足ですわ。
今度は夜に来よう、これから寒さがきつくなると魚がさらに旨くなる。
やっぱし日本人は魚食って、酒を呑まんとね。

 

広島くっちゃね隊

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