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今月の写真 2008年09月

 
「オオキベリアオゴミムシ」
胸も上翅も金属光沢をしていて、赤紫~緑色に輝く。アマガエルを食べるという。体長21mm(08.7.28撮影)

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今月の言葉(9月) 2008年09月

「年寄りは、年寄りの誇りを持とう」

―私の「戒老録」― 

            ―風彦 

 お年寄りをいたわる―。先祖を敬い、亡くなった人々を偲ぶ―。これは人類の美徳である。日本では、そのために九月には「国民の祝日」がある。十五日の「敬老の日」であり、二十三日の「秋分の日」。しかし、最近の風潮ではその精神が薄れているようだ。
 ある公演の席で、こんな話を聞いた。八十になるおばあさんが、スイミングスクールに通い始めた。それを知った嫁さんが、理由をたずねた。おばあさんは、『三途の川』を渡るための泳ぎの練習だと答えた。するとその嫁さんは、コーチに言ったそうだ。
「おばあさんには、ターンすることだけは教えないで欲しい」―。会場の笑いを誘った。たぶんにブラック・ユーモアだろうと察したが、「軽老」の風潮を知らされた思いだった。以前、作家・曾野綾子さんの「戒老録」を読んだことを思い出した。
「人は生きる限り、肉親に頼らず、身だしなみに気をつけ、一生涯努める。心を救うものは自ら以外にない」と説いていた。その彼女も、最近はご主人の作家、三浦朱門を悩ませる鬱だそうだ。私は、決して一人では生きていくことは出来ないと悟った。核家族化と高齢化がすすむ中で、これからの日本社会は?と考えると暗い気持ちになる。さりとて現役社会から退いた昭和一桁生まれの「後期高齢者」。自問自答の結論は―。
 「敬老精神」におもねるのではなく、自立精神の気概をもち、社会生活での共生の中で、年寄りとしての「誇り」を持つこと。あの昭和の激動期を生き抜いてきた「誇り」である。
 閉じこもり老人にならず、「社会の風」にふれて生きる。若者から慕われ、愛される。そして、若者が憧れる老人になれば、先祖を敬う気風も芽生る。社会も変わる。これが私の「戒老録」である。

(風彦) 

今月の言葉

雑感(9月) 2008年09月

代表取締役 田河内秀子

 秋です。いい季節になりました。今年の夏は殊のほか暑かったですね。
 いろいろと話題を振りまいた北京オリンピックも終わりました。平泳ぎ二連覇の北島康介は貫禄ありましたね。体格にして劣る日本人を含め東洋人が頑張っている姿を見ると、努力の素晴らしさを実感します。しかし、特に水泳競技の決勝に並ぶ国々を見ると経済格差もはっきりわかります。先進国として経済的に裕福で平和な国ばかりです。中国もこのオリンピックを機に先進国として益々経済成長を遂げ、国内の矛盾を解決していくに違いありません。平和への近道は貧困の撲滅と言いますが、世界中のあらゆる国で貧困がなくなり、鍛えぬかれた男女が、このオリンピックで存分に競技できるようになってはじめて平和の祭典と言えるのかも知れません。このオリンピック、一八九六年のアテネ大会が第一回、今回は第二十九回で百十二 年続いていますが、もう百年後のオリンピックでは  平和の祭典 が実現できているでしょうか?
 さて我が社は第二十六期に突入。個人営業の時期が七年ありますので、創業からいうと三十三年です。企業の寿命は三十年という説がありますので、寿命はクリアできたところで第二創業期といったところですがこれからは百年を目指して頑張ろうと思っています。百年というと六十七年後、私を始め今いる社員はもう全員いません。その時どんな会社になっているでしょうか? 社名は同じでしょうか? 印刷機は回っているでしょうか? どんな商品をどんなお客様に提供しているでしょうか?そもそも会社が存続しているでしょうか? 
 夫が始めた事業を引き継いで、次世代に渡し、又次の世代にと、長~い目で将来を見ようとすると、創業の精神、ミッション、ビジョン、経営理念、企業文化、社風、それらを支える堅固な財務基盤が必要です。今期はもう一度創業の精神に立ち返り、ミッション・ビジョンを明確にし、経営理念を社員全員で練り上げ、財務基盤を堅固にしていく、そんな期にしていきたいと願っています。

雑感

身近な野鳥 「干潟のキアシシギ」 2008年09月

野鳥観察の楽しみ(七十二)

東広島の野鳥と自然に親しむ会
環境カウンセラー(環境省登録)
新 名 俊 夫
    
写真はキアシシギ('07.8.26、安芸津町)〔Nikon D100、 Nikkor ED600mm×1.4、F/5.6S,1/320秒、f/9、+0.3EV〕
     

 内陸部ではめったに観ることができないキアシシギが安芸津の高野川河口に拡がる干潟では、渡りの時期、普通に見られる。仲間といることが多く、8月27日の観察時には4羽の群れで、幼鳥も混じっていた。

 他に、ソリハシシギ2羽、シロチドリ9羽、イソシギ2羽、トウネン幼鳥2羽を確認した。近くにウミネコが67羽、水浴びをしたり休んだりしていた。この時期、大沢田池からは姿を消しているカワウが2羽しきりに餌を捕っていた。

 キアシシギはソリハシシギよりやや大きく、シロチドリやイソシギよりかなり大きく見える。真っ直ぐに長い嘴、頭から体の上面は灰褐色、顔から首にかけては白地に灰褐色の縦斑、胸から脇は横斑、白い眉斑、腹と下尾筒は白い。名前のとおり足の色が黄色。

 満潮時には他の鳥たちと一緒に牡蠣いかだの上で休み、干潟が現れると、主に蟹を捕っている。じっとしていて、蟹が巣穴から出てくるのを見つけ、素早く駆け寄って捕まえる。穴に逃げ込まれても、嘴を差し込んで捕食する。

 

(2007年8月29日記)

 

野鳥観察の楽しみ

“バック・トゥ・ザ・トクガワ” ・・・ 今こそ「温故知新」だ ・・・ 2008年09月

縄文が日本を救う! (66)

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾
 

★徳川時代再認識が始まった!

 前回(サブタイトル)『グロ-バリズムといかに対決するか』の後半で、「目標を失った今」として、次のように書いた。


 ところが今大きな問題となっていることは、「気がつけば日本が世界の先頭を走っていた」という事実であって、今までのように「追いつき追い越せ」という手法が通用しないことがはっきりしてきた。
 (中略)。
 同時に、「過去に捨て去ったものの中に、再評価すべきものがあまりに多くはなかったか」しかも「良いと信じて導入したものの中に、むしろ排除すべきものはなかったか」という反省がある。 (後略)

 同文中、列記してきたように、かつて日本は常に新しい文化・文明を吸収・咀嚼し、一定の消化・熟成期間を経て、換骨奪胎して新日本ハイブリッド文化としてきた。

 ところが明治維新というかつてない巨大な国難に直面したとき、早急且つ貪欲に新文明を受け入れなければ国家存続に関わるという危機意識に捉らわれたのである。いわゆる「疾風怒濤時代」であった。


★2つの超弩級「国難」

 国の首脳・中枢要員を含むによる一大デリゲーション(遣欧使)を組織して、1年有余という長期に亘って欧米列強への訪問・視察という破天荒で貪欲な新文明吸収という壮挙を成し遂げるのである。

 その結果、無血で技術革命を自家薬籠中のものにすると共に、明治革命の主役であった武家階級まで(秩禄革命によって)切捨て、富国強兵を旗幟に掲げて瞬く間に世界の大舞台に躍り出た。

 かくして大正・昭和と拡大の一途を辿り、結局大東亜戦争(太平洋戦争)に一敗地に塗(まみ)れてしまう。

 その後の経緯は省略するが、想像を絶する苦労の末、お家芸の「モノづくり」によって奇跡的な復興を遂げ再び繁栄の途を歩むことになるが、ここでもまた新しい文明吸収に努めることで、さらなる繁栄を勝ち取ってきた。

 かくの如く日本は、常に「追いつき追い越すための目標」を必要としてきた歴史を繰り返してきたのだが、ここに来ていわば一種のバーンアウト(燃え尽き症候群)を発症したと言えるだろう。

 現在の日本の混迷と不安、自信や目的達成意欲喪失などは、ここに由来するといっても言い過ぎではないだろう。

 ここで明治以来日本の採ってきた来し方を振り返ってみよう。

1. まず明治維新=王政復古という革命の達成には、どうしてもそれ以前の「徳川時代」というパラダイムを打破する必要があった。
2. その後吸収すべきものの余りの多さとグローバルな時代趨勢の中で、過去を振り返る余裕などとても持てなかった。
3. 戦後マルキシズムの汚染で、江戸時代を「暗黒時代」として糾弾する風潮が高くなった。
4. 技術革新のめまぐるしい進歩の中で、「追いつき追い越せ」という思想があたかも「国是」のような合い言葉になっていった。

 そして今、気付けばいつしか先頭ランナーになってしまっていたのだが、バブル絶頂期には、むしろ「(日本は世界から)すでに学ぶものはない」という傲慢で思い上がった考えが横行し始めたのである。

 その後バブル崩壊によって、そうした自信が打ち砕かれると一転して、重症の「混迷と不安、自信と目的達成意欲喪失症候群」に罹ってしまったのである。


★国家的規模での「温故知新運動」のすすめ

 ここで今始めてといえる、国家的規模での「温故知新運動」として、「バック・トゥ・ザ・トクガワ!」に取り組むことを提唱したい。

 ご存じのように昨今、省エネ意識の高まりの中で「リサイクル運動」が活溌になってきた中、江戸時代こそ世界に誇りうる「超リサイクル先進国」だったことも昨今大いに喧伝されるようになった。

 なお少し前から「江戸学」として、265年に及ぶ平和な時代「パックス・トクガワーナ」が注目されてきた。(本号記載,「感銘の1冊」『江戸の遺伝子』参照)

 「前方に目標を失ったのならば、後ろを振り返ってみよう!」という話である。
一寸考えてみるだけでも、急ぎすぎた結果失ったものの余りの多さに気付くであろう。最近ベストセラーになっている「品格本」などのブームがまさにそれを示している。

明治維新当時、新興日本をリードしてきたのは、福沢諭吉・森有礼(ありのり)・西周(あまね)などの西欧派教育者たちであった。彼らは日本語を捨てローマ字・英語を国語として採用しようとまで考える。

 そうした文明開化の波の中で、過去との決別の一端として強行したのが「廃仏毀釈」運動であり、「神社合祀」であった。その結果いかに国家的財宝が破壊され放逸し、しかも弊履の如く海外流出していったことか。

 さいわい、日本の自然環境と伝統文化の破壊を憂慮した南方熊楠や、佛教美術・芸術の破壊や海外散出に警鐘を鳴らし続けた岡倉天心などの尽力で、「廃仏毀釈」の流れは辛うじて堰き止められたのである。

 そうした経緯を踏まえて現状を見ると、やはり教育面での問題が指摘されるだろう。
 いまや日本の伝統的教育の根幹が失われ、漢字制限という愚行に加え、まるで役に立たぬ英語教育が延々と継続されてきたことか。加えて自分の頭で考える術を軽視する、丸暗記方式という進学優先教育に堕してきたか。

 ここではいささか極論的に(明治から敗戦までの)日本における、「過去との決別」を強調してきたが、誤解を防ぐために付言すれば、それでもなお日本は、伝統文化とその継続を重視してきた国柄であることはまぎれもない事実である。

 ただ敢えて「文化と文明」とに別けて考えた場合、たとえば悲惨な生活を強いられた戦後において、「物質文化から物流文明」へ、「自然から人知」への偏向を余儀なくされたように、予想以上に進んだ欧米(舶来)文明に対する憧憬が、文化継承意識を上回った結果だとも謂えるだろう


★破綻に直面したグローバリズム

 昨今の狂乱的石油価格、代替燃料としてのバイオエタノールへの移行など、アフリカを中心とした食糧難や水不足現実化の中で、まるで歯止めの掛からない状態が続いている。

 これは現在の投機市場・金融システムが、いかにいかに不条理なものかを如実に示している。果たしてこうした理不尽な仕組みがこのまま継続されて良いのか、おそらく何かのきっかけで一挙に破綻し崩壊する危険性を内蔵している。

 デリヴァテイヴの基本となる先物取引は、江戸時代世界で始めて米のリスクヘッジを目的に大阪堂島で創出された。ところが今では、本来のリスクヘッジの本質を逸脱して、行き過ぎた投機目的手段に堕しているのだ。

 こうした中において、世界経済の有力一員として、日本のなすべき事の見極めと、確固たる信念の元でのネオ・グロ-バリズム構築のために、我々は真摯に「江戸の智恵」に学ばなければならない。

  『江戸の遺伝子』と重複する部分も多いので以下割愛するが、いま日本における国家的規模での『新温故知新運動=バック・トゥ・ザ・トクガワ』こそ、喫緊の急務ではないだろうか。


*** お知らせ ***

 長らく『縄文が日本を救う!』ご愛読賜り、ありがたく厚く御礼申し上げます。

 実は今,本稿を中心として新たな構想も加え、『縄文が世界を救う!』として世に問うべく鋭意執筆中です。

 つきましては『縄文が日本を救う!』本号を持って、休筆いたしたく御通知申し上げます。

 

縄文が日本を救う!

どうする東アジア聖徳太子に学ぶ外交 2008年09月

縄文塾塾長 中村 忠之

縄文塾  

豊田 有恒著  祥伝社新書  777円

 著名なSF作家であり、かつて(手塚治虫の)「鉄腕アトム」のシナリオライターであり、ノンフィクション作家、ドキュメンタリー・ライターであり、しかもチャイナ&コリア・ウオッチャーという多彩な活躍をする著者が書き下ろした、「聖徳太子に学ぶ東アジア=チャイナ&コリアとの付き合い方」の課外教科書である。ちなみに著者は、現在島根県立大学教授として、「東アジア問題研究」を担当している。

 日本が生んだ数少ない天才のトップにランクされる聖徳太子だが、我々はその実像に関しては、まだ低い認識度にとどまっている。たとえば有名な『一七条憲法』にしても、第一条の中の「和をもって尊しとなす」という超有名な言葉しか知らない上、それさえも決して正しく認識していないと著者は指摘する。

 第一条(読み下し文)は、
  一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 の中で、「事を論(あげつら)~」は、相談=談合でなく、議論=ディベートであって、いたずらに「和する」ことを押しつけるのではなく、徹底的に議論を尽くした後に一致点=和に到達することだと謂う。

 実は同憲法の条文のほとんどが、官僚の心得を諄々と説いていることを知らせてくれることで、官僚という人たちが、飛鳥の時代から現在に至るまで、いかに狡猾で一筋縄ではいかない存在なのかわかる。特に昨今の社保庁や防衛省の醜態に代表される官僚制度の有り様を見れば、大いに納得が行くというものだ。

 また著者は太子が、我々の想像するような、「和」を第一義とした柔弱で知的な人物」ではなく、むしろ国家元首としての誇り高い気概と矜持をあわせ持った武人であったと断言する。

 その証拠として第一に挙げられるのは、随の煬帝に送ったという「日出ずる国の天子 日没する国の天子にいたす。恙なきや」という胸のすくような言葉である。当時
アジアでは、中華の国チャイナの周辺はすべて野蛮な国であって、貢ぎ物を持って天子に拝謁し、下賜品を恭しく拝受するという屈辱的な「朝貢貿易」を行うのが常であった。いわゆる「冊封制度」である。

その中でいち早くこうした軛(くびき)を脱して、「独立宣言」したのが日本であり、聖徳太子であったのだ。聖徳太子は、こうした弱腰の屈辱的関係を嫌い、同じ天子という対等の立場を確立したのである。以来日本は、この立場を堅持してきた。それが今この国には、屈辱的・隷属的関係を指向する卑屈な腰抜け政治家が多いことか。

 著者は、6世紀当時当時今と同じく、日韓関係はギクシャクしていたことを指摘する。たとえば当時半島には、高麗・新羅・百済の他、同三国に属さぬ都市国家群として伽羅(任那)があり、日本への渡来人が多かったこともあり、いわば今の「竹島」と同じような位置づけにあった。太子が伽羅に対して圧力を加える新羅に対して取った毅然とした対応と、今の腰が引けた気概も矜持もない日本外交の有り様との間のギャップがいかに大きいことか。

 これはまた今の自本政府の、朝鮮総連や従軍慰安婦問題などへの接し方にも見られるが、一体この国はなにを生き甲斐に日本の民を導こうというのかと、著者は厳しく問うている。もっともそこに著者の「聖徳太子の外交術に学べ」という「混沌の時代を乗り切る」教訓がある。

 昨今の東アジアの情勢は、依然として軍拡を続け、しかも訓練中のアメリカ艦隊のいくつのも防備システムをかいくぐって、航空母艦を攻撃可能な位置にまで潜水艦を送り込み、軍事衛星を破壊できる能力を獲得したチャイナと、ならず者国家北朝鮮と、反日政策をとり続け、限りなく北朝鮮に接近するコリアの姿がある。

 果たして今の日本に、こうした北東アジア3国に、聖徳太子の示した「毅然たる外交」の復活があるのか、見通しは限りなく暗い。

 著者は、「核にしてもロケットにしても、国家を背負って、愛国心に支えられているからこそ、北朝や中国のような途上国でも、それなりの成果が達せられる」のだが、「日本では、軍事も愛国心も、これまでタブーとされてきた」とした上で、

 身辺に男女に絡むドロドロした軋轢、叔父である崇峻帝の暗殺などを体験して、人並みに悩んだ等身大の聖徳太子が、「後進的な古代日本を率いて、国際社会に伍していけたのは、ひとえにその揺るぎなき気概と矜持を持ち続けたからだ」と謂う。

 いま大きく変わりつつある北東アジアの情勢に即応していくために、日本に必要なのは、聖徳太子のチャイナ・コリアに対する毅然とした、しかも相手の状況をよく把握し理解した上での的確な対応に学んだ、「今日的な問題化の解決にも繋がる国家としての気概の問題」だと喝破する。

 ここらで我々日本人、いい加減で「歴史を学ぶ」ことから「歴史に学ぶ」ことにシフトすべきではないか。

    <参考サイト>
 『聖徳太子の一七条憲法』(原文 読み下し 現代語訳)
  http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm

感銘の一冊

「ブッダが贈る15のことば 智慧のことばを名曲にのせて」 2008年09月

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「ブッダが贈る15のことば 智慧のことばを名曲にのせて」

オーディオブック(佼成出版社)

 ダウンロードして携帯音楽プレーヤーで聴くのは、音楽だけではありません。朗読された本、いわゆるオーディオブックも、携帯のプレイヤーと非常に相性が良いのです。たとえば本作…。
 「知恵の有無より、自分に与えられた仕事をどれだけ誠実にこなしているか」、「人と比較するのを止める」、「自分と対話し自分の人生をゆっくり歩んで行く」、「今ここを大切に」、「人に期待してばかりいず、自ら率先して行動で示す」、「自分で自分の価値を決めてしまう前に、自分の能力を最大限に活かすにはどうすれば良いか考え、アクティブに生きる」、「他人の目的のために、自分の目的を捨て去ってはならない」、「回りの意見に左右されず、真実を語り、自分のなすべきことを行う」、「勝敗という価値観を捨て、本当の安らぎとは何かを模索する」、「変化はあたりまえと腹をくくる」、「自らをよりどころとせよ」
 生きて行く勇気がわいてくるような内容が、クラシック音楽をバックにかんで含めるように語りかけられます。寝る前にベッドに横になって聴く。お昼休みに、お気に入りの喫茶店で、コーヒーカップを片手に聴く。ページをめくる必要もなく、最高の気分転換となることでしょう。

(哉)

今月の気になる本

告発のとき  IN THE VALLEY OF ELAH 2008年09月

【監督】ポール・ハギス

【出演】トミー・リー・ジョーンズ、シャリーズ・セロン、スーザン・サランドン

 イラク任務から両親の元に戻るはずの青年が、帰還直後に消息を絶ち遺体で発見された。事件の扱いに消極的な軍と警察の協力が得られない中、退役軍人の父親と一人の女性刑事がその真実を探し求める。事件に関わった兵士達の証言はまさに「藪の中」。それに翻弄される一方で、旧式の銃のような風情の父親が息子から届いたデジタル映像の謎を解く。ようやく辿り着いた真実に、映画を観る私たちは父親と同じようにそれを受け入れられず、また何を恨めばいいのかも分からない痛みを味わうことになる。
 深い悲しみの漂うこの作品を温かくしているのは、題名にも関係する女性刑事の息子が登場する場面だ。息子を亡くした父親と父親のいない息子の会話は、心の中に埋まらない隙間を抱えながら生きていくことへの諦めと希望を、静かに交感し合っているように思えた。

 (nao)

キネマ見ましょか

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