「文化」と「文明」を考える
習慣、風俗と技術開発の物質的な影響
十一月は日本列島「文化の花」の花盛り。三日の「文化の日」をきっかけに小、中、高校、大学のみならず国をあげ多彩な文化祭が催される。皇居では各界の文化功労者の表彰も。まさに季節の風物詩。戦前のこの日は明治天皇の誕生を祝う「明治節」。1948年、廃止され、「国民の祝日」―「文化の日」―になった。
ある友人がいった。「文化の日」があって「文明の日」がなぜ無いのか。また「文化」と「文明」の違いはどうなのか。
いささか返答に窮した。多分に「文化」は「文明」と同義に解釈されることがある。
「文化とは文徳で民を教化すること。世の中が開けて生活が便利になること。学問、芸術、道徳、宗教、政治などの生活形成の様式と内容―。西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び技術発展のニュアンスが強い文明と区別する。文明は文教が進んで人知の明らかなこと。主教、道徳、学芸、などの精神的所産としての狭義の文化に対し人間の技術的、物産的所産」(広辞苑)
生前、司馬遼太郎さんがいった言葉が一番分かりやすかった。
「文明は交通信号機。文化は赤になったら止まる。青になったら進む。交通道徳や」
この人はまたこんなことを話した。
「個人の文化もあれば、民族が共有する文化もある。それは慣習、習慣といってよい」
環境、風土により、それぞれの文化がある。
その文化の違いを理解することである。都会には「都会の文化」があり、田舎には「田舎の文化」がある。「文化の日」の趣旨は自由と平和を愛し文化をすすめることだという。
話は前後する。
確かに「文明の日」はない。「文化」と「文明」とは表裏一体だからか。
これまでの近代日本史からみれば、「文明」といえば、鉄道、郵便もあるだろうが、やはり電気、電力にかかわる事業だろう。(これは私の独断と偏見)と、なると電気の普及に貢献した発明王のエジソンの誕生日、1847年二月十一日を「文明の日」にしたらどうだろう。
いま私たちの生活様式は、電気エネルギーなくして考えられない。その電気エネルギーの基盤に登場していたのが、原子力エネルギー。それが東日本大地震で福島の原発事故から核汚染を誘発。一気に脱原発運動が盛り上がる破目に。原子力をめぐる賛否両論は国運を左右しかねない。日本民族の最大の課題である。「文化」が「文明」を、「文明」が「文化」を滅亡させるのか。これは人類の悲劇である。
―原子力を考えたのも人間ならその悲劇を救うのも人間―
(風彦)