社員のひとこと | 2013年10月 |
今月の写真(9) | 2013年09月 |

かわいそうな名前のかわいい花。
東広島の野鳥と自然に親しむ会 環境カウンセラー(環境省登録) 新名 俊夫
今月の言葉(9) | 2013年09月 |
「大人の知恵」 ―温故知新―
― シェイクスピアから学ぶことは―
図書館は、さまざまな「知識」と「知恵」の宝庫である。過去、現在、未来につながる人類の文化の歴史の流れを学ぶことができる。大型書店とは違った独特の雰囲気があり、存在感もある。私の利用する広島市立中央図書館には、986,369冊の蔵書があるという。そのなかの一冊に興味のある書籍をみつけた。
「シェイクスピアに学ぶ老いの知恵」。著者は英文学者、小田島雄志。知る人ぞ知るシェイクスピア研究の第一人者。「マクベス」「ハムレット」「リア王」など三十七編の作品を全訳した人。その作品を通し日常生活での人生観、人間観のエッセイ。
著書のまえがきに「今の世の中、価値の多様化(ぼくに言わせると、カオス化)が言われて久しいが、唯一絶対の価値基準などありえない時代にめぐりあわせたぼくたちにとって、シェイクスピアはよき先輩である。そしてこのような時代にどういきていけばいいか、それとなくだが示唆してくれている」(後略)
私はシェイクスピア通でもなければ、英文学者でもない。が、彼の書き綴った演劇書籍を二、三触れた程度の知識しかない。ダイジェスト版でのストーリーを知っているくらい。波乱万丈の物語もさることながら、登場する人物の台詞―。諺、格言、蔵言…の数々に興味をもつ。それらの「言葉」が人生の指針にもなるから。
手元にある古い辞典―「ことわざ故事・金言小辞典」(発行所・福音館書店)のなかでもシェイクスピアの言葉がのっている。そのなかからあげてみた。
「平和は芸術の保母」「すべての人を愛し、わずかの人を信じてなにびとにも悪をなすな」「希望は思想なり」「安心。それが人間の最も安価な敵である」―。
前述の小田島雄志先生の著書のなかに「大人の知恵」に『リア王』の劇中、リア王と道化師との会話。「年をとるのは知恵がついてからじゃないといけないんだよ」と道化師が自分を卑下するリア王に話すくだりがある。この言葉は薀蓄がある。年寄りには、それなりの「知恵」があるということでもあるまいか。
九月の「今月の言葉」―「大人の知恵」―の標題にしたのもこの月の十五日は「敬老の日」。年寄りを敬う意識を強調しようという国民の祝日。しかし急激な少子高齢化に年寄りへの風当たりも違ってきた。政府の高齢者対策にもその一端がうかがえる。経済社会の変動による福祉行政の見直しもやむをえない事情(政情)もあるだろう。が、私は高齢者の一人として考えた。
高齢者にもそれぞれの貧富の格差がある。当然、意見、異見も百出…。ここで故ケネディ米国大統領のあの有名な就任演説。「国に求めるのではなく、国のために何をすべきか」―。年老いた人でも「知恵ある人は知恵をだし、体力、気力ある人は額に汗を出す」―。この施策の環境を整備充実させるべきだろう。富の格差による社会不安の改善策の一つには、富裕者層の社会ボランティア(寄付金制度を含めて)の活動の啓蒙を。現在の若者たちも「大人の知恵」を学ぶべきだろう。
古きを尋ねて新しきを知る―「温故知新」―。である。若者たちに尊敬される「大人」になる意識をもつこと。お互いに理解し合う。そこから日本民族の再生、発展が生まれる、と確信したい。最後に「ハムレット」の有名な台詞。「TO BE OR NOT TO BE」―。(人生は、生か死か=意訳、諸説あり)
(風彦)
雑感(9) | 2013年09月 |
代表取締役 田河内秀子
8月5日に母の最期を看取った。昨年のお盆に母を特別養護老人ホームから引き取り、その後、嚥下性肺炎や腸閉塞の急変を4度の入退院で乗り越え、小規模多機能居宅サービスのスタッフの皆様に在宅介護を支えていただき、最後は家で看取る事ができ、自分としても悔いのない1年を過ごすことができた。母もきっと喜んでくれていたのではないかと思う。
不足を言えば、もっと仕事をセーブして、母と過ごす時間を少しでも長くとれると良かったのだが、やはりこの1年で会社の業績も停滞してしまったので、私の仕事にかけている情熱も半分に下がっていたのだと今になって思う。これから、この1年間の仕事のブランクを挽回しなくてはいけない。
しかし、母の介護にどっぷり浸かってみて分かることは、いかに頑張っても「一旦、人間が老いの坂道を下りだすと、誰にも止められない」という事だ。恐らく週1回見舞いに行ったくらいだと、自分のことはさておき施設でちゃんと看てくれているのかと不足や不満をもったかも知れない。嚥下性肺炎が治り病院を退院するとき、医師から「胃ろうを作りますか?」と聞かれたくらいなので、施設だったら胃ろうをしていたかも知れない。でも胃ろうもしないで最後まで自分の口で食べることが出来たので、食べることが好きな母にとってはそれも良かったのだと思う。
又、子どもや孫たちと一緒にクリスマスやお花見も出来た。これはこども達にとっても貴重な体験になったのではないか。2歳の孫は、母の寝ていた部屋に母もベッドもなくなったのをみて「曾ばぁは?」と尋ねる。「曾ばぁはお骨になって天国に行ったよ」と言うと、納得できたのかできていないかはさだかでないが、もうそれ以上は聞かない。
日常生活の中に老いや死が見えなくなって久しい。人間だれでも老いて、出来ていたことが出来なくなり、最後は大なり小なり人の手をかりないと生きていけなくなる。これからは超高齢化・多死社会になり、在宅介護が当たり前の世の中になるだろう。それを当たり前として、下の世話や食事の介助や体の清拭が誰でも軽々と出来るような、そんな能力がこれからは必要とされてくる。1860年に出版されたナイチンゲールの「看護覚え書」は、そんなすべての家族の為に書かれている。一度手に取って読んで頂きたい本だ。
身近な野鳥 「なかなか会えないゴイサギ」 | 2013年09月 |

ここのところゴイサギに出会う機会が少なくなったが、昨年、久し振りに南岩国でじっくり写真に撮れた。この時は、田んぼの畦にいていつもと変わらず不動の姿勢であった。それよりも前に会って印象に残っているのは、ホシゴイと言って全身茶褐色で羽には白い斑点がある幼鳥だったので、ゴイサギとは別の種ではないかと思われる姿であった。
しかし、成鳥は頭から背中にかけて紺色がかった艶のある黒色をしていて、羽は濃い灰色。下面は真っ白。目は赤く、後頭部から2、3本の白い紐のような冠羽が垂れ下がっている。この時は草に隠れて見えなかったが、足は黄色がかった橙色をしている。
この地に引越しして来たばかりの頃、辺りは田んぼが広がり、夜になると街灯も少なく真っ暗になった。そのような中、上空から突然「グワッ!」と一声大きな声が聞こえ、驚いたことが懐かしい。今はサギ達がめっきり減ってしまってさびしい。昔、サギ達がコロニーを形成し、集団で巣を掛けていた里山がなくなってしまったことを改めて認識させられている。
(2013年9月2日記)
タニシ君が行く! | 2013年09月 |

社員のひとこと | 2013年09月 |
11月のマラソンに向けて準備開始。まずは形から。 (國)
7月から始めました朝の飼犬との散歩。眠たさに負けず続けます。 (ht)
最近、PC用メガネがどれ程の物なのか気になっています。 (aki)
気温の変化が激しくなってきますので体調管理に気をつけましょう。 (⑨)
骨盤の歪みがひどく、仰向けがしんどいので、接骨院へ通い始めました! (デミ)
ダイオウイカの映画見ました!!海って怖いですね…。 (サン)
娘が6ヶ月になり、家に帰るとニコッと笑ってくれるようになりました。パパだと気付いてるのかな? (G)
夏は大好きですが、今年の夏はさすがの私もいつものようには遊べません。 (M)
念願だった冷蔵庫の買い替えをしました。やったー!! (朝)
今年も、また歳をとってしまう(T_T)誕生日は、うれしいような悲しいような…。 (Q)
新居は快適!!!でも蚊が多いのが・・・O型なので狙われます・・・ヘ(´_`)ヘ (お)
引越しをして通勤時間が長くなったので早起き頑張ります。 (友)
クーラーは30度設定です。 (S)
夏バテで食欲が出ず、体重が3㌔落ちました。 (山本)
夏バテしました…。早く涼しくなってほしいです。 (Y)
いまさらですが、日傘を買いました。 (香)
暑い、暑い、暑い……。 (小)
部屋がダンボールだらけです、断捨離したい。 (尚)
毛穴という毛穴から出るアセでまるで水をかぶったよう?? (モン)
家の中では熱中症の水談義。茶かジュースか単なる水か?ん、ビールは?NOでした。 (よし爺)
一時的に車通勤に戻りました。9月からまた頑張ります。 (高)
「たぶん」と「微妙」しか言わない高校生であった。 (北)
10月20日(日)に広島みなと公園でお祭りやります!みんな遊びに来てね!! (伸)
今年は、エアコンをほぼ24時間つけっぱなし。世間は節電を言わず、熱中症の予防にはエアコンと言っている。原発なしでも大丈夫って事? (秀)
今月の写真(8) | 2013年08月 |

墓前を飾る盆花。
東広島の野鳥と自然に親しむ会 環境カウンセラー(環境省登録) 新名 俊夫
今月の言葉(8) | 2013年08月 |
「明日への伝言」―
― 八月の記憶を語り続けよう
青い空には、深い悲しみがある。八月は「日本の祥月命日」―。あの日から六十八年の歳月が過ぎた。
昭和二十年。一九四五年八月。
六日は広島に原爆が投下され、十数万の人が犠牲に。九日は長崎にも…。人類史上はじめての原爆被爆…。さらに十五日には天皇の「玉音」による敗戦…。「耐えがたきを耐えた」“軍国日本”の終幕だった。あの当時の日本の悲劇を知り、語る人たちも高齢化し少なくなった。
世代は無情にも変わった。七十年間、草木も生えないと言われた廃墟の街は「緑の街」と生まれ変わり、「平和都市」に。しかし、国内外の動向は、「ノーモア・ヒロシマ」の声をよそに、いまもなお原子エネルギーをめぐる論議が絶えない。
過日、「道頓堀の雨に別れて以来なり」
―川柳作家・岸本水府とその時代―(田辺聖子著)を読んだ。広島在住の被爆者で川柳作家・森脇幽香里さん(故人)の作品に当時の光景を思いだし胸がつまり、目頭が熱くなった。
「生きていた名前を橋に書いて死に」
「ヒロシマの水漬く屍となった川」
森脇幽香里さんは、ご主人の海外勤務とともにスイス、アメリカ、オーストラリアで海外生活。現地での川柳指導を。広島に帰国後は、川柳作家として後進の指導に情熱を傾け、広島文化賞(平成十一年度)も。被爆者の鎮魂句集「捧げる」「きのこ雲」などを編んだ。
川柳のみならず、文学、文芸、映画、音楽、絵画などそれぞれの人が、それぞれの立場で原爆被爆の惨状を訴えた作品も数多くある。
広島の悲劇は過去のものではない。しかし、歳月は人の記憶を風化させる。
「ノーモア・ヒロシマ」を叫び、「原爆許すまじ」を熱唱した、あの若者たちのエネルギーもいつのまにか、霧消してしまった。被爆当時、私は中学三年生。父親は出勤途中、被爆。その父親を探すため、郊外から入市。廃墟と化した街…。さながら地獄絵図…。その光景をみた。思い出すことも、語ることもいやだった。
それが五十年過ぎたころ、ある友人が、私の新聞記者時代での被爆者取材体験を話したことがきっかけとなり、東京から広島に修学旅行を兼ねて平和学習のためやって来る雙葉女子中学生、日本女子大付属中各三年生に語り続ける。もう十年になる。
「被爆胎児の少年の死」―。これが話のタイトル。被爆直後、肉親の安否をたずねた母親(妊娠五か月)から生まれた元気な男児が小学五年生の秋の運動会後、身体の不調を訴え、原爆症による「骨髄性白血病」で亡くなった話。原爆の脅威は破壊力だけではなく、「核」による放射能の影響…。
原子エネルギーは両刃の剣であることを説く。一昨年の福島原発事故による放射能禍が続いているだけに、彼女たちは涙ぐみながら聞き入ってくれる。
この話には後日譚(談)があり一篇のドキュメンタリーである。
私は彼女たちに、手作りの冊子―「明日への伝言」―を配り、友人、家族にも伝えてほしい、と伝える。お願いでもある。彼女たちは後日、決まって感想文を送ってくる。私は一人ひとりにまた返信をする。語ることの意味と使命を感じるのである。
「骨壺の子も聞け/虫も泣いている」
これは当時、この少年を取材した写真家・土門拳さん(故人)が遺族へ贈った哀悼の色紙。いまも仏壇に供えてある。
(風彦)
雑感(8) | 2013年08月 |
代表取締役 田河内秀子
また新しい期がやってきた。今期は31期。法人化の前の個人事業の時期が8年あるので創業39年になるわけだ。来期は開業40周年の記念すべき年になる。長いような、あっという間だったような、よく生き残っていけたなと感慨もひとしおだ。ピーター・ドラッガーは「企業の第一の責任は存続させること」と言っている。現在社員数24名、31期は新卒内定者も既に決まっているので、30名にそろそろ手が届きそうだ。65歳で後継者へのバトンタッチと決めた計画も目の前に迫っている。やるべきことが山積の状態で、家に帰ると母の介護。所属している中小企業家同友会では、380名会員のいる支部の長として責任を果たせない日々に申し訳ないと思いながら、出来ることを何とかこなしている。
しかし、自分が手を引いた後も会社が発展し続け、所属している会も発展し続けるような仕組みを作るというのは一筋縄にはいかない。
会社にしても、同友会にしても、要は所属している構成員が、自分で考え、自分で動き、やるべきことをやっていく体制をつくる事に尽きるわけだが、あきれるほど次々に問題が起こる。要は人の問題なのだが、本人の怪我や病気、家族の怪我や病気、生きている人間である以上避けられない事ばかりだ。そして人間の集合体である組織は、いつも何か問題を抱えているのが当たり前なので、それをどう解釈し、人間理解を深めていき、少々何があっても大丈夫なような仕組みにしていかなければならない。
7月は3日間ほど17歳のインターンシップの男子高校生が来た。最後の面接で、「どうだった」と話を聞いた。彼は「印刷も、制作も、営業も仕事が繋がっていて、どれも簡単な仕事はないと思った」そんな素朴な感想を持つ彼に、「そうよ、どんな仕事も簡単ではないのよ。今学校で勉強している事が大事なのよ。それからしっかり本を読む事、尊敬できる人を見つけること」と、話したが、彼はそんな事は今まで誰からも聞いたことがなかったと言っていた。40年後彼は57歳。どんな人生を送るだろうか、私が話したことが、少しは役に立つだろうか。それにしても、40周年を迎えるまでにやるべきことをやらなければ…